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サークル閉鎖。
by 鯨
南武支線
 実のところ牟礼鯨はしがない代書人である。営業先へ向けて必死に自転車を漕いでいるとタイヤが何かを踏みつけた。自転車を倒して踏みつけたものを拾うとそれはカセットテープだった。持ち主の名前はもちろん、タイトルさえ書いていない。事務所にそれを持って帰って、倉庫に眠っていたラジカセを小会議室まで引きずり出しカセットテープをセットする。ラジカセの再生方法なんて中学生以来で忘れてしまっていたけれどさすがはユニバーサルデザイン、再生ボタンはいつだって右向き矢印だ。ラジカセが風の音を鳴らす。しばらくして声が聞こえてきた。男の声だ。胸ポケットに差した区役所のロゴ入りペンと尻ポケットにいれてあった生命保険会社のメモ帳とを使って、男のささやく言葉の文字起こしをしてみる。聴き取れた内容は以下の通りである。
南武本線を私は乗っているつもりだった。武蔵溝の口でも武蔵小杉でも鹿島田でもどこでも自由気儘に降りてやるつもりだった。しかし私の人生はいつの間にか南武支線へと導かれ、気づけば暮れ泥む浜川崎駅に私は立っていたのだ。あるべき場所を失ったのか、それともあるべき場所に戻ったのか……。

 テープの音声はそこで途切れていた。あとは雑音ばかりだった。ラジカセの停止ボタンを押す。にわかに鯨は「南武支線」に興味を持った。浜川崎駅に立つという感覚を味わいたかったのかもしれない。スマートフォンで調べて見ると南武支線は南武線の尻手駅から鶴見線の浜川崎駅まで伸びている枝線らしい。何度か尻手駅は通ったのに気づかなかった。いや気づいていたのに気にとめなかったのか。ともかく南武支線に乗ってみたくてたまらなくなった。そして今日6月7日は天気がいい。空気が軽やかで澄んでおり、汗ばむ程ではなく肌寒い程でもなく。やがて数週間後には夏にかきけされるだろう清々しい夕刻だ。鯨は諸先輩方に「お先に失敬」と言い残して事務所をあとにした。17時半であった。17時45分、小田急線は登戸駅に近づく。多摩川沿いに二軒のラヴホテルが見える。河川敷では子供達がフォーメーションを組んでいる。登戸駅で南武線川崎行きに乗り換えた。鯨は何度かこのように終業後に南武線に乗り換えた。それが生きる意味であり、生きる目的であった。それがいつのまにかこのカセットテープの男のように失われてしまっていた。鯨もどうやら南武支線の迷い人のようだ。
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 追憶にふけり夕の朱に染まる街並みを見ながら尻手駅に到着する。地下の階段をもぐって2・3番ホームに出た。会社帰り、学校帰りだろうかホームには数人の乗客がいた。何本か2番ホームの登戸方面行きの列車をやりすごす。南武支線こと浜川崎支線は本数が少ない。最も多い平日8時台でも4本、お昼は地方の在来線並の本数だ。僅か4駅しかないとは言え、22時43分が終電というのももの悲しい。
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 18時28分発の二両編成、浜川崎駅行きに乗る。車窓風景は動画の通り。八丁畷駅まで盛り土から高架の上を通って進む。八丁畷は川崎駅のすぐ南である。川崎アプローチ線という現状の南武支線を廃線する計画ではこの八丁畷駅を通らずに日進町のあたりに新八丁畷駅(仮)を新設するらしい。さて列車は進み続ける。八丁畷駅から川崎新町駅までは高架からまた盛り土となる。緑に囲まれた乗客数ゼロの川崎新町駅からは複線となり、鯨が乗った列車は貨物列車とすれちがった。件の川崎アプローチ線計画では川崎新町駅と浜川崎駅のあいだ、小田栄のあたりに新駅を設けるとのこと。ちなみにこの区間は他の区間に比べて少し長くなっていた。二両編成の浜川崎駅行きはゆっくり終点・浜川崎駅のホームにすべりこむ。鶴見線の浜川崎駅とは同じJRなのに元の鉄道会社が違うため改札を出なければ連絡できない構造になっている。その浜川崎駅前には孤独のグルメに出てきそうな「浜川崎商店(後藤)」があり店内は立ち飲みの男達であふれていた。その向こうはすぐJFEスチールの工場がある。男の町なのだ。
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 帰りは浜川崎駅から一駅の川崎新町駅で降りる。往路は誰も乗ってこなかったのに復路では女子高生や男子高生であふれていた。尻手駅行きをめがけて高校から走ってくるのだろうか。改札口ではテレビのカメラが取材が来ていた。この近くにオウムの高橋克也でも潜伏していたのだろう。それから住宅街を歩いて八丁畷まで歩いて目指す。今にも糸ひくパンツを脱ぎ出しそうな女子中学生の自転車に追い越され踏切を渡るとき、横を向くと高架線のある風景が視界を占拠した。その印象から鯨は「南武枝線の天空率」という言葉を思いつく。そして、これを第十五回文学フリマの主題にしようと決めた。
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 住宅街をひたすら西北目指して歩いて、八丁畷駅を見つけようと思ったら京急のピラミッド型硝子天井の八丁畷駅しか見つからなかった。どうやら南武支線はそこを間借りしているらしい。新八丁畷駅を新設するのは京急とのこういった間借り関係を解消したいという狙いもあるのだろうか。
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 八丁畷周辺は東海道線や京急や南武線が入り乱れて方向感覚を失いやすい。しかも鯨が歩いていたのは黄昏時である。自動車教習学校の横を抜け、地図を片手にして迷いながら南武本線と南武支線の分岐する地点を目指していたらすっかり日は落ちて暗くなった。鯨の目指す本線支線の分岐点は盛り土の上にあり見ることはできなかったが、その近くを通ることで良しとした。晴れていたら近くの高層マンションに忍び込んで見下ろしてみようと思う。空腹をかかえ、足を無駄に疲れさせて夜の尻手駅にたどり着いた。こうして鯨のはじめての南武支線行は終わった。
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 6月7日木曜日、鯨ははじめて南武支線に乗り、そして体感したいと思った浜川崎駅に立つことができた。偶然拾ったカセットテープに声を吹き込んだ男が何を感じ、何を考えていたのかは明晰には分からない。だが、このまま乗っていけば川崎にたどり着くであろう南武線に乗っていていつのまにか浜川崎に着いているような、そんな「南武支線」感についてはなんとなく皮膚で理解できるようになった。ただ、本当に南武支線の哲学、すなわち「南武枝線の天空率」について会得するにはこの南武支線行では不足だろう。まだまだ何回も浜川崎を訪れる必要がある。「あるべき場所を失ったのか、それともあるべき場所に戻ったのか……。」この禅問答について南武支線を舞台に考えあぐねたい。
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by suikageiju | 2012-06-07 23:18 | 雑記
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