お知らせ
「西瓜鯨油社」としての活動は今後もないのでブログ記事を非公開設定にした。

主な電子所在は夕立鯨油です。
このブログの旧記事資料庫:internet archive (表示に時間がかかります)

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# by suikageiju | 2016-06-30 10:50 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
古書ビビビに俳句誌などを納品した。
古書ビビビさんとは下北沢の茶沢通り沿い、ザ・スズナリ近くにある古本屋さんだ。そこへ第十九回文学フリマでも販売した俳句誌『逃避癖のための句誌</haiku id="02">羇旅』のほか小説本『日曜日の娘たちは星々をシャワーヘッドの穴だと信じている』『南武枝線』を新しく納品した。もう買える状態にある。
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ついでに新しくポップを作り置いてもらった。そのポップには『逃避癖のための句誌</haiku id="02">羇旅』の掲載句を6句選んで短冊を作り貼った。この句の選出にあたっては投句者内の互選を行った。どんな句が選ばれたかはぜひ下北沢へ足を運んで確かめてみてほしい。またここには文庫フリマのほか文学フリマ関連の『山吹色外典』や『墨妖』も置いてある。毎週火曜日定休日だが平日も夜9時まで開いている。仕事帰りにぜひ。
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# by suikageiju | 2014-11-30 19:29 | 古書ビビビ | Trackback | Comments(0)
古書ビビビに『日曜日の娘たちは星々をシャワーヘッドの穴だと信じている』を納品する
 下北沢は茶沢通り沿い、ザ・スズナリちかくにある古書ビビビさんから『受取拒絶』完売の知らせを受けた。『受取拒絶』は手持ち分がもうないので、大阪で販売した最新刊『日曜日の娘たちは星々をシャワーヘッドの穴だと信じている』を納品した。
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 ほかの委託本と同じように幅広の帯をつけたので美麗な表紙が半分以上隠れてしまったけれど、表紙がどんなものか気になる人はぜひ下北沢に足を運んで見本誌の下を見てほしい。
 ちなみにポップの惹句は「やめて、お父さん」である。

 『日曜日の娘たちは星々をシャワーヘッドの穴だと信じている』以外にも古書ビビビさんには『南武枝線』や『逃避癖のための句誌</haiku id="01">』を委託してある。その他、文庫フリマも絶賛開催中だ。
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# by suikageiju | 2014-09-24 23:23 | 古書ビビビ | Trackback | Comments(0)
第二回文学フリマ大阪報告
自菟餓野、有聞鹿鳴(『日本書紀』仁徳天皇卅八年)

12日(金)
 金曜日、代々木のカフェ・ロリータで「夜の暦」を終えた。人形写真と膝裏写真の共通項を抱えながら、夜行バスで大阪へ向かった。車内はひどく人の臭いがした。

13日(土)
 翌朝、天王寺動物公園前に降り立った鯨は天王寺駅のツリーカフェで朝食をとった。それから兎我野町にあるホテルに荷物を預けた。そこは犬尾春陽さんに勧められた宿泊地である。仁徳天皇の難波高津宮は今の大阪城のあたり、和泉国から「河内海」へ北に突き出るように伸びた細長い半島の中核「上町台地」の北端にあったとされる。兎我野は難波高津宮の北、崖を下りたところに広がる狩猟のための原野であったのだろう。かつては日本書紀に書かれたように鹿がいたのか。そんな古代の難波へ思いを馳せながら今宮へ向かい午前十時のスパワールドで汗を流した。

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 自由軒で名物カレーを食べた後、昭和町の金魚カフェにて金魚鉢でメロンソーダを啜って情報収集をしていると千日前の丸福珈琲店で「宵の暦」が立つことを思い出した。鯨は御堂筋線でなんば駅へ向かい、歩いて丸福にたどり着いた。店内には誰もいなかったので外で待っていると高村暦女史がやってきた。女史も今朝大阪に着いて昼から青波零也女史と水族館へ行ってきたらしい。店内の突き当りを右に折れた奥、マフィア映画で殺される奴が座っているような席に座り、遅れてきた詩架の容女史と「宵の暦」をした。容女史の発する「知的な大阪弁」に聞き惚れた。
 その後、ホテルにチェックインをし、午後八時過ぎに日本橋の味園ビルにあるデジタルカフェスクリプトにログインした。鯨がその日最初の客だった。そこで第二回文学フリマ大阪前夜祭が開催される。前日に大阪入りした日本人のための集会である。鯨のログイン後すぐ入った真乃晴花さんとそのBL師匠の3人で前夜祭をはじめる。数分して、じゅりいさん、北西彩さんと伊織さんがログイン。20分後に高村暦女史がログイン。21時、同じ建物の赤狼にいた東京の文学フリマ事務局の望月代表を呼びにいった。腸詰を賞味されていた。しばらくして全日本わかば愛好会の森井聖大さんとJ島さんがログイン、そこへ望月代表がログインした。これで10人となった。じゅりいさんと真乃さんがタロット占いをはじめ、望月代表と森井御大が文学フリマのありかたと広告のありかたについて議論をはじめた。森井御大の理想は愛すべきものだけど、実践者望月代表の前では形無しだった。その後、永遠の底五<泉由良>が11人目としてログインした。上住初采配の設営に不安を持っていた鯨は、翌朝のため午後11時に前夜祭を解散した。

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14日(日)
 午前9時からはじまった設営は無事に済みそうだった。搬入された段ボールを仕分けているとき、カタログの入った段ボールを受付に運んだ。「これが文学フリマ大阪のカタログか、どんな表紙だろう」と思いながら運んだ。ブースナンバーを貼り、アンケートを配り終えて受付に戻ったとき、数人の大人たちがカタログを見ていた。戯画化された太陽の塔が笑っていた。ひどい落丁があった。最初の数ページが空白となっていたのだ。西瓜鯨油社のサークル紹介文も載っていなかった。書籍工暦の高村女史が設営に参加していたことを思い出した。鯨は独自の判断で設営の指揮を執る女史の近くに寄った。
「今、カタログのデータを持っていますか」
「なぜですか」
 高村女史は首を傾げた。
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 傀儡舞で始まった第二回文学フリマ大阪が終わった。ひどく疲れたので中百舌鳥を離れ、ホテルに戦利品を預けた。ホテルから歩いて行ける中崎町の珈琲舎・書肆アラビクでその日購入した俳句の本を読む。文学フリマが終わったら落ち着ける場所で、その日購った本を静かに読むことをお勧めする。それは真剣に本を書いている作家たちへ示す敬意のひとつだ。
 電話が架かってきた。飲み会への誘いである。一度は断ったが、断りきれなかった。急いでケーキを頬張り、珈琲を流し込んだ。本を閉じた。
 指定されたHUBなんばダ・オーレ店へ行くと誰もいなかった。ひどいことをされたのだと思った。アスポールドラフトサフォークサイダーの瓶を買い、一人でテーブルに座って飲んだ。コップに入れた分を飲み干してもまだ誰も来ない。瓶を傾けてまたコップを飲み干しても来なかった。あきらめて帰ろうとしたとき、やって来た。ヤツらが!
 鯨が座っていたテーブルに呑気な3人組、秋山真琴<泉由良>高村暦が腰かけた。鯨鳥三日の2Pキャラを思い浮かべれば妥当だ。しばらく飲んでいると上住断靭、猿川西瓜、尾崎、そしてもう一人が来店した。円卓で犯人が数回踊ったら、別の店へ移動した。ここら辺からあまり記憶がない。佐藤現象といえる。どうやら薄荷塔ニッキによればそのよくわからない店で連歌をしていたらしい。
秋の水鎖骨にたまる泉由良(発句)
赤蜻蛉時速五キロの逃避行(<まだ見ぬ友の背を負いて見る>からの)
実らずの栗の花咲く岸辺にて(<童貞野郎の熱き思いを>からの)

 などが鯨の担当だったと記憶している。
 気づいたらなんばの町を歩いていたので御堂筋線で兎我野町へ帰った。胸ポケットにはいつ買ったのか黄色いアメスピとくまもんのライターが入っていた。14日の締めくくりとして、キタでそのアメスピを一本喫んだ。

15日(月)
 兎我野町から中崎町へ行くと喫茶Yは定休日だった。幼い4人姉妹が父親に取り残された喫茶店で朝食を済ませた。天神橋筋六丁目駅から阪急線に乗り終点の京都・河原町近くの築地で一服した。
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 夕方、京都駅から新幹線ひかりの3号車で帰った。もしかしたら同じ新幹線の2号車には犬尾春陽さんが乗っていたかもしれない、と思った。
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# by suikageiju | 2014-09-17 21:13 | 大阪 | Trackback(1) | Comments(0)
第二回文学フリマ大阪前夜祭
 前回の第十六回文学フリマ同様、第二回文学フリマ大阪でも西瓜鯨油社は文学フリマ前日に入阪する。
 なので前夜は20時くらいから味園ビル2Fのデジタルカフェにいると思う。
 人が集まれば前夜祭になるだろう。「鯨ナイト」として人口に膾炙していたあのことだ。数人くらいの集まりならば文学を祭る。織田作之助を祭る。

行き暮れてここが思案の善哉かな 作之助

 祭であって会ではない。みんな子供じゃないし大人なので人数の集計もしない。自主的にただ来て、飲んで、話して、飲み代を払って帰るだけだ。それだけでいい。それ以上は不要だろう。何をやっても自由だ。突然句会がはじまるかもしれない。いきなりボードゲームかもしれない。疲れたら眠れ。小うるさい人が集まれば唐突に文芸批評会かもしれないが我慢しろ。参加者次第。

9月13日(土)20時
味園ビル2F デジタルカフェスクリプトにて


 その翌日14日(日)は第二回文学フリマ大阪

前回の様子
大阪文学フリマ前夜祭報告
第十六回文学フリマin大阪を過ぎても [上] [中][下]
大阪文学フリマ外伝ー鯨ナイト前編ー
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# by suikageiju | 2014-07-22 23:34 | 大阪 | Trackback | Comments(0)
古書ビビビに俳句誌を納品
 古書ビビビさんは下北沢の茶沢通り沿い、ザ・スズナリ近くにある古本屋さんだ。そこへ逃避癖のための句誌</haiku id="01">を納品した。「普段散文を書いている首都圏の作家」による俳句71句と掌篇9篇、それと墓碑銘を収録した句誌、その創刊号だ。在庫がある限り下北沢で購入できる。
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 鯨お手製ポップとともに。

 句誌に寄稿していただいた栗山真太朗さん、高村暦さん、山本清風さんはいずれも著作を古書ビビビに委託している。彼らの本を買うついでに句誌も手に取って欲しい。句誌を手に取るついでに彼らの本も手に取って欲しい。
 その他この句誌には霜月みつかさん、鳥久保咲人さん、太田和彦さんから寄稿をいただいた。
 俳句は短詩であり言葉数は少ないんだけれど、そのかわり言葉ひとつひとつが大きな意味を持ってくる。たった十七音が長篇一万枚に匹敵する情報量を持つこともある。定型詩の面白さをこの句誌で分かってくれたら嬉しいね。








