表象文化としての「売り子」論を福岡ポエイチで
 「鯨さんの作品には校正が必要です」と書かれたメールを読んだとき、他人の本になんてことを言うのだとメールを送った人に対して怒りを覚えた。それと同時に自分自身に対しても怒りを覚えた。というのは鯨もそのメールと同意見だったからだ。

 4月29日深夜、新宿の珈琲西武で鯨は分離派の久保田氏(三重県)に「君は福岡ポエイチへ行くべきだ」と言った。当然のことだけれど、久保田氏は肯んじた。たぶん鯨はそのとき調子にのっていたのだろう。隣でだまって珈琲を飲んでいた高村暦女史にも「君も福岡ポエイチへ行くべきだ。早稲田なんだから暇だろう」と勧めた。すると女史は眉を顰めながら「旅費を大阪で使い果たしてしまいまして、もし旅費を出してくれるなら行きます」と返す。もしかしたら鯨は酔っていたのかもしれない。女史のがめつさを気にとめることなく「旅費を出せば行くんだな」と再び訊いた。
 超文学フリマを終えて「鯨暦譜」の印刷代などを精算するに際し、高村女史は請求書をPDFで送りつけて来て、それに記されていた金額は¥30,600円だった。「鯨暦譜」はそんなに枚数を刷っていなかったはずで印刷代にしてはやや高額だと感じる。きっと本来の数字ではないのだろう。ならば、いったい何の数字なのかと振り返り、忘れてかけていた珈琲西武での会話を思い出した。5月1日、鯨は職場の帰りに小田急線に乗り、登戸駅で降りて徒歩5分、建てられて半世紀は経っているだろうビルの錆び付いた外付け階段を昇る。そして黄色地の紙に赤字で「臓器高価買取」と大書されたポスターが貼られた扉を開けた。「いらっしゃい」、ねばっこい声色をした店主が満面の笑みで迎える。「何かお困りですか?」
 コミティア104閉幕後に訪れた神保町のろしあ亭で、鯨は中身の入った黄緑色の銀行封筒に「鯨暦譜印刷代」と墨書したものを女史に手渡しながら
「これをどうするのか君はわかっているんだろう?」
 と問うと女史は「はい」と肯んじた。女史が鞄に封筒をしまうと
「これ食べなよ」
 と鯨はピロシキを半分に切って女史の皿に置く。
「食欲ないんですか?」
「ほら、お昼インドカレー食べ過ぎて」
 そう言いながら鯨は、アルコールで熱を帯びて疼く脇腹の手術痕をさすった。

 昨夜、Gmailが来ていた。高村女史からである。メールには簡潔に「福岡へのチケットを取りました」とだけ書いてあった。
「バカだこいつ」
 と鯨はひとり呟き、同時に高村女史が先日手渡した3万円を例の柏ホストに貢がなかったことに感心した。自分の欲求よりも文学を優先した人間が少なくとも一人はいたのだ。鯨は「では売り子をお願いします」とだけ打ってメールを返信した。これで等価交換である。
 6月8日、9日と福岡県福岡市中洲川端駅近く冷泉荘にて第2回福岡ポエイチが開催される。西瓜鯨油社は両日参加し、新刊『昔鯨類』を頒布。それとともに鯨暦譜企画を再起動する。
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# by suikageiju | 2013-05-19 18:21 | 福岡ポエイチ | Trackback | Comments(0)
南武枝線
 第十五回文学フリマで新刊として頒布し、第十六回文学フリマで完売した痴漢・ストーカー小説『南武枝線』が電子書籍となってKindleストアにて刊行された。かつて貰った感想などはこちら

 子供は自分の好きなモノを善とみなし、自分の嫌いなモノを悪とみなす。好嫌の境界と善悪の境界とが一致する度合いが低くなればなるほど、その人は大人になったと云えるだろう。この社会には、自分が好きなのに悪いことが存在して、そして自分が嫌いな善人もいる。自分が嫌いだからといってそれが悪いこととは限らないし、自分が好きだからといってその人が善い人かどうかは分からない。たったそれだけのことが分からない人もいるのだけれど、たったそれだけのことを認めたくない人の純粋さを、鯨は愛したいと思う。
 善悪の境界は、時代の移り変わりや人々の考えの展開によって徐々に変化していく。だからかつては悪い事象と見なされ犯罪とされていても、現代ではそんなに悪くない事象と見なされる例もある。たとえば重婚、自己堕胎、単純賭博、猥褻物頒布、麻薬所持、売春などの「被害者なき犯罪」は従来は犯罪だったけれど、今のこの時代では犯罪ではないものとみなしていこうと云う「非犯罪化」議論の対象となっている。善と悪の間に横たわる境界線はいつも揺らいでいる。このことを短く「善悪は相対的だ」と云う。釘打ちされて固定された絶対的な基準なんてなくて、善と悪の基準はいつも揺れ動いているからだ。
 相対的だから何が善で何が悪なのかについてはその度々に立ち止まって自分の頭で考えなければならない。今までの自分の考えに固執してはいけない、「誰かが言ったから」を理由に自分で考えることを諦めてはいけない、「それは犯罪だから」と考えを停止してもいけない。物語作家がひとつひとつの言葉の前で踏みとどまるように、君はひとつひとつの出来事の前で踏みとどまらなければならない。「悪いことは悪い」ではない、「悪いことはもしかしたら悪くないのかもしれない」。
 この小説『南武枝線』は痴漢やストーカーについて描かれている。痴漢やストーカーは今の時代では悪いこと、少なくとも気持ち悪いことと捉えられる場合の方が多いじゃないだろうか。でも、いつの時代かそれらは「非犯罪化」されて、芸術とか勇気とか人が持つことのできる心の最も美しい部分とか、そういった麗辞とともに語られる「善いこと」になるんじゃないかなと鯨は考えている。確信なんてないけれど、だって、それらは一生懸命に生きようとする人間が見せる一瞬の輝きなのだから。
 この本を読むことで、どうかみじめで報われなかったあなたの人生が輝きますように。

▼『ダイレクト文藝マガジン vol.11
 牟礼鯨の短篇「青姦する女子高生もやがて母」が巻頭に掲載されています。
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# by suikageiju | 2013-05-18 11:29 | kindle | Trackback | Comments(0)
メテオラシャワー問題から創作文芸サークルは何を学べるか
 2013年4月、電子書籍を作成している作家たちの間でちょっとしたトラブルが起きたらしい。現在ネット上に残っている資料から読み取れるのは、メテオラシャワー氏が公募企画「第一回日本法螺小説大賞」に作品を応募したところ、その作品を他の応募作とともに電子書籍にまとめられて「勝手に売られてた」という。
参照: このホラ吹きがすごい!2013:文芸サイト・てきすとぽいがブラックすぎてむしろ秀逸になってる件w

 第一回日本法螺小説大賞の募集記事には下記のような【注意事項】が書かれている。
【注意事項】
 投稿作は電子書籍としてまとめるかも知れません。
 掲載されると困る方は、コメント欄かどこかに書いておいてくれれば、
 予め除外します。
 なお、電子書籍の売上は賞品などに利用される予定です。

 応募者のメテオラシャワー氏は応募期間中である3月20日に下のようなコメントを残している。これ以外のコメントは見当たらない。

電子書籍として掲載される場合はツイッターにてご一報くださいm(__)m

 そして、第一回日本法螺小説大賞の主催者である山田佳江女史は投稿作品をまとめて電子書籍で販売する際に下記のようにtweetしている。

 このtweetを発端としてメテオラシャワー氏がトラブルを起こした。その結果かどうかは分からないけれど山田佳江女史は活動休止を宣言した。コメントのやりとりでお互いに意志疎通しきれていなかった点を除くとして、山田佳江女史は1つだけ誤ちを犯したと考えられる。それは
投稿作をどうするかを未定のまま不特定多数の人から作品を募った。