 2014年9月に堺市北区中百舌鳥で開催される第二回文学フリマ大阪へもこの句誌を持っていきます。

 徳川龍之介店長原作、齋藤裕之介さん作画のマンガ『トーキョー・ベイ』も販売中。タモリが怪獣と戦うよ。

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# by suikageiju | 2014-06-15 10:02 | 古書ビビビ | Trackback | Comments(0)
第3回福岡ポエイチ報告
「書いている文章とは違う人ですね」と二度言われ。

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 6月7日(土)と8日(日)に、福岡県福岡市博多区の冷泉荘で第3回福岡ポエイチが開催され、西瓜鯨油社は両日ともに参加した。福岡ポエイチは第1回から計3回5日間開催され弊社はその全日程に参加している。それほどまでに牟礼鯨は福岡ポエイチが好きなのだ。殺伐かつ軽薄な人間どもの集いである文学フリマにはない、福岡ポエイチの家族的で和やかな雰囲気が好きなのだ。今回は小説や物語だけでなく、文学フリマなどに参加する作家7人の俳句・掌編・墓碑銘を収録した句誌を頒布した。でも俳句はジャンルとして所謂「詩」ではなかったみたい。それでも11月には次号を刊行する予定だ。俳句から「逃避癖の言葉」としての徘句へ、首都圏からはるか成層圏へ。
詩人「俳句はよくわからなくて」

 福岡ポエイチでは他にも20余のブースがあり毎日100人をこえる来場者があった。ブースには将棋文芸誌や自由律俳句誌、小説、統合失調症の本、高橋しか登場しない歌集、精神科病院の歌集、現代アジア社会を描いた小説、詩集と詩集と歌集と歌集が頒布されていた。そして数人の美女と美少女がいた。無名な詩人が吐いた言葉でも有名な詩人のこさえた言葉でもかまわない、ただ言葉を欲している人がいてそれに見合った詩句が置いてあり、買える。そんな幸福な市場が福岡市の博多川端にある。
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 福岡ポエイチは実行委員会とサークルと来場者とゲストの距離が近い。文学フリマ程度で「内輪」とか「文壇」とか発言する気負いが気恥ずかしくなるくらいに。でも福岡ポエイチには大塚英志がいない。だから詩壇と歌壇とオフ会が入り乱れた福岡ポエイチはこのままであるべきだし、このままで楽しめる。第4回からゲストパフォーマンスだけではないサークル参加者オープンマイクが始まることを期待している。
 1日目は打ち上げに参加せず、仮眠後に薬院大通のRead cafeへ赴いて福岡の地方出版事情に触れた。2日目には詩人たちとの打ち上げに参加した。長卓の端っこ喫煙者集団のなかにいて、夏野さんや三角さんやとある患者さんや森井さんや1984年生まれの高森先生や1983年生まれの売り子さんと駄弁っていた。その打ち上げ後には森井御大と明治通り沿いのブルックリンパーラーに入って文学フリマや小柳日向などについて話したあと、中津へ帰る御大を中洲川端駅で見送った。
ヒモとなったり親の脛をかじったりしながら文学活動を続けていく。それが現代文芸の一つのゴールなのかもしれないな。

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 福岡ポエイチ後の6月9日には福岡アジア美術館を訪れ常設展ギャラリーで2日目のゲスト三角みづ紀さんに遇い、中洲ぜんざいを食べたあと福岡空港へ向かった。去年と同じく保安検査場でひっかかりカッターナイフだけ入れた段ボールを預けた。そして遅延した飛行機で東京に帰る。
 この福岡行で有益な情報を仕入れることができたので2015年初頭までの西瓜鯨油社の方向性が決まった。そのことだけでも有意義な遠征であった。
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# by suikageiju | 2014-06-09 23:01 | 福岡 | Trackback | Comments(0)
町中の当代詩人
 町中をぶらぶら歩いているときに強烈に惹きつけられた言葉群を「当代詩」と呼び、それを編み出した詩人を「当代詩人」と呼んで紹介する。現代詩ではない理由はお察し下さい。

笑顔で譲り合ひ smaill and HAPPY
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(世田谷区宮坂) 梶山と名乗る当代詩人の作品。「顔」や「譲り合ひ」という旧字旧仮名と小文字大文字が混在した英文とがよく調和している。「smaill」は「smile」のことだろうか。学校英語が泣いている。なんとなく終戦直後の匂いもある。駐車場御利用申込受付の上にこんなハイセンス標語を掲げる地主・梶山氏は何者なのか? 現在鋭意調査中である。

汚文字漢字多数案内ですが色々困ってして一緒に働きましょう。
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(渋谷区神山町) 渋谷Bunkamuraから代々木公園の方へ伸びる道沿いにあるコンビニエンスストア・ローソンの求人広告。たぶん店長が漢字圏出身のバイト君こと当代詩人に書かせたのだろう謎文句が並ぶ。「汚文字漢字」の「汚」が「文字漢字」を修飾しているとしたら「文字」とは何を指すのか、興味深い。そして一番上の「求人深夜勤務希望集う」が前向きで好ましい。非母語話者による日本語使用の一例でもある。

調整中調整中調整中調整中調整中調整中
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(飯田橋駅) 超大手企業内当代詩人の登場である。一瞬どこかの中学校の応援幕かと思った。もちろん消費税増税に際して「間違い」となってしまった運賃表を隠すという実用のためのデザインであるが、一種の狂気さえも孕む。「作業中」や「工事中」ではなく「調整中」という文言を選んだセンスが当代詩にふさわしい。実直さゆえの狂気とでも言えばおさまりがつくか。

圏外活動
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(千代田区神田神保町) きっとどこかのよくわからない集団が貼っているステッカーのひとつ。町の隅っこ、物陰にある死角、多くの人が見ているはずなのに意識に留めないあたり、記憶と想像力の盲点、そこに暗号めいたものを嗅ぎ取って足をとめてしまい、読んだり撮ったりする。そしてこの町と違う町で同じステッカーを見つけたとすると、何かその尻尾をつかんだような、気になる。その誘い水が当代詩となって。

この男は三浦春馬の偽物で変質狂人ストーカー犯罪死刑囚の修正しまくったバケモノが本当の姿です。
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(文京区向丘) 町中を歩いていると掲示板やアパートの門や家の塀にびっしりと文字の書き込まれた貼紙を見ることがある。その貼紙にびっしりと書き込まれた文字はたいてい何事かを訴えかけようとしている。何も訴えようとしていない人はそんな貼紙は出さない。まず何か訴えるものがある、それだけでもうその人は当代詩人と言える。そこに書かれている内容がいかに狂気に充ちていて、根拠も論理もなくて、どうしようもない便所のチリ紙程度の内容であったとしても訴えかけようとする意志だけでその文章は当代詩だ。当代詩人は歓迎しないけれど当代詩だけは歓迎だ。

そんな執念に充ちた当代詩をもうひとつ。

私は六年前に狭心症と大動脈瘤の手
術を同時に受けた八十六歳の一人暮らしの老
人です。厚生年金を頼よりに細々と生活
して居るのです。それが一寸したスキを狙れ
て葬式代の足しにと一生懸命に貯めた
大切な金を盗まれた。クヤシクてクヤシクて夜
も仲々眠れない。犯人はだいたい分かっている
が手元も見ないので捕らえる事が出来ず
に居る。だから犯人が早く姿を消す
ことだけを神佛に祈りつづけている

人間て!!正直なもんだ
犯人の奴も事件の前と今
では毎日の生活態度が
一変して居る。被害者の俺より
後悟の気持で苦しんでいる
ようだ 大馬鹿野郎!!

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(世田谷区千歳台) 「人間て!!正直なもんだ」という八十六歳老人の快哉が天まで届けと木霊する。呪詛で貫かれた内容、そして最後の「大馬鹿野郎!!」が気持ち良い。この古アパートの木戸に貼られた2枚1組の貼紙は当代詩の傑作と言える。一年のうち何度も画像を取り出して読んでしまう。この老人の心持ちだけは忘れてはならない。その心持ちが当代詩を生む。
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# by suikageiju | 2014-05-26 22:25 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
文学フリマ非公式ガイドブックは文壇なのか?
 第4版まで編集に関わっていた文学フリマ非公式ガイドブックについて言及したTweetが流れてきた。

 カオスカオスブックスの富永夏海さんのtweetである。富永氏はおもしろい感性で言葉を綴る作家さんだ。ふと、第十八回文学フリマの朝に二階の踊り場で彼女に会ったので「あ、でかい人だ」と挨拶したら「でかくないっ」と言って去ってしまわれたことを思い出した。それはともかく新刊『赤の素描』も言葉選びのセンスといつものことながら装丁が良かった。「読書好き」よりも「本好き」向けの本である。
 上に引用した富永氏のtweetはよく言われる「文学フリマ非公式ガイドブック=文壇」論の一種である。第十七回文学フリマ直後にも同様の意見があった。

 文壇という言葉は本来、文芸界隈くらいの意味しか持たない。しかし、この言葉は《出版社の正社員・編集者》《築地の料亭》《銀座》《祇園》《渡辺淳一》などの事象と結びつくと特権的なイメージを持つ。しかし残念ながら文学フリマ非公式ガイドブックはそのような事象とは繋がりがない、不幸にも。せいぜい《地域広報誌のアルバイト》《新宿の居酒屋「海峡」》《珈琲西武》《森井聖大》くらいだ。なので富永氏のtweetは同じく第十七回文学フリマ直後に発生した「内輪」論と同じような自己愛的な趣旨を持っていると考えられる。つまり文芸界隈にズブズブ浸かっている文学フリマ非公式ガイドブックにとっては定期的な行事なのだ。


 鯨が今回の「文壇」論は「内輪」論と趣旨は同じと考える根拠は富永氏の続きtweetに書いてある。



 実際に富永氏は「内輪」という言葉を使っていることから、おそらく「内輪」という意味で「文壇」という言葉を使ったのだと考えられる。また特権的な「文壇」を嫌いながらも「メジャーな作家さんを読んでトークイベント」なんて「文壇」的な行為をイベントを面白くするための方策として挙げている矛盾も、氏が「文壇」を「内輪」の別名として選んだこと、そしてそれが憤怒の表現として選択された過剰語であるという考えの根拠となる。

 また、富永氏はご自身の作品への評定文を気にされている。そこで新しい『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド2014年春』を開いて読むと富永夏海氏の『アバガス』が掲載されていた。その評定文は以下の通りだ。
山川夜高:とにかく物体価値は最高。執拗な装丁に執拗な文体を貫き通す作品の強い意志に好感を抱いた。だけどその先は? と、どこか疑いが浮んでしまう。手放しには喜べない。
渋澤怜:夢追い系サブカル男女(我々!)が「自分のこと書かれていると思っちゃう系」小説としては一級品。しかし良くも悪くもそれ以上でもそれ以下でもなく毒にも薬にもならないので要注意ね。
高村暦:誰もが作り・消費する時代への食傷。這うように書くハサミの姿は映画で観たい。夢に恋し、夢に行き着く彼女を救うのは「どうでもいいことばかり書く」アンドレ・ブルトンなのでは。

 鯨としては山川さんがそれ言っちゃう?とか高村女史イミフとか渋澤怜だ~鯨はトライポフォビアなんで~怖いよ~(主旨と関係ない)とか色々あるけれど、三者ともある程度作品をよく読み込んで評定文を書いている。そして、どちらかと言えばネガティブな意味も含ませた評定文である。ただ、富永氏が「わたしたちの本をリコメンドしてくださった、その方にはたいへん感謝していて、とても嬉しくおもった。」と書いた伊藤なむあひ氏の推薦文も「文章が気持ち良い」と書いてあるものの山川氏が言及した「その先は?」や小説的展開については言及していない。この「違い」によって、つまり推薦した伊藤なむあひ氏が言及しなかった部分を評定文が補完することで『アバガス』の推薦頁は全体として連携がとれている。なのになぜ富永氏は推薦文については「感謝し」「嬉しくおもっ」て、評定文に「引っかかった」のだろうか?

 頒布された時点で『アバカス』はすでに富永氏から切り離され、読者の手に渡っている。富永氏が「引っかかった」のは、その子離れをまだご自身で受け入れていないからだ。

 評定制度は第4版から始まった。これは推薦文=リコメンドだけではガイドブックたりえないという考え、そしてその作品を推薦しなかった人の評を載せることで『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド』上で複数人の「主観」の「違い」を載せて読みの多様性を表現し『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド』をガイドブックたらしめようという考えに基づいている。
「非公式ガイド」 の名で親しまれる、あるいは嫌われるこの本を、私たちは《主観の提供》という名目で、懲りずにまた差しだそうと思う。私たちが手にすることのできた数少ない物品の中から、主観で選択し、主観で紹介する。それはどうあってもあなたの主観ではなくて、あくまでも彼や彼女の主観、そして私たちや私の主観だ。けれど、その「違い」から、またさらに別の「作品」を作りだせはしないか、というのが、非公式ガイド の問いかけなのだ。――高村暦「文学フリマ非公式ガイドブック第2宣言」

 このような第4版と最新刊の『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド2014年春』での試みは、作家の子離れをうながし、作品を批評によって作家と切り離そうとする企みである。そして、その企みの継続と徹底でしか文学フリマの内輪感や閉塞感の打破はありえないと信じるゆえの行為である。というのはいわゆる「内輪」や「文壇」と揶揄されるような文学フリマの閉塞感は根深く、そのイベントの枠を超越し、19世紀末~20世紀初頭にロマン主義が「物語」に終止符を打って以降、作家と作品を繋げる、ともすれば作家を作品よりも偏重する世界の文学傾向に基づいているからだ。
人が作家になるのは特別な才能があるからではなくて、不幸にして他の仕事ができなかったからであり、孤独な仕事を通じて得られるのは、靴職人が靴を作っていただく報酬と同じであって、それ以上の褒賞や特権を手にするべきではないと考えてきました。「あなた方がおられるので」ガブリエル・ガルシア=マルケス、カラカス、1972年

 このように20世紀後半に故ガルシア=マルケスが忌避した作家偏重の傾向が東洋の島国日本でも、特権的ないわゆる「文壇」を形成した。それは現代でも継続している。

林真理子さん「文壇が崩壊してしまうほどの衝撃」

渡辺淳一さんと30年にわたって交流を続けてきた作家の林真理子さんは「お年を召して大御所になってからもベストセラー作家であり続けるという信じられないような方でした。女性もお酒もおいしいものも大好きで、そういうことがすべて作家としての糧になると信じていたのだと思います。渡辺先生と一緒にいると作家であることの喜びや楽しさを感じることができました。今の私があるのも渡辺先生のおかげで、さみしさでいっぱいです」と渡辺さんの死を悼んでいました。
また、「本が売れず出版業界が大きな試練を迎えているなかでリーダーがいなくなり、とても困ってしまう。1人の作家が亡くなったというだけでは済まされないくらいで、文壇が崩壊してしまうほどの衝撃があります」と声を詰まらせながら話していました。作家の渡辺淳一さん死去

 なぜ作家が死んでも作品が遺るのに文壇が崩壊するのだろうか。知人の死で取り乱している故の言だろうか。それとも、これは作家を偏重していて、個々の作品で価値を判断していない時代の名残りに囚われているからなのだろうか。きっと、渡辺淳一が不老不死でも出版業界の試練は続いただろう。そんな構造的試練に直面している出版業界と同じことを文学フリマという自由な市場でやっても仕方がない。もっと良い方法がある。

 閉塞感を抜け出したいのならとりあえずは「作者の考え」と「読者の考え」が等価であることを認めるべきである。たとえ、作者が考える読み方であっても、他の「読者の考え」と同じ、そして偶然にも最初の読者に選ばれた人の読み方として捉えるべきである。そして不幸にも「文壇」=文芸界隈に属している文学フリマの作家たちが、しかしこの自由市場でいち早く改宗し自己愛的な「作者の考え」偏重を遠ざけるべきである。その先で、作家と作品の幸福な切り離しを図ろう。そうなればやっと作家の名前は責任の所在のみを示すようになる。文学フリマがそこまで到達すれば、この閉塞感に満ちた文芸界隈も今までには無かった形をとって息を吹き返すかも知れない。それは文学フリマというモデルケースに従って、という目を疑うような形で。

 音楽もデザインもアートも、特に音楽とデザインはガルシア=マルケスの言う「靴職人」の「靴」に近い状態になっている。しかし「文学」はまだ「靴」にもなっていない。ただの鞣革、しかも作者の人皮装丁だ。文学が閉塞的であると気付いている富永氏なら、いつか自身の作品の子離れを受け入れる日が来ると信じている。その時、ご自身が作品との間に結んだ「文壇」的な癒着関係から解放されるはずだ。きっと打破できる。それは富永氏にとっての救済となるし、彼女が文学フリマというイベント並びに文芸界隈を導く存在となる第一歩となる。

文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド編集員会側の見解
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# by suikageiju | 2014-05-06 23:11 | 文学フリマ | Trackback | Comments(2)
ジョアン・フォンクベルタの視覚による悪ふざけ
 さて、今日の勝手にフランス語を訳す企画はLe Mondeの新聞記事、ヨーロッパ写真館で開催されていたジョン・フォンクベルタのカモフラージュ展についての記事の無料で読める部分だけだ。

展示会を訪問して笑い声が鳴り響くのはそうありふれたことではない。ヨーロッパ写真館での、部屋から部屋へと虚構の悪ふざけをぶらつく、抜け目なく笑いをとるスペイン人、ジョン・フォンクベルタの展示会では笑い声にしかめっ面を見せるなんてとんでもないことだ。

地下階にある美術館の丸天井では絶滅種を発見した学者の研究が展示されている。その文書、新聞記事、科学的写真は足取りの真剣さを証明している。ケンタウロス、ユニコーン、グリフォンなどとの強い類似が示されている問題のある動物を除いて、全て。

 ちょっと文の構造が複雑だった。

原文
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# by suikageiju | 2014-04-29 08:29 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
第十八回文学フリマとCOMITIA108を効果的に連絡する双方向ハシゴ方式
 2014年5月5日(月祝)、有明の東京ビッグサイトこと国際展示場で自主製作漫画誌展示即売会COMITIA108が、その同日に平和島の東京流通センターで創作文芸・評論オンリーの同人誌即売会、第十八回文学フリマが開催される。論を俟たずして逃避癖の文学結社・西瓜鯨油社は第十八回文学フリマに参加する

 東京湾岸部で、創作文芸サークルが参加しそうな同人誌即売会が同日開催されることで、2つのイベントを連絡して一般参加をする人、いわゆるハシゴをする一般参加者が出てくるだろう。都合の良いことに両イベント間には路線が通っており、ビッグサイトの最寄り駅であるりんかい線国際展示場駅と東京流通センターの最寄り駅である東京モノレール流通センター駅は、天王洲アイル駅で乗り換えれば534円25分以内で行ける。歩行時間も含めれば50分もかからない。
 ハシゴといえば午後2時前までどちらか一方の同人誌即売会に滞在して、午後2時半には別の同人誌即売会に移る、という片方向ハシゴ方式が一般に流布している定番だけれど、その方式だと前半で帰ってしまうサークルさん、後半から遅れて参加するサークルさんの本を買えなくなる危険がある。そのため、どちらの同人誌即売会にも前半と後半それぞれに少なくとも一回は訪れる双方向ハシゴ方式を採用する世界基準の一般参加者が増えている。そのうち、ISOも取得するだろう。そこで、第十八回文学フリマは閉幕17時とCOMITIA108より1時間長く会が続くことを考慮し、前半は(開幕)COMITIA108→第十八回文学フリマ、後半は第十八回文学フリマ→COMITIA108→第十八回文学フリマ(閉幕)という双方向ハシゴ方式を採用すれば効果的だろう。決して効率的ではないけれど。

 双方向ハシゴ方式での実際の行程表を示すには有明と平和島、それぞれの地区にどのくらい滞在する必要があるかを計算する必要がある。Googleマップによれば、国際展示場駅から東京ビッグサイトまで徒歩11分とのこと。多く見積もって片道15分で計算すれば有明地区の滞在時間は1時間30分必要だろう。一方で流通センター駅から東京流通センターまでは徒歩3分である。これなら平和島地区の滞在時間は1時間あれば充分だろう。この滞在時間を基準に以下、行程表をジョルダンで算出した。

【1】開幕のCOMITIA108を愉しむ。(有明滞在1時間35分)

■国際展示場 1番線発
|  りんかい線快速(川越行) 4.3km 3・8号車
|  12:35-12:40[5分]
|  267円
◇天王洲アイル 1番線着 [9分待ち]
|  東京モノレール(羽田空港第2ビル行) 4.7km
|  12:49-12:54[5分]
|  267円
■流通センター

【2】第十八回文学フリマを楽しむ。(平和島滞在1時間13分)

■流通センター
|  東京モノレール(浜松町行) 4.7km 後/6号車
|  14:07-14:12[5分]
|  267円
◇天王洲アイル 2番線発 [13分待ち]
|  りんかい線(新木場行) 4.3km 3・8号車
|  14:25-14:31[6分]
|  267円
■国際展示場 2番線着

【3】COMITIA108を愉しむ。(有明滞在1時間34分)

■国際展示場 1番線発
|  りんかい線(大崎行) 4.3km 3・8号車
|  16:05-16:10[5分]
|  267円
◇天王洲アイル 1番線着 [11分待ち]
|  東京モノレール区間快速(羽田空港第2ビル行) 4.7km
|  16:21-16:26[5分]
|  267円
■流通センター

【4】第十八回文学フリマを楽しむ。閉幕。(平和島滞在34分)