 である。

 限定した作家を対象に、あるいは仲間内だけで作品を募るのであれば募集要項は未定あるいは曖昧なままで構わないしトラブルが起きる確率は低いけれど、不特定多数から作品を募るときは必ず募集要項や作品の取扱い方針は決定しておかなければならない。そうしなければ大抵トラブルが起こる。
 上で「山田佳江女史は1つだけ誤りを犯したと考えられる」と書いた。けれど細目では2つの誤りを犯したとも考えられる。その2つとは「投稿作をどうするか未定のまま作品を募ったこと」と「不特定多数の人から作品を募ったこと」であり、今回の事例はこの2つが組み合わさってトラブルが発生したため1つだけの誤りと数えた。ただ、トラブルの発生の原因はほとんど2つのうちの後者「不特定多数の人から作品を募ったこと」である。というのは前述の通り、募集要項が曖昧でも特定の人から作品を募ればトラブルは起きる確率は低いが、募集要項がしっかり決定されていても不特定多数から作品を募るとトラブルが起きる確率が高いからだ。この事例では同じような応募要項を読んだはずの、メテオラシャワー氏以外の応募者は観測しうる限りトラブルを起こしていない。つまり前者「投稿作をどうするか未定のまま作品を募ったこと」という状況はトラブルの原因ではない。
 トラブルはトラブルを起こしたい人が起こす。トラブルを起こしたい人とは「心の傷つきや痛みを訴える人」「数値化されない被害を訴える人」など自分のことしか考えない人たちのことだ。状況はトラブルを起こさない。状況はトラブル発生の理由にされることはあるけれど、社会的動物ではないのでトラブルを起こせない。文学フリマのとある合同誌では作品の掲載順だけでトラブルを起こす人がいた。或いは別の合同誌では段組の違いだけでトラブルを起こす人がいた。選考から漏れただけで午前3時に脅迫電話をかける人もいる。トラブルを起こしたい人にとり状況はなんでも構わないのだ。たとえ合理性に欠けていても理由っぽければ、それで拳をあげてしまえる。
 不特定多数から作品を募集するということはトラブルを起こしたい人を招き寄せることである。彼らに門戸を開放することである。だから、たとえトラブルが発生しても不特定多数から作品を募集したいのであれば何が起こってもそれに耐えうる主催者の覚悟が必要とされる。もしその覚悟がなければ不特定多数から作品を募集してはいけない。
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# by suikageiju | 2013-05-15 09:09 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
第2回福岡ポエイチで『昔鯨類』を
 いつぞやのコミティアでぼんやりとブースに座っていると、中学生か高校生くらいの女の子がブースの前にやってきて『掌編集』と『一つの愛とその他の狂気について』を買い求めた。どこで西瓜鯨油社を知ったのだろうかと当時の鯨は不思議がり本を渡しながら訊いてみた、なんで西瓜鯨油社のことを知ってしまったんですかと。
「ブログを読んでいます。断片で泣いてしまって、ケータイの壁紙にしています」
 その娘はケータイの形が変わるくらい充電池がパンパンに膨れあがった携帯電話の画面を見せてくれた。そこにはこんな断片が表示されていた。
もし僕が心から愛する女性がいるとすれば、1000人の男に抱かれた14歳。

 こんな感じの断片や散文の切れ端や詩のなり損ないを集めて、陸から海にくり出したムカシクジラ亜目たちにあやかり『昔鯨類』(むかしくぢらるい)と題して第2回福岡ポエイチに持って行く。この本は俳句でも短歌でも詩でも戯曲でも小説でもない文芸ジャンル「昔鯨類」を提唱する。

 牟礼鯨以外の作家が著わした昔鯨類には以下のようなものがある。それは昔鯨類そのままだったり、その萌芽だったり。
Le trop grand empressement qu'on a de s'acquitter d'une obligation est une espèce d'ingratitude.
『ラ・ロシュフコー箴言集』

 箴言や警句といったエピグラムも昔鯨類に属するかもしれない。あまりにも熱心に恩返ししようとする人は一種の恩知らずである。ときに昔鯨類を知ることによって人との接し方や生き方が変わることもある。実生活で活用できる、これも昔鯨類だ。
Und wenn ich Allahs Namenhundert nenne,
Mit jedem klingt ein Name nach für dich.
『西東詩集』

 なぜゲーテがアッラーフか、というと1814年に独訳されたペルシア詩人ハーフェズの影響であるという。そして私がアッラーフの百美名を唱えるとき、それぞれの音にともなってあなたの名が響く。60代のゲーテが30代のマリアンヌに寄せた詩とされる。他国の宗教に老醜とも云える恋心を込めた、禁忌をも怖れぬ変態性。詩句が昔鯨類でもいいじゃないか。
「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
『ノルウェイの森(下)』

 村上春樹については『海辺のカフカ』より前の作品群を高く評価している。だが、永沢さんのこの言葉を書いた時点ですでに彼は世界文学になったのだと鯨は考えている。この部分だけ永沢さんは優しいのだ。
Que me mataron, niña Wene.
『予告された殺人の記録』