 この方式ならICカードを使えば1602円で前半と後半の両イベントを堪能することができる。本も何冊か買えるだろう。もちろん1時間を少し超えるくらいの滞在では本を探す時間が足りなくなることもあろう。そこで便利なツールとしてCOMITIA108にはティアズマガジンがある。そして第十八回文学フリマでは公式カタログの他にB-1で頒布されている『文学フリマ非公式ガイドブック2014年春(通巻5号)』がある。
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# by suikageiju | 2014-04-29 07:00 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
『受取拒絶』追加納品とトーキョー・ベイ
 消費税増税前の3月30日土曜日に毎度おなじみ下北沢の古書ビビビさんへ行って『受取拒絶』の追加納品を行った。「消費税増税前の精算」という徳川店長の呼びかけに応じたのと『受取拒絶』が品薄になったのと、2つの理由での訪問である。ただよく考えてみると納品書では消費税の項目に横線を引いて納品している。消費税増税と西瓜鯨油社に何か関係があるのだろうかと疑問に思い訊いてみた。

牟礼 「消費税増税って関係あるんですか」
徳川 「ないですね」

 同時に古書ビビビ出版さんから刊行された『トーキョー・ベイ』を買った。タモリへの愛に満ちていた。
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 「ひょっとしてあなた お腹がすいているんじゃないの」は名言。
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# by suikageiju | 2014-04-01 23:05 | 古書ビビビ | Trackback | Comments(0)
パリ書店めぐり
 フランスのパリに行ったことのない人はたいてい「パリなんてどうせ大したことはない」と思っているけれど、行ったことのある人は好きになったにせよ嫌いになったにせよ、従来の過小評価を覆される。ノーベル文学賞作家のアーネスト・ヘミングウェイは友人に
もし君が幸運にもパリで若者として暮らせたなら、その経験はずっと君の人生につきまとうだろう。なぜならパリは移動祝祭日だから。

と言った。パリについて考えるとき、この言葉、そして移動祝祭日という言葉は常につきまとう。ただの都市であるパリはただの人間を芸術家に変える。通りの吸殻だらけの片隅に、市場から見上げたアパルトメンの欄干に、美術館の階段下の暗がりに、チーズのむせかえるような匂いただよう地下鉄に、旅人はきっと祝祭的な機微が隠されているように思わされその機微を見いだそうとする。そうさせるのはパリが移動祝祭日だから。
 パリ滞在中、ポンピドゥ・センターヨーロッパ写真美術館とrue du Cinémaにあるフランソワ・トリュフォー映画図書館へ行った他はセーヌ川左岸、ラテン地区(quartier latin)にある書店(librairie)を巡った。街歩きの最中に見つけた書店もあれば、人に教わった書店もある。
 ヘミングウェイがパリ時代に通ったShakespeare and Company(37 Rue de la Bucherie)はパリの名物書店で、英語書籍を専門としている。戦間期にはジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』を出版した書店としても知られる。
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中は英語の本が所狭しと並べられている。
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2階は読書スペースやメッセージペーパー掲示板があり、単に書店としてよりも作家や読書家の交流スペースとして活用されている。
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 シテ島の南、サン・ミッシェル橋からラテン街へ渡っての左右に、黄色地に黒い男の顔の看板が目立つ書店Gibert Jeuneがある。この手の少し大きいパリの書店によくあることなのだが、専門によって店舗が分かれている。写真は文学書、美術書、写真集、バンドデシネ、パリ案内書や文房具のある、シテ島から見て左手の店舗だ。日本では考えられないフランスの書店の特徴として、古書と新刊書が一緒の棚に並んでいる。同じタイトルが古書と新刊書ともに並べて置いてあることもある。
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 Boulinier(20 Boulevard Saint-Michel)は店頭で古書が0.2ユーロで投げ売りされている。何でもいいからフランス語の本を買いたい人はここに立ち寄ると安く何かを買える。バンドデシネも充実。
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 Librairie Compagnie(58 Rue des Ecoles)は人文学系の専門書店である。店の奥には文学書や美術書がある他、地下には政治経済、社会科学、哲学系の本が置いてある。
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 Rue des Ecolesには書店が多く、専門書店が数軒ある。なかにはアフリカ専門の書店もある。
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 美術書専門古書店の店頭はフランス語を読めなくても楽しめる。
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 Les Autodidactes(53 Rue du Cardinal Lemoine)は「独学者たち」と気取った店名を名乗る、白髭の老爺が経営している雰囲気抜群の書店。シュールレアリスムやダダイスム、前衛などの美術書に強い専門古書店らしい。
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 Le Pont Traversé(62 rue de Vaugirard)はリュクサンブール公園北辺の通りを西に進んだ右手にある書店。19世紀~20世紀半ばまでの書籍が多い。いわゆる水彩画で思い描いたようなパリの古書店。
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 Gibertなどのチェーン店でなければ、書店同士のネットワークも強い。もし欲しい本があればどこかの書店員に声をかけるのが最適解だろう。その書店になくても他の書店にあれば教えてくれる。おそらく書店員はMarelibreなどの検索サイトを使っているので声をかける前に自分で調べてから書店を訪問するのも手だ。
 ルーブル、オルセー、シャンゼリゼ通り、オペラ座といった典型的な観光地では飽きたらぬ人は、ラテン街を書店めぐりという目的を持って散策してはどうだろうか。パリに新たな影が加わるだろう。
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# by suikageiju | 2014-03-03 01:45 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
ジョアン・フォンクベルタのカモフラージュ展
 パリ4区にあるヨーロッパ写真館でカタルーニャ人のシュールレアリスト、ジョアン・フォンクベルタ(ホアン・フォンクベルタ、Joan Fontcuberta)のカモフラージュ(Camouflages、偽装、擬態)展を見た。まず地下階へ行き、その階段横に並んでいる本やHERBARIUMの展示室を見ても、その意図に気付かなかった。FAUNEの展示室における、トリケラトプスのような背鰭のついた鰐や二本脚の生えた貝の偽剥製を見て、それらとケンタウルスのように下半身が四足動物であるチンパンジーについての写真を見て鳴き声を聴いて、ただ鼻行類めいた癖のある衒学趣味だけを連想していた。しかし階段を昇り、人魚の化石発見のドキュメンタリー風映像を見て、そこにジョアン・フォンクベルタ自身が神父の服を着て立ち現れて、展示された写真機や絵具や顕微鏡、そして階段に並べられた本や奇妙な植物写真の意図に気付いた。
 それらは中世や近代の権威的博物学、あるいは共産主義的なプロパガンダ、アメリカ帝国主義による映像操作へのカモフラージュ・オマージュであり、揶揄である。そして更に一歩進んで新たな自己の創造である。
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 ジョアン・フォンクベルタは芸術家を、現実を、真実を偽装するために別の世界と別の自分自身を写真と展示品によって創造していたのである。そしてピカソやミロやダリの偽写真を見て森村泰昌を連想し、「スプートニク」でジョアン・フォンクベルタが宇宙服を着てニッコリ笑っている写真を見て、自然と声を出して笑った。シリアだかパレスチナだかの街を背景にジョアン・フォンクベルタがアラブの服を着て座っている写真を見て、彼ならば何にでもなりたい職業に就けるのだし、なりたい人物になれるのだと考えた。これらを国家的虚構へのオマージュとだけ捉えるのはつまらない。これらは「自分」という可能性への挑戦である。
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 小説家があらゆる職業を疑似体験できるように、ジョアン・フォンクベルタはその作品によってあらゆる職業を僭称できる。その僭称は宇宙を夢見た子供の頃の落描きや写真やスケッチ、それから新聞などによって補強され現実味を帯びる。真実かどうかはどうでも良い。
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 思い出には実際の経験なんて必要なく、思い出を喚起する写真や記念品だけあれば思い出は構成され、記憶という名の印画紙に焼き付けられる。だから写真や記念品は偽造されたものでも構わず、思い出も色褪せない。「これが真実なのだ」そう言って、実際にそう思い込んで写真や記念品を差し出せばシュールレアリスム的にはそれはもう真実なのだ。
 ジョアン・フォンクベルタの作り込みの本気さにビビった。
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# by suikageiju | 2014-03-01 00:17 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
ジャージー語
 乳脂率の高いジャージー牛乳やメリヤス地の、田舎の中高生がよく着ている所謂ジャージで知られるジャージー島をご存じだろうか? それはドーヴァー海峡に点在するチャンネル諸島(フランス語ではアングロ・ノルマン諸島)の中心的な島だ。
 国際人工語を学ぶエスペランティストの使命に、少数話者言語と絶滅危惧言語の調査と保護がある。牟礼鯨は少数話者言語の一つであるジャージー語を調査するという使命を帯びて、クロード・カフンの研究者とともに2014年2月末にロンドンのガトウィック空港からジャージー島へ飛んだ。フライトは僅か1時間である。空港から「Town」と呼ばれる島の中心部St. Helierまでは二階建てバスの15号線を使うと30分弱くらいで着く。
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 英仏間のドーヴァー海峡に位置するジャージー代官管轄区はガーンジー代官管轄区とともにノルマンディー公国を形成し、2014年現在大ブリテン女王エリザベス2世をノルマンディー公として戴いている。しかしノンマンディー公国は大ブリテン王国には含まれず、そのためジャージー代官管轄区はマン島とともに王室属領となっている。国ではなく、大ブリテン王=ノルマンディー公という個人に帰属した関係だ。別の言い方をすればジャージー島はノルマンディー公としての大ブリテン王が統治を許された最後のフランス領である。
 ジャージー代官管轄区の主要部分であるジャージー島はフランス・ノルマンディー地方沖合に点在するチャンネル諸島のなかの面積110平方キロメートル強、人口十万人弱の島だ。ジャージー島独自のポンド紙幣で「States of Jersey」と名乗っているように外交と国防の権限はないもののジャージー代官管轄区は独自の法体系と議会を有する半独立国である。ジャージー代官管轄区は行政教区(Parish)という古代的な行政単位によって12の地域に分割され、それぞれの行政教区は選出された委員会(Constable)により運営される。埋葬や婚姻などの記録も行政教区単位で行われる。そんなジャージー島で話されている公式共通語は英語とフランス語だ。一般に飲食店や商店や議会で使用されるのは英語だが、工事現場などで働く労働者からフランス語を聞かされることもあった。
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 また地域的あるいは歴史的には、フランス語の一方言であるノルマン語のそれまたさらに一方言、ジャージー語(Jèrriais)も一部で話され地域言語として公認されている。正確にはジャージー語はノルマン語よりもアングロ・ノルマン語の亜種と言える。ノルマン語もしくはアングロ・ノルマン語はフランス語と類縁関係にあり、ノルマン人の征服以後の中世英語における語彙形成に多大な影響を与えた言語で、英仏間に位置するジャージー島でも勿論話されていた。ジャージー語の文章は一見するとフランス語と見分けがつかないけれど、「parcq」(park)や「hocq」(cape)や「blancq」(blank)などに見られる「cq」の綴りが特徴的でフランス語の語彙と区別できる。また一人称の単数と複数の区別がない。
J'allons abattre les pus hauts bouais dans chu clios. (私たちはこの野原でもっとも高い木を伐ろうとしている。)

 Maro Jonesの『Jèrriais Jersey's Native Tongue』によれば1989年には5,720人いたジャージー語話者も2001年には2,984人までに減り、その3分の2は60歳以上の老人で日常語として使用している人は113人に過ぎないという。この死に絶えつつある言語をジャージー代官管轄区政府とジャージー島の人たちは絶滅から防ごうと学校教育などを利用して保護を図っている。

子供向けの教科書とジ英・英ジ辞書(Les Quennevais branch library)
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ジャージー語初心者向けの冊子『怪物に注意しろ! ジャージー島の幾つかの伝説』(Jersey Library)
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 また島の主都であるSt. Helier市街を散策していてもジャージー語と出会うことがある。

ゴミ箱の表示「紙と雑誌」「缶とプラスチックボトル」「ゴミ」(King street, St. Helier)
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La Vaque dé Jèrri「ジャージーの牛」(Bath street & Peter street, St. Helier)
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 英王室属領でありながらフランス本国に近く、歴史的にはノルマンディー公国として英仏両国関係に翻弄されながら、ナチス・ドイツにも占領されながら、その立地を活かして半独立国として生き残り続けているジャージー島。政治と経済の必要から公用語の地位を英語とフランス語に委ねながらも島独自のジャージー語は、ジャージー代官管轄区の地位が国際社会で守られる限り、強かにこの島で博物館の化石のように自治の象徴として生き残り続けるのだろう。
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# by suikageiju | 2014-02-27 07:14 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
非公式ガイドブック2014年春号(通巻第5号)推薦作決定会議
 「非公式」は補集合の代名詞だった。精神的指導者(アイドル)をつくり何かと群れたがる文学フリマ参加者のなかでそういった集合から漏れた嫌われ者クラスタたちの掃き溜めが文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド編集委員会であるはずだった。佐藤、屋代秀樹、牟礼鯨、そういった犬畜生、人外鬼畜、海棲哺乳類がいたころ、「非公式」はなかなかひとつにまとまらず、まだ補集合でいられた。
 でも、今や「非公式」は固有名詞となっている。何かと人望を集めている高村暦、猫をかぶった山本清風、そして銀河系最強の秋山真琴などまずまずの人格者を責任編集者に据えてひとつの集合を為しはじめた。だからだろう、今回から「非公式」ならではのカラーが出来てたように感じられる。もはや補集合には戻れないのか。

 2月16日10時40分ごろ地下鉄神保町駅に着いてホームを歩き扉が閉まったとき、Deity's watchdogと書かれた近江舞子さんの黒いトートバッグを半蔵門線の車内に置き忘れたことに気付いた。文芸同人誌入れとして重宝しており、いつもそれには数冊の文芸同人誌が入っていた。改札口の横にある駅事務室へ行き、駅員さんをけしかけて押上駅と北千住駅で回収作戦を決行したけれど、いずれも失敗した。11時からレイアウト会議であったので神保町交差点の集合場所で待っていた高村暦女史に会いに行き遺失物の件を告げた。11時15分くらいになっていたが、組版係のわたるんはまだ来ていないばかりか遅刻の連絡もないらしい。そこで高村女史の提案により、遺失物のデータベースにそのトートバッグが載って連絡が来るまで神保町のカフェめぐりをすることにした。
 カフェめぐりといっても中に入ったりはしない。犬尾春陽氏に教わった神保町カフェ・リストから非公式の会場に相応しいお店を外観と窓からのぞき見た内装から選ぶだけの作業である。雪の残る靖国通りとすずらん通りを女史のあとに従い歩く。
 それにしても、犬尾氏は迂闊だ。彼女が紹介したお店はほとんど日曜祝日休業だった。神保町は古本街とは言われているけれど、その実態は問屋街である。つまり平日に働く職業人のために賑わう街であり、日曜祝日になんて来るべき街ではないのだ。ましてや珈琲を飲むなんてことは。それは名高きさぼうるが日曜日定休であることから考えて分かるはずだろう。犬尾氏もそうだが、鯨は日曜日に神保町を開催地に選んだ高村女史も迂闊だと思った。会場となったギャラリー珈琲店古瀬戸は日曜日でも開いていた稀な例である。
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 文学フリマ非公式ガイドブック2014年春号(通巻第5号)の推薦作つまり掲載作決定会議は13時半過ぎから高村暦、秋山真琴、伊藤なむあひ、そして遅れてやって来た山本清風、真乃晴花の5人で、名雪大河が描く蛙たちのただなかではじめられていた。そこに牟礼鯨はいない。13時半から14時過ぎまで鯨は再び半蔵門線に乗って黒いトートバッグが見つかったという清澄白河駅までそれを取りに行っていた。今回、鯨はただの一冊も推薦していない。そんな非公式ガイドブックの制作に非協力的な人が会議で口を挟むのも可笑しいので会議よりも遺失物回収を優先させたのだ。もちろん、もう編集サイドからは外れた、ただのオンブスマンでありたいという願望もその選択には込められている。
 遅れて古瀬戸へ向かう。すでに会議は盛り上がりを見せていた。くっつけられた3脚の青い丸テーブルを囲むようにして座り、推薦作を全作品を読んだ責任編集者3人を中心に推薦作一冊ずつにそれぞれが意見を投げかけあっている。伊藤なむあひ、真乃晴花、牟礼鯨、この3人はその場にいるけれど俎上にあがっているすべての作品を読んでいるわけではない。単に偶然買って読んでいたか、それとも現物が目の前のテーブルの上に載っているかして得た情報をもとに、あるいはただ純粋に推薦者が書いた推薦文を読むだけで議論に加わっている。これは推薦作そのものへの評価もそうだけれど、それよりもその作品を推す推薦文への評価にも重きを置いているのが非公式ガイドブックだからだ。ゆえに推薦作をあまり知らない人が推薦文を読んでどう思うかを探るためにも未読者の存在はこの会議に必要である。幸運と努力の賜物だろうか、掲載する推薦作はその日のうちに決まった。けれど、まだ容赦がありすぎるように思えた。鯨の主観では「え、こんな本が?」という数作に誰も拒否権を発動しなかったのだ。
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 会議はやがて掲載が決まった推薦作をどの評定担当者にまわすかを決めるテーマに移り変わった。評定担当者は推薦者の推薦文を相対化する。評定文は推薦作への評価を推薦文から読み取れる内容で固定化しないように機能する。その調整を行うという観点で評定担当者の割り振りが決められる。この割り振りにこそ責任編集者ならびに編集委員会の意図が込められている。
 最後には推薦作が載せられている頁以外をどうするかというテーマで話し合われた。いわゆるサークル紹介頁についてである。このとき鯨はその前のテーマで鯨に割り振られた推薦作の評定文をその場で書いていたのでほとんど話を聴いていなかった。ただそこでも厳かな決定が下されたことは確かだろう。
 16時に会議は終わり、その後はミスボドの秋山真琴が持って来たボードゲームを遊ぶ。まずは「詠み人知らず」、次に「藪の中」である。しばらく楽しんだあと、遅れて横浜からやって来た栗山真太朗を迎え、名古屋へ帰る秋山真琴を見送り、パパ・ミラノ神保町店にて無口な6人は歓談した。5月5日の第十八回文学フリマから話題を逸らすことはなかなかできなかった。
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# by suikageiju | 2014-02-17 23:40 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
Invasión 侵入
 大雪のバレンタイン・デーに渋谷の小映画館アップリンクで、アルゼンチン映画「Invasión(侵入)」を観た。金属を引っ掻いたような耳障りな音が常に鳴っている映画だった。最後の場面で、南のレジスタンスたちに銃を渡し彼らを市街戦へと送り出したイレーネ(Irene)の顔のアップとともにまた奇妙な効果音が鳴ってこの映画が好きになった。というのは、映画の序盤は何が起こっているのか分からなかったけれど、観ていくうちに段々と何が起こっているのか理解できて、理解度に比例してこの映画に夢中になっていくからだ。だから最後でこの映画が好きになった。車から飛び出したような感覚になるカメラ回し、夜の場面では地面に水を撒かず光量を減らして黒を濃くするのが記憶に残った。
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侵入者v.s.ドン・ポルフィリオ派
 北東に海岸線を持つ、きっとラテン・アメリカのどこかにある都市国家アキレア(AQUILEA)。この街に白いトレンチコートの男たちがトラックに乗って侵入して来る。白いトレンチコートと言っても白黒映画だからそう見えるだけなので実際はどういう色だか分からない。一方でトレンチコートの侵入者からこの都市国家アキレアを守るべく戦うのは老人ドン・ポルフィリオ(Don Porfirio)率いるレジスタンスである。ドン・ポルフィリオは砂糖ぬきでマテ茶を飲み、家で黒猫ウェンセスラオ(Wenceslao)を飼っている。ドン・ポルフィリオは電話で指示を出す、時には嘘もまじえて。トレンチコートの侵入者はドン・ポルフィリオを殺さない。彼はいつだって孤立無援だから。それに、アキレア市民はドン・ポルフィリオをそんなに支持していないようだ。ドン・ポルフィリオとレジスタンスはアキレア市民のために戦うが市民はむしろトレンチコートの侵入を期待しているのかもしれない。
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エレラとイレーネ
 ドン・ポルフィリオの部下のエレラ(Herrera)は黒スーツを着てドン・ポルフィリオの命令に従い、トレンチコートの侵入者と戦う。ただエレラは「貨車置場へ行け、カフェには寄るな」と言われてもカフェに行ってわざと侵入者に捕まることもあり、それで小隊長格の殺害に成功していたりして、ここでドン・ポルフィリオの命令の虚実はわからなくなった。ドン・ポルフィリオはどこまで計略していたのか。侵入者がトラックでアキレア市内に持ってきた無線装置の破壊に成功したエレラが運悪くまた侵入者に捕らえられても、彼はレジスタンス組織の武器の隠し場所を決して明かさなかった。彼は2度も侵入者に捕縛されながらもその度に逃げ出した。そんなエレラの妻イレーネは夫が昼夜何をしているのか知らない。そしてエレラもイレーネが夜に出歩いていることを知っているが妻が何をしているのか知らない。観客である鯨は、最初イレーネは侵入者の間諜かと思っていた。たぶんエレラもそう疑っていたかもしれない。でもエレラの死後に違うのだと知らされる。
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トレンチコートの侵入者はすごい
 トラックで無線装置をアキレア市内に運んできたり、送信機をスタディアムに設置したり、侵入者の科学力はリボルバーで戦うのが精一杯のドン・ポルフィリオ派をはるかに凌駕している。侵入者はトレンチコートで服装が統一されているのに、レジスタンスは服装に費やす資金がないのか、それともレジスタンスだからかバラバラの私服を着ている。終盤では侵入者は無数の自動車、無数の飛行機、無数の上陸艇、無数のトラック隊(無線装置積載)でアキレア市に侵入する。相手は残ったドン・ポルフィリオとイレーネだけなのに。侵入者の科学力の象徴はそのアジトにあった白黒テレビと電気棒である。白黒テレビが何だかもの凄い未来のモニターのように見える。
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次々と殺されるドン・ポルフィリオの部下
 無線装置の破壊作戦で、「手の静脈を見る」と歌う口髭ギター弾きの死と引き換えに、アキレア市の北北東にある島に侵入者たちをおびき寄せ、ガソリンで彼らを焼き殺すことに成功したドン・ポルフィリオ。しかしトレンチコートの侵入者はその勢力衰えず、次々とドン・ポルフィリオの部下を殺して仕返ししていく。女好きなプレイボーイは女に欺かれても最期まで紳士であったし、「私は盲目だ」と言って銃に気付かず殺された男は脚本のホルヘ・ルイス・ボルヘスを連想させた。また、ドンパチ銃声音のあるウェスタン映画の上映が終わったあと観客が去った映画館で一人残った部下が銃殺されている場面は胸を打った。ドン・ポリフィリオの部下、一人一人の死が印象付けられていた。もちろんスタディアムへ送信機を破壊しに行き増殖するトレンチコートの侵入者たちにタコ殴りにされ芝生コートの上にうち捨てられたエレラの死も。こうして部下は殲滅されレジスタンス側で残ったのはドン・ポルフィリオただ一人となってしまった。と、そう思わせておいて実はエレラの妻イレーネもそしてイレーネとともにアキレア市内で不穏な活動をしていた男たちもドン・ポルフィリオの部下だったのだ。エレラは妻がレジスタンスの仲間であることを知らずに死んでいった。
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文明の侵入
 この映画はドン・ポルフィリオのレジスタンス活動が一敗地に塗れたあとも終わらないことを示して幕切られる。ではアキレア市に侵入するトレンチコートの侵入者とは何なんだろう。きっと侵入者のトレンチコートで画一化された男たちも飛行機の編隊も船舶群もトラックと自動車の隊列も、文化を侵食する巨大な科学文明(とくに北アメリカ大陸のアメリカ合衆国の)を象徴しているのだ。ドン・ポルフィリオのレジスタンス活動はそんなアメリカ合衆国の科学文明に押し潰されそうになりながらもこれに対するアルゼンチンならびにラテン・アメリカ諸国文化の抵抗を描いたのだろう。だから、ドン・ポルフィリオが最後に送り出した、イレーネが動かしていたレジスタンスたちは「南」の人々なのだ。アメリカ合衆国に対してラテン・アメリカが「南」であるように。ドン・ポルフィリオがスタディアムで死んだエレラの遺体に会いに行くとき自宅の鏡に向かい「歳をとりすぎた」と呟く。 そして歳をとりすぎていない、それほど頑固でもないラテン・アメリカの人々はアメリカ合衆国という侵入者を警戒せずに歓迎している向きもある。アキレア市民がそうであるように。だからこそアメリカ合衆国という科学文明の訪れは歳をとりすぎて変われない人や頑固な人にとり「侵入」なのだ。この映画は1960年代のアルゼンチンをとりまく文化情勢と知識人層の焦燥を描いたおとぎ話で、アキレア市は最後まで守ろうとした文化で、戦いはまだ終わっていない。
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Invasión(侵入)
監督:Hugo Santiago Muchnick
脚本:Jorge Luis Borges, Adolfo Bioy Casares, Hugo Santiago Muchnick
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# by suikageiju | 2014-02-15 01:40 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
『受取拒絶』売り切れと追加納品
 上野でピザを食べていた2月1日昼過ぎ、古書ビビビの徳川店長より『受取拒絶』が売り切れたとの連絡をもらった。昨年11月11日にこの本を納品して3ヶ月弱のことである。そのため本日2月2日、鯨は下北沢の茶沢通り沿いに聳える古書ビビビ東京総本店へ赴き、『受取拒絶』を追加納品した。買ってくれてこのブログを読んでいる人は鯨に感謝されるのを期待していないことは知っている。だから敢えてこう言う、「買えて良かったね」。
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 今年1月5日に年始挨拶を兼ねて訪問したとき、弊社発行物にハマってくれた女性がいたらしく「毎日買っていきましたよ」と店長から聞いた。この話を意訳すると古書ビビビの近所にお住まいのその女性は弊社の本を買って舐めるように読み、読み終わると下駄を履いてカランコロンと古書ビビビに出かけ「牟礼鯨ください」とほぼ毎日やっていたわけだ。もちろんこれは憶測に過ぎないが、それにしても素晴らしいまでに自堕落な生活である。さすが下北沢、読書センスに長けた人が住んでいる。
 今回よく売れたのにはいくつか理由があるだろう。まず徳川店長の営業手腕。これは外せない。そして山本清風氏や栗山真太朗氏など一緒に文庫フリマに携わる仲間の本が横に並んでいたことも一つの要因であろう。一般書店では見られないような異様な風体をした同型の本が入口すぐの平台に数並んでいるだけで、人の目を惹く。最後に弊社のような文芸サークルの本に感想なり評なりを寄せてくれた方達のtweetなども影響しているかもしれない。
 『受取拒絶』の他にも黄色い表紙の『南武枝線』はまだ在庫があるので古書ビビビでぜひ手に取っていただきたい。「痴漢から始まる恋もある」と思ったらチャンスだ。
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 また、文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド編集委員会の最高責任編集者高村暦女史も古書ビビビに委託したいという希望があったため口利きだけをした。『視姦』の「眼球とは亀頭の隠喩だ」という惹句は鯨が寄稿した解説文の冒頭部分である。