 「僕は殺されたんだ、ウェネ」。「どうしたの」(Qué te pasa!)という現在形の質問に過去形で答えている。しかもその状態を過去形で語ることは本来不可能である。流行の評で言うなれば「骨折している」。
What though the field be lost? All is not lost;
『失楽園』

 たとえ一敗地に塗れてもそれが何だ? 全ては失われていない。これを普通の人間が言ったとしたらつまらない。だが、もし唯一神の怒りの雷霆によって叩きのめされた堕天使の首領が、打ちのめされた堕天使の群に吐いた言葉だとしたらそれは昔鯨類。
桓子不知所為、鼓於軍中、曰「先濟者有賞」中軍下軍爭舟、舟中之指可掬也。
『春秋左氏伝』

 紀元前6世紀初頭、中国。長江中流域にある楚はその勢力を淮河および黄河へと拡げていた。周王の使者に鼎の軽重を問い、覇権を手にしつつある楚荘王は鄭邑を攻め、これを陥落させる。鄭の君主であり周王朝の王族でもある鄭襄公は上半身裸で羊をつれた料理人の扮装で楚荘王を出迎えた(鄭伯肉袒牽羊以逆)。鄭の救援に乗り出したのがかつて覇権国家であった晋である。晋の三軍は黄河を渡り晋楚両軍は邲で干戈を交える。敗れた晋は黄河を渡って撤退する、その場面である。桓子(晋の総司令官、荀林父)はどうしていいか分からず軍中で太鼓を打ち鳴して「先に渡河した者には褒美をとらす」と命令した。三軍のうち中軍と下軍は争うように舟に群がり(舟が沈まぬよう先に乗った兵が後から乗り込もうとした兵の指を斬り落としたため)、舟の中に転がっている指は両手で掬うほどになった。舟中の指掬すべし、文章芸術の極限。
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# by suikageiju | 2013-05-12 19:54 | 福岡ポエイチ | Trackback | Comments(0)
コミティア104報告
 もちろん巷間で流行している言葉は「じぇじぇ」だけれど、電子巷間で流行しているのは忍殺語と聴く。『ニンジャスレイヤー』という書物があり、そこで使われている特徴のある文体が忍殺語とも聴いた。
 5月5日ふらりと立ち寄ったコミティアで、毒々しい色に染められたカーテン生地の洋服をお召しになった伊織さん(兎角毒苺團)が知識雑学研究所のブースに座っていたので、『ブンガクスレイヤー』で読んだだけの半端な知識で忍殺語を試みた。
「アイエエ! イオリ=サン! スゴイデカイチチ!? スゴイデカイチチ、ナンデ!?」
 険のある逆三角の目でギロリと鯨を睨み「すごいむかつく」と伊織さんはつぶやいた。気迫におされ転がるようにコミティア会場の外に出て、初夏の陽をあびながら、抜けるような青空を仰ぐネオ・ウァリウァケ。でも「抜ける」ような青空っていつか語義が変わると思うんだ。

 久しぶりにコミティアへ電車で赴いた。前回の訪問時は原付を使いその楽さに体が慣れてしまったのだけれど、原付を使わずに新宿からりんかい線直通SSラインで行けば『何故?第二章零号-衝動-』を読めることに気付く。大崎を過ぎたあたり、森井御大の掲載作「君はフィクション」を読んで顎が下がったまま戻らなくなった。
 15時前に会場に到着。ティアマガジンを買ったものの創作文芸島の緯度経度だけを確かめるとそれを閉じて、ひたすら創作文芸島をぶらぶらと彷徨うこととした。あの幸福だった一般参加者時代を思い返しながら黒居四季『在庫少女』や日野裕太郎『いずれ早瀬もじくじくと』、ヒロセアリサ『鉄道少女2』、冷亜暦『-A07』、みすてー『トランスポーターラブレター』、解凍みかん☆『かみまち』などを購入した。また、クロフネ3世のところで生原稿オークションをやっていたので面白い試みだと思い記念に入札する。改めて一般参加してみて、サークル参加のままでは分からなかったことが分かるようになると思っていたけれど、そんなことはなかった。お客様気分のまま、楽しい時間だけを過ごした。