 今回のことで「これからも西瓜鯨油社でずっと書いていきたい」という思いを更新した。休日はぜひ下北沢は古書ビビビへ。その帰りには下北沢に点在するマジックスパイスやスープカレー『心』などのカレー屋で古書や個人出版本を読むのも読書人の嗜みだ。
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# by suikageiju | 2014-02-02 20:34 | 古書ビビビ | Trackback | Comments(0)
スーパー・ファッキン・ドライ
 11月にも一回読んで、その時は「勢いがある」とつぶやいて本を閉じた。山田宗太朗さんによるこの本には「そんな目で見ないでくれ」と表題作「スーパー・ファッキン・ドライ」が収録されている。
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 2度目に読んで、地の文での語りがあまり上手くないのは、きっと精神的に不安定な主人公の一人称で綴られているので、敢えて崩しているのだと推測した。これは微妙な選択で、作品の雰囲気を作るために下手に書くという手法とそれでも読み応えがあるように書くという手法のどちらが正しいかは一概に決めつけられない。ただ、下手に書いても文章を書くことに巧みな人は言葉の選び方で滲み出る味があるもので、そういったものをいささかも感じられない本著はもしかしたら推測が外れて単に書き慣れない作者による若書きなのではという怖れもある。あるいは完全に読み手が欺かれたか。疑心暗鬼な一冊である。

「そんな目で見ないでくれ」
 この掌篇の主題ととらえられる男の焦燥感や執着の表現が、やや唐突でそして乾いた性描写によって薄められて、ぼやけた感じになり、そしてそのまま唐突に終わっている。独特な疾走感のある文体で読み手は置いてけぼりをくらった。
「スーパー・ファッキン・ドライ」
 シンクにビールを垂れ流す盛り上がり場面のすっぽ抜け感に戸惑いを隠せない。小学生である子とその親である麻酔科医との、テストの点数を媒介にした言葉のかけあいが面白い。

 全体を通して感じられたのが「言葉への信頼が弱い」ということ。言葉への不信感が肉としての言葉を盛ってしまう。これを小説に変えるには無駄な言葉を削り、スト―リー或いは場面を増やす必要がある。そして他人の心に土足で入り、何よりも嘘を鍛えること。
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# by suikageiju | 2014-01-09 00:39 | 感想 | Trackback | Comments(0)
情報カードでできる24のこと
 21世紀は有閑頭脳労働者がアナログへ還る世紀である。デシタルは肉体労働の道具と見なされる。そんな時代の奔流のなかで見直され使われるのは、文房具店の片隅で埃をかぶっている情報カード群となるだろう。以下、その情報カードでできること24を並べる。元ネタは24 Things You Can Do With an Index Cardだが、そのままではつまらないので見出し以外はほぼ創作である。ここで言う「情報カード」とはコレクトの5×3情報カード補助6ミリ罫のことだ。

1.ToDoリストを作成
 朝、その日のうちに達成すべき幾つかの事項を情報カードに書き並べる。その数は3~5個など少ない方が良い。ポストイットに書くよりも紙の耐久力があり、あとあと残るものなので、おろそかにできず強制力を増してくる。やがてToDoをこなすことが目的化してくる。

続きは……

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# by suikageiju | 2014-01-07 23:18 | 情報カード | Trackback | Comments(0)
中上健次が生まれた新宮市春日と聖地巡礼
 2013年12月31日19時のことだ。年が変わる5時間前に青春18切符を渋谷駅で購入した。あと5時間遅かったら買えなかったし、1月1日10時に旅立てなかっただろう。青春18切符を購入したときも、そして1月1日10時に出発したときですらその切符でどこに行くのか決めていなかった。登戸駅に立ったとき、電光掲示板の「立川」という文字と「川崎」という文字を見比べて、はじめて行き先を決めた。中央本線で名古屋まで行き、そこから紀勢本線で紀伊半島をまわって南から大阪に入ると決めたのだ。旅はそうやってなんとなしに始めるものだろう。モビーディックのイシュマエルの冒険もそうやってはじまったのだから。
 雪をかぶった山岳地帯を抜けて大都市名古屋を過ぎる。一日目は四日市で泊まった。二日目は午前6時に四日市を出て丸一日かけて紀伊半島の海沿いを走った。多気や新宮や紀伊田辺や御坊や和歌山といった紀伊半島の諸都市を経て大阪に辿り着いたときには夜の22時になっていた。
 新宮駅では2時間以上も紀伊田辺行きの電車を待った。その間に徐福公園や浮島の森を見て暇をつぶしていると、駅の近くで集合住宅群を見つけた。駅から徒歩3分もしないところに団地なんて珍しいなと思ったのだ。
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 その団地に近づいてみると草っぱらに「中上健次生誕の地とその付近」という看板が立っていた。どうやら駅近くで目に付く集合住宅群のひとつは『千年の愉楽』などの著書を持つ作家、中上健次の生誕地跡に建っていることになる。中上文学の読者である牟礼鯨を中本の血が引き寄せたのだろうか。その看板によれば中上健次作品に出てくる天地の辻や礼如さんとオリュウノオバの家とされるところも近くにあるらしい。つまりそこ新宮市春日は「路地」であるようなのだ。思いがけなく中上文学の「聖地巡礼」を果たしてしまった。
 看板をおしまいまで読んで周りを見渡した。真新しい新宮市人権教育センターが見える。そしてなんてことない町並みだ。若松孝二監督の『千年の愉楽』を新宿で観たけれど映画の中の「路地」をとりまく景色は海のある静かな漁村だった。もちろん新宮市春日地区は中上健次がいた当時から今に至るまでにだいぶ開発が施されているのだろうけれど、海は遠いし地形やら何やら違っていた。ひとり立ち尽くし狐にだまされたような気になった。実際の「路地」の景色よりも映画の中の「路地」の景色の方がイメージに合っていた。何で実際の「路地」を見てしまったのだろうと後悔の念に襲われた。それは映画の中の「路地」を観てしまったときの後悔に似ていた。
 ウルスラの顔をこうだと提示されてしまったら『百年の孤独』のイメージがいくつか損なわれてしまうように、文学作品の場合、所謂「聖地巡礼」はその作品が持つ地理への想像を損なう危険がある。中上健次の「路地」については映画の「路地」の方が良かったし、更に言うなら文字情報だけの「路地」のままにしておきたかった。
 文学作品も分かりやすく伝達するために挿絵がついていたり、メディアミックスで映画化されたり漫画やアニメになったりする。そういったことでその文学作品の知名度が高くなるのは良いことだ。でもそういったことでその文学作品を受容するのに支障を来たすこともありえると考える。そして実際に支障を来たしていて、読み手の側が鈍くなっていて気づいていないだけなのだ。でも映画化や漫画・アニメ化を抗議するのは筋違いだ。だから、本来的に漫画やアニメとして描かれるべきであった小説を除いて、文学作品を受容するときは読み手の側がよくよく注意して選択しなければならない。何の映画を観るべきではないのか、あるいはどこに行くべきではないのか。
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# by suikageiju | 2014-01-03 23:19 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
帰宅したら弟がニート
 題名のとおりニートの弟がたくさん登場するのかと思ったら7篇あるのにニートは3人、弟にいたっては2人しか登場しなかった。意味もなく裏切られた。
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ループ、稲荷古丹
 字下げと改行が混乱していた。まさか、黒四角が書いたのか? そういう設定なのか? 人工知能作家と人工知能評論家の設定が良い。ただ、最終段落のおさまりが分かりにくく弱い。もっと最終段落へ至る道程を補強した方がいいんじゃなかろうか。

19HK、稲荷古丹
 猫語を解し翻訳する能力が急に身に付いてその能力獲得があまりにも急だったので人語を話しているつもりで猫語を話すようになってしまったと解釈するのはやや難だが、そう解釈できれば面白い。

帰宅したら弟がニート、上住断靭
 イベント数日後の長尾描写がむかつくくらいに秀逸。

philia、坂上悠緋
 気持ち悪い文体が気味の悪い内容にねちゃっと寄り添っている。また、「娼婦」であるところの話者の感覚が内臓的というより皮膚的で、「人形」らしい。ねちゃ、ぬちゃ、にちゅといった擬音が鳴る一品。

ウェディング、猿川西瓜
 従兄弟(どっち?)であるミカボシの姉宛の手紙が載っていてこれが読ませる内容だった。

天皇陛下の恋人、森井聖大
 ドザエモンに関する名言がリフレインする。スキンヘッドの男が出てくる箇所の印象だけが鈍く光っていた。
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# by suikageiju | 2013-12-23 21:37 | 感想 | Trackback | Comments(0)
鉱石展示室
「鯨さんは鉱石副王と果実太守の物語を紡がれました。ではこれはどうでしょう?」と手渡された本が琥珀舎、波水蒼さんの『鉱石展示室 クリスタル・パビリオン』である。広がっていたのは石果世界ではなく、石菓の世界だった。
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宮沢賢治から長野まゆみへと歪に結ばれたフィラメントの先にある本として読んだ。京都という舞台を設け、琥珀糖専門店ジオードとその主である今市琥太郎氏を基軸にした登場人物たちの、時をこえた繋がりを描いている。それらが有機質として繋がっていく流れに一種の様式美を感じた。弓道で矢がうまく中ったあとの静けさのようなものを。京都、鉱石、琥珀糖、高校演劇部、そして花。美意識を描く作家と美意識を重んじる読者を充分にくすぐる要素を持つ作品だ。美意識という看板は要素ですぐに靡く。では人間は? といった観点から見ると他者に一枚薄皮を隔てたような筆致を見た。たぶんこれからも、そうやって巧妙に紳士的に、すり抜けて、生きていくのだろうなと思わせるような筆致である。極めて上品な出来だ。
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# by suikageiju | 2013-12-23 12:38 | 感想 | Trackback | Comments(0)
文庫フリマ
 『南武枝線』第二版を、下北沢は茶沢通り沿いにある古書ビビビさんに納本した。『受取拒絶』と同じように見本誌に幅広の帯をつけた。
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 ここ数ヶ月、山本清風さんと栗山真太朗さんが古書ビビビさんでの委託をはじめられたようで、扉入ってすぐ正面の平台はセルフパブリッシング系文庫本の祭典「文庫フリマ」めいている。同系統の本が並んで目立つので店長曰く、数が出ている、とのこと。もともとはこの3人に秋山真琴を加えた文庫本小隊を山本清風さんが取りまとめ、「文庫フリマ」という旗印を鯨が提案して、4人で一山あてる積もりだったのだけれど、それはおじゃんになっていた。下北沢で勃興しつつある「文庫フリマ」はその一山の代替物なのかもしれない。
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 山本清風さんは人間の諸相を戯画として描いて饒舌、栗山真太朗さんは人間の上澄みを活写して瑞々しく、そして牟礼鯨は人間の業を嘘をまじえながら肯定して簡潔である。それぞれに特徴があり、それぞれに違う文庫本を楽しめるだろう。また古書ビビビさんへの納本後に湯島へ行ったのだけれど、そこで抱いたのはやはり湯島・御茶ノ水界隈は川崎市東部とともに『南武枝線』『受取拒絶』の舞台であり、鯨にとって文学の宿る地なのだなという感慨だった。それは栗山さんにとっての川町=小岩や山本さんにとっての浦崎=尼崎もそうなのだろう。そしてそれぞれの土地はそれぞれにとり決して故郷ではない。前述のように3人はそれぞれに違うのだけれど、場としての土地と文学についてのこだわりは一様なのかもしれない。

 ただ2人はバンドでベースをやっていたこともあるのだろう、鯨とはちがって恵まれた人間であり、人間であることは同時に欠点ともなって、彼らの文学を鯨は全て手放しで「良いですね」と言うことはできない。陸の人と海の人のようなちがいだ。作品が面白いのかどうかとその文学を受容できるかどうかはまた別の話だ。我々は混同しがちであるが作家の評価と作品の評価は別であるように、作品の文学的価値と面白さは全く別の基準で測られる。もちろん、栗山・山本両文学を手放しに受容しえないと表明するのは単に牟礼鯨文学を規定することでしかない。それは、渋澤怜作品群から推測するに牟礼鯨文学は渋澤怜にとって受容できないだろうから渋澤怜が「牟礼鯨作品はつまらない」と表だって言うことは単に牟礼鯨文学を基準にして渋澤怜文学を規定しているだけに過ぎないという事象と同じだ。
私ってかわいそうとか、俺って孤独とかって
そういうやつ、ごまんといるわけだ
でもさ
開き直っているというか、あきらめているというか、達観しちゃったやつって
憐れすぎてどうしようもないだろ(『受取拒絶』より引用)

そういう憐れなやつのままでいられるか、或いはそうではいられないかで住む世界が、海か陸かが、大きく隔たってしまうのだ。
 でも3人の作品はまず読まれるべきである。自分が含まれていることを考慮しないで言わせていただければ、首都圏で何か日本語で書かれた文学作品に関する企画を練っている人がこの3人のうち1人でも欠かしたままでその企画を押し進めることが文学と知に対する怠惰さの証拠であるように、たとえどんな文学的立場を表明していたとしてもこの3人の作品は読むべきである。文庫本なのだから是非移動中に読んではどうだろう。
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 繰り返しになるが「文庫フリマ in 下北沢」が開催されているのは下北沢は茶沢通り沿いの古書ビビビさんである。
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# by suikageiju | 2013-12-02 00:54 | 古書ビビビ | Trackback | Comments(0)
絶対移動中vol.14 特集:異界 マヨイトあけて
 文学フリマには「お母ちゃん」と呼ぶべき人が2人いる。兎角毒苺團の伊織さんと絶対移動中の伊藤鳥子さんである。会場入口近くに割り当てられた絶対移動中ブースへ行き、そこでぴょこんと座っている伊藤鳥子さんに
「お母ちゃん」
 と声をかけると、第二展示場1階にバミューダ海域よりももっと静かな海原が広がった。帆のない舟が滑るように航る海だ。無言で差し出された掌に対価としての貨幣を落とし、本を受け取ってブースを離れた。最後まで言葉が交されることがなかった。あのとき鯨が見たのは何だったのだろう。これは伊藤鳥子さんが編集した『絶対移動中vol.14 特集:異界 マヨイトあけて』である。異界モチーフは古代からよく使われている。黄泉、鄭邑の隧道、ウェルギリウスのいる森、不思議の国のアリス、コンゴ川の奥地などなど。さて、今回はどんな異界がたち現れるのだろうか、と期待しながら読んだ。
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「四ページ目の真代子」、宵町めめ
 巻頭作らしい仕掛け。「続いている公園」を視覚つきで見たような、突然あらわれたメビウスの環を一口で食べちゃった感あり。

「まにまに」、加楽幽明
 あちら側はこちらであり、まだそこは夢の中なのだろうか。異界と斯界の境界として丁寧に幾層にも膜をはっていくような感覚を得られたのが良い。足元がふらふらになった。

「外に出ようとする男と女」、涌井学
 外と「外」の指すものは違うけれど、回り回って同じ自立を目指すってこと。そうすると異界であるところの内=「内」をもっと狂気じみて描くと、火災で燃えたあとの場面が反動で聖性を獲得する。

「台所の人」、高橋百三
 そこから先、時間を遡行して観られる景色、その人の脳髄がかつてとらえた記憶はもう他人にとっては異界なのだ。

「鏡子ちゃんに、美しい世界」、伊藤なむあひ
 ここにもう一人、世界図書館の司書を志す者が。鏡子ちゃんという概念の踏み込みが深く夢中で頁をめくった。もちろん最後の電波塔のシーンは「安直な」自殺なんかではなく、リリィ・シュシュのすべてだった。でも、この篇は引用という基盤の上に成り立っているのだから、やはり安直だよ。だってそれは分かる人だけが分かる異界なのだから。

「メイコの世界」、伊藤鳥子
 思弁小説めいていて、予め定められた結末に強いられて落とされた読後感。異界のアルゴリズムは楽しめたけれど、アルゴリズムを見せられなければ、描かれようとした世界を得られただろうか。きゅん

「SIX」、業平心
 将棋の話? だけじゃないと思う。でもよくわからない。読めない。

「マスカレイドスコープ」、秋山真琴
 王道ファンタジーから企業戦士もの、そしてSF小説。そしてそもそもこれは6人の誇大妄想狂が幻視した異界なのね。上手い。

「ヴァニシング・ポイント実験小説」、蜜蜂いづる
 実験小説の実験結果は実験小説そのものだから肝心の実験は執筆段階にあるという事実を鋭く突いてきた作品と言える。実験小説の読者は結果だけ見せられて、肝心の執筆段階は読み手にとっていつまでも異界であり、立ち会えない。