 会終了後、鯨暦譜の打ち上げをした。超文学フリマ後に「鯨鳥三日と冷亜暦で合同打ち上げをすれば一挙両得じゃないか」と提案したけれど両領袖に却下されたためにできなかった鯨暦譜企画の精算をするためだ。文章を書いた以外は鯨の人は何もせずほとんどの作業を暦の人におしつけたため、その作業費及び材料代を鯨が「酒で購う」との取り決めを果たすためでもある。だが神保町のろしあ亭で高村暦さんがウォッカをストレートで呷ってはおかわりを繰り返すので鯨は顔面蒼白になった。おまけに「ちっちゃな水」然としたフラグマンを鯨に勧めてくる。鯨は食道の形を明らかにしながらそれを呷った。
 地理に暗い高村暦さんを千代田線お茶の水駅まで案内した記憶まではある。だが、脈絡も経緯も知らないまま、目覚めると鯨は上野不忍池のベンチに腰かけていた。ポケットにねじ込まれた、買ったばかりのhtcj butterflyのタッチパネルにはヒビが入っている。財布はちゃんと鞄に入っていたので上野浮浪者の礼儀正しさに感動した。
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# by suikageiju | 2013-05-07 08:26 | COMITIA | Trackback | Comments(0)
枯片吟
作者は片岸正雄氏。

見ての通り飾り気のない表紙、そして書かれた内容もひたすらに描写、描写、心理描写である。特に読んでいて楽しいとか、面白いとか、そういう感慨は起きない。でも流しの銀面にこびりついた錆、風鈴とパソコンのファンが共鳴する低周波の響き、四十を超えた女性の手の血管、ボックスのタバコしか買わない習慣、腹筋の角度の浅さ、執拗なまでの赤い部屋のなかの描写、サイダーと喩えられた演奏会など細部にまでいきとどいた、変態的なまでの叙述は、読みに深い味わいをもたらす。渋みのある読むべき一冊。
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# by suikageiju | 2013-05-04 21:25 | 感想 | Trackback | Comments(0)
LOL 第十六号

LOL第16号

石橋 英明 / LOL


胸が苦しくなるくらいに木嶋章夫さんの小説が好きなので大阪文学フリマで買えば良かったのに荷物になるから超文学フリマで買えば良いだろうと思っていたらLOLは参加していなかった。

 ご尤も!

傘がない、うっぷす
 豹変した女の気持ち悪さにうっぷす。
碧いうさぎ紅いうさぎ、木嶋章夫
 作家辞書を是非100人希望!
金色の砂漠、木嶋章夫
 山本先生と小林さんのやりとりで自分のなかの羞恥心が爆発。
石橋英明
 写真とかいろいろひどい。
新美南吉の日記1931-1935、奥村拓
 「ごんぎつね」の新美南吉という印象がすっかり変わってしまう傑作。この戯曲で演じられた劇を観たいと思うのと同時にもう一度、自意識過剰と被害妄想の病に冒された児童文学作家としての新美南吉作品を読み返したい。
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# by suikageiju | 2013-05-04 19:52 | 感想 | Trackback | Comments(0)
星砂の浜
 河内寿々(かわちじゅず)さんの作品。なぜこの本を読んだかというと無料サンプルをダウンロードして読んだら、話者が鹿児島新港からフェリーで出航していたからだ。目的地は奄美群島の与論島である。

星砂の浜

河内寿々 / 河内寿々


「与論島は境界の島です」
「境界?」
「ええ、日本と沖縄の境界の場所なんですよ」

 1953年クリスマスの奄美返還から1972年の沖縄返還まで、この島の南に横たわる海が日本国と琉球列島米国民政府の国境だった。国境の島、気が遠くなりそうな広がりを見せる奄美の海、胸が昂ぶる単語の並び。2008年秋、鯨はこの本の主人公と同じように鹿児島新港からフェリーに乗り込んだ。今までの人生を捨てて、新しい人生を南洋に見いだすために。無料サンプルの文章を読んでふと5年前のそんな逃避行を思い出した。だからDLしたのかもしれない。ちなみに那覇から鹿児島までフェリーで24時間かかる。一度お試しあれ。
 この本はAV監督諏訪清子の視点から、「薩摩文化活性化プロジェクト」のAV企画のための準備段階、そして与論島で島の男“まさ”との性交とAV撮影、そして東京に戻ってからの後日談を描いている。ねちっこいくらいな濃密さで描かれた、AV監督諏訪清子の心情のうつりかわりが秀逸。アダルトビデオ会社勤務とは云え、AV女優でもない女性が事情を知らぬ一般男性との性交を世間に曝すまでに至る過程、そしてAV撮影とはいえ他の男性と性交している傍らで子飼いのAV女優に彼氏を寝取られるに至ってからの心情の吐露、描かれた対象の選択もうまく、描き方も巧みである。まだまだkindleにも読むべき本は転がっていると感じさせられた一冊。
とうとぅがなし