「哲学小説」、有村行人
 異界からのアルファを見つけた夜を思い出した。聖性について考えさせられる。

「暗黒舞踏会」、くりまる
 舞踏と舞踊の違いもわからず、黄泉の舞台へとおりたった感覚を得た。
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# by suikageiju | 2013-11-26 08:19 | 感想 | Trackback | Comments(0)
バウンダリー・ドメイン
この敬体まだるっこしいな、と思って読んでいたけれど楽しめた。平行宇宙や過去を改変して地球の危機を救うといったテーマはあまりSF小説を読まない鯨でも陳腐に思える。ただ、文体で救われた感じがあるかな。在水あゆみさんの『バウンダリー・ドメイン』
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日本語の敬体だと太宰治の『人間失格』に引きずられてあの調子になるのだけど、該当作は敬体になることで助動詞一個分だけ間延びして、かつ文体の婉曲さとあいまって話者である少女のまだるっこしい語り口を堪能できるようになっている。未来からのメッセージの語り口との差違も良い対照となっていた。もっと書き慣れると凄い物を出してきそう。
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# by suikageiju | 2013-11-24 13:31 | 感想 | Trackback | Comments(0)
ami.me (アミ・メ)
今回、人に請われ短歌を読んで何か書いてみることになった。詩や短歌の感想ってよく分からない。書いたことない。なので、分析的な評っぽいものしか思い付かなかった。そして、本に載っていても詩はよして短歌だけについて書いた。題材は『ami.me』。
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改札を出てから雨にぬれるまで駅はどこから終わるのだろう(吉田恭大)

駅前あるある。改札を出て案内図に迷い、地下街に入ったり、アーケード商店街に入ったり。外は雨のはずなのに、電車から降りて傘もささないのにまだ濡れない。町は雨。そしてコンビニ前を曲がり、アーケードから外れ、民家の建ち並ぶ路地に出て、はじめて髪を湿らす。あ、駅が終わったな、と思う。ところで、ここはどこ?

路地猫を追う君を追わない僕を気にしなくてもいいから、猫を(吉田恭大)

詠み手の視線が猫→君→僕→君→猫と往復するのが面白い。そして焦点は猫のさらに先に飛んでいく。猫のことだから町をこえて、国をこえて、空をこえて行くのだろう。中途で終わらざるをえなかった呼び声は永遠に木霊する。そのことを君も僕も忘れてはいない。

コンビニを辿ってゆけばそれぞれにあかるい歌が聞こえる町だ(吉田恭大)

町田? コンビニに入れば聴こえてくる陽気な歌謡曲。では次のコンビニへ。また聴こえてくるのはオリコン入りした歌謡曲。では次のコンビニへ……、って日の沈む、迷い猫も寄り付かぬ町は寂しいな、おい。この町の見所はコンビニだけかいっ! という声が聴こえてくる、ような。
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# by suikageiju | 2013-11-23 20:00 | 感想 | Trackback | Comments(0)
日々是空色
ある人からこの本を手渡された。
「あなたの本ですか?」
 と問うと
「違います。ただ、牟礼さんがこの本を読んでどう思うのか知りたくて」
 なんてことを返す。そういうのいらないんだよね。鯨がこの本を読んでどう思うかなんてどうでもいいじゃん。なになに、自分の感想が正しいのかどうか鯨が書いた感想を読んで確認でもするの? それとも鯨が感想を教えてあげないとこの本を読めないとでも言うの?鯨のブログは文芸同人の答案用紙じゃないんだよ。いい? 鯨はそこらへんを漂う閉塞感兼ブロガーなの。権威も学識もここにありはしないのだよ……。
 という経緯があったので借りたままずっと放置してしまったこの本。綾瀬眞知佳さんの『日々是空色』
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指先のむこう
 いかにも「これ、面白いだろ」ってドヤ顔している小説あるでしょ。融資した五億円でもないのに伏線を無駄に回収したり読み返したら絶対恥ずかしいのに大袈裟なアクションシーンがあったり。それってたぶん娯楽であることが読者を楽しませようという作者自らの意志が何らかの高尚な価値であるかのように勘違いしているんだろうけど、陳腐なだけだよ。「指先でむこう」を読んだ。そう、これだ、これだよ、これ、と読後に思った。こんな小説を読みたかったんだ。淡々と何も起こらず流れる日常のなかでうつろい行く生活とか何気ない会話とか、すれ違う思いとかそういったことを丁寧に描き出す小説。読みたかったものに出会えた感が強い。まず、香澄君の一人称=自分の苗字、に違和感が芽生えたんだけれど、逆にそれが良い違和感となって作品に入り込めて、居酒屋で彼らの隣で座って話を聞きたいと願えた。ただ、ちょっと読みの速度をはやめると筋を追えなくなるので、印象を与える力が薄い、あるいはそうすることに消極的なのかな。そう考えると、まぁ、つまらない。でも逆にそこがただ読むのに向いている。そして鯨はただ読みたいのだ。漢詩の引用も嫌味がなく、作品に広がりを与えている。そして引用のやり口が巧み。

アップルミントスクエア
どうでもいいひとなら、誤解されても気にしない。

 人はなぜ本を読むのだろうか。たぶん性交するためだ。ではなぜ本を書くのだろう。これも性交するためだ。本屋さんへ行けば、どの人の額にも「セックスしたいです」と書かれている。なぜ、本を宣伝する? セックスしたいから。なぜ、本を買う? セックスしたいから。そして、この短篇もそういう小説だと感じた。感じさせられちゃった。お涼さんの小指はきっと次元の異なる世界に、そして宇宙の果てにまだ在るのだろう。
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# by suikageiju | 2013-11-23 18:37 | 感想 | Trackback | Comments(0)
樹木たち
この本の作者であるカオスカオスブックスの富永夏海氏はおそろしく背が高い。幼い子供が見上げたらきっと泣いてしまうだろう。
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読んでいると時間がとまったような感覚がある本だ。もちろん読み始めてから読み終わるまでに2時間ほどかかっておりその経過はちゃんと感じていた。体力を消耗するので30分ほどの仮眠を必要としたが、読んでいる時間はちゃんと流れていたと細胞が記憶している。では何の時間が止まっていたのか、それは物語的時間が止まっていた。一続きの物語であっても細切れの三千の掌篇を読んでいるような内容で、透明な篇から透明な篇へ跨げばその度に時間はリセットされて0になるのだから、物語的秒針が進んではまた戻るのを繰り返して、それで「物語的時間の停止」を読み手である鯨に想起させたのだろう。
 この本は装幀の美しい本である。いや複雑な線で彩られ縁取られた本だ。その複雑さに「美しい」という意味を投げかけられたのであればそう呼べるのだろう。そんな美しい装幀と、この本のところどころに鏤められた「乾いたバターに似た鳥の体臭」のような印象的な修辞、そして上記の物語的時間の停止、この3つが重なったのであれば自ずと解は見えてくる。
 この物語は本という形において完成されており、その形のまま止まろうと欲求している。時間をかけて通読され物語として解釈されることを拒否し、部分的で断続的な読みのみを求めている。それでは物語は本を超えて出てきやしない。しかし本という制限下で閉じ込められた物語をいつも新鮮なかたちで読み手に提供できる。そのように物語を封じこんだ本のおとなしさを、鯨は肯定して受容しよう。
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# by suikageiju | 2013-11-14 23:30 | 感想 | Trackback | Comments(0)
幻視コレクション
 文学フリマの打ち上げで山内農場かその後の和民かで秋山真琴氏と会ったとき
「『オルカ』おもしろかったですよ。名古屋で言おうと思って、言えなくて……」
 と秋山氏から急に声をかけられたので咄嗟に前々から思っていたことを口に出してしまった。
「"おもしろい"なんてもう聞き飽きましたよ」
 そのあとに「もっと別の言葉を考えてきてください」と言おうと思っただけで言わなかったのか、それとも実際に言ったのかは覚えていない。そのどちらにしても、この『幻視コレクション』を読み終わってそんなふうに秋山氏に言ったことを後悔した。というのはあとがきに「ほんとうに面白い物語を提供したい」と書いてあったからだ。そして幻視コレクションのページにもデカデカと同じ文句が書いてあった。これでは、なんとなくこの本のあとがきや宣伝文句である「ほんとうに面白い物語を提供したい」を踏まえて上記の発言をしたかのように思われてなんとも心外である、そんな話。
 でも「面白い」はもう聞き飽きた。うんざりもしている。もちろん「面白い」は誰にも説明しえないからそうなのだ。説明できるのならそうではなかったのだろう。けれど、少なくとも書く側であるならばその「面白い」を具象として提示したい。
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 この本は強奪した。白状すると寄稿者の一人であり、弊社隣の文学フリマ非公式ガイドブックブースにいた高村暦女史に秋山真琴氏がこれを献本しているのを見てしまい、それが3冊あるのも確認してしまい、高村暦女史が非公式な業務でどこかへ去った隙をみはからって売り子の雪下女傑に
「これ1冊もらっていいよね」
 と声をかけて
「え、どうでしょう」
 と言ったか言わないかのうちに積み上がった本の塔から1冊だけ強奪して自分のファイル・ホルダーの中に放り込んだのだ。つまり、これは今回の文学フリマで唯一非正規ルートで入手した本、ということになる。

Burning with Desie、はるかかなた
 夏の暑さに頭がぼおっとして何だか気持ちが悪い。陽炎のような幻視のために失われた包含関係が見えてこない。
XMS/eXperience Management System、佐多椋
 「駅の反対側」という言葉が持つ意味は多層的でそして深い。《》の連続で目が霞んでくる視覚的効果を読み手に与えようとしていたことも実験的で愉しめた。コード、プログラミング、軋む世界ってか。
たしか、映画でこんな話があった、吉永動機
 何かあったというわけでもないけれど嘔吐感がこみあげる。きゅーと締め上げて、ぷほっと手を離した感じを与えられるのは文章を操ることに匠だからだ。
残った夏、言村律広
 この分量では情報の詰め込み具合が危険水域に達している。200~300枚くらいで読みたい。
invisible faces、高村暦
 疲れていたからだろう、途中で寝てしまって、その後読み直しても最後の謎施設でのやりとりが何だかよくわからなかったけれど、この本がなぜ「ほんとうに面白い物語を提供したい」と謳われているのかがこの一篇を読んでやっとわかった。今さらか、オレはもっとはやい段階で気付いていた、そういう方もいるだろう。まァいいじゃないか誰が一番で誰がはやかったかなんてことは。この本の各篇は謎というか矛盾というか思わせぶりな数節を孕ませておいて、それについてはぼかしたまま終わらせる。あるいは絶対謎が解けないし、矛盾はそのままで、思わせぶりなまま放り出して篇をしめくくらせる。幻視、だからね。そして読み手は投げ出され、あの謎は何だったのだろう、矛盾はなぜ解かれなかったのか、そして思わせぶりはどうしめくくられたのだろうと、本を閉じたあともどうしても考えてしまう。読んだあともなんとなく脳裏にこの本のことが気がかりとして残される。あれはなんだったのだろうか、と。人生にいつまでも染みをつくったまま消えることのない一冊。それがこの本の面白さ、なのだ。
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# by suikageiju | 2013-11-12 21:43 | 感想 | Trackback | Comments(0)