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# by suikageiju | 2013-05-04 19:13 | 感想 | Trackback | Comments(0)
ウォヴォカの道化師
 これはネバダ州パイユート族の預言者ウォヴォカが創始した新興宗教ゴースト・ダンスとインディアン戦争の象徴とも云えるウーンデッド・ニーの虐殺を、ウォヴォカとその兄である道化師「ヘヨカ」の関係を中心に描いている。作者は栗山真太朗、サークル名は少年憧憬社。

 インディアン的なものを余り知らないのでインディアンについてはこの本で読んだ以上のことは知らない。ただ、インディアンが合議制民主制を敷いていたこと、酋長が調停者に過ぎないことはすでに知っていた。そのこと、つまりインディアン社会ないしは部族の中心が空洞であることは、我らが日本における本来の天皇のありかたにも通じているだろう。アメリカ合衆国は「中心の空洞さ」を17~19世紀のインディアン戦争で、西洋的かつ唯一神教的な君主制とは別のありかたとして、同胞の血で大地を湿らせながら学んだ。その歴史を踏まえてアメリカ合衆国は大東亜戦争が終結したときに日本の天皇を絞め殺さなかった、のかもしれない。インディアンの酋長を殺すようにそれはリスクが高い上に無駄なことだから。
 中心が空洞な世界では正義に基づいた英雄は生まれない。合議制はその部族が生き延びるためだけの道を探り、その道へと部族を導いていく。その道は人間の倫理感とは大きく隔てだったものになることもある。そんなとき厳しさに耐えかねて合議制は口を閉ざす。
「見捨てろ」

 このときその道を示せるのは道化師「ヘヨカ」だろう。道化師には正義はいらない、善の存在と見られる必要もない、正義からは遥かに遠い。ただその集団が、その人がどう動くべきかを道化師は冷徹に冷笑的に中心の代理として述べ上げる。だが道化師には理性を失った人を、現実を見失った集団を止める力はない。もっとも理性的であるが故にもっとも愚かしい道化師は舞台から離れたところで道化を演じる他はない。
 虐殺のあと、憎悪と嫌悪とを背負って道化師は真南へ向かって歩き出す。その右手には黄ばんだ薄い文庫本が丸められて握られている。
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# by suikageiju | 2013-05-01 07:05 | 感想 | Trackback | Comments(0)
Natural immunity
 その老人は蝋燭の明かりだけで眼鏡の蝶番を調節しながら、片方二重の女性作家について語る。
「私は彼女に人間の形を見いださなかった」
 でも霜月みつかはきちんと人間であったのでしょう?
「確かに人間だった。けれど私は概念的な世界において、作家としての彼女を球体ととらえていた」
 それは彼女に人間性を見なかったということか?
「違う。最も先鋭な人間性を持つため作家は球体でなければならないのだ」

 自然免疫力とも訳せる本書『Natural immunity』(霜月みつか著、1103号室。)には三篇が収められている。その最後の篇「わたしはかえる」に書かれた言葉が心に刻まれた。
その人とわたしの差は何。

 人間皆平等と思いたがるとき、その裏には「私を見て欲しい」という思いが隠されている。人間は生きていく上で何度か、或いは数え切れないくらい選択しなければならない。選択するということはそれ以外の選択肢を捨てることだ。ある場合には、特になんでもない理由である人を選び、ある人を捨てなければならないこともある。またはある命を生かし、ある命を殺すこともある。それは自分にとっては大したことではなくても、他の人にとっては重大なことかもしれない。特に「私を見て欲しい」という思いにとっては痛いくらいに重すぎる。この篇を読むと、いくつもの選択肢を非情にも踏みにじってきた読み手には辛い記憶が甦ってしまう。
 この短篇集を覆うビニル袋は作者の言うようにこの本を守る"免疫力"などではなく、この本から読み手を守るための"ゴム"なのかもしれない。

Natural immunity

霜月みつか / 霜月みつか



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# by suikageiju | 2013-04-30 21:03 | 感想 | Trackback | Comments(0)
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