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サークル閉鎖。
by 鯨
文学フリマは滅ぶべきである
もっと作家は自由な存在ではなかったか? なぜ小さなブースを守って一所懸命しているのか。by 文学フリマ参加者

文学とは悪党の所業である。あるいは悪党の所業を文学と呼ぶ。悪党はかつて合理的社会が崩壊過程で絞り出した潤滑油であり、同時にその存在が合理的社会の非合理性を暴いた。その暴く手段が言葉であれば、それはすなわち文学と呼ばれる。ゆえに悪党とは作家であるが、現代において悪党の対義語はサラリーマンである。鎌倉時代、悪党の対義語は御家人だった。御家人と言えば鎌倉幕府である。

最近は1192年に開府していないというこの鎌倉幕府が、文学フリマを考えるモデルとなる。既存の出版流通システムの外に文学の市場を作るという目的で始まった文学フリマは、既存の朝廷とは別の共同体を作るという目的で始まった鎌倉幕府(と後世呼ばれている超巨大武士団)と似ている。しかも鎌倉幕府が朝廷の令外の官と墾田永年私財法に依拠した朝廷の下部組織(武家労働組合)でしかなかったように、現状では文学フリマも既存の出版流通システムの下部組織でしかないし、それに甘んじることを目指している。

文学フリマ・アライアンスの一部が私腹を肥やすシステム

更に鎌倉幕府は実朝暗殺後、源氏棟梁を戴かなくなり征夷大将軍・日本国惣追捕使・日本国惣地頭といった地位に拠る傀儡将軍を掲げた得宗専制へ移行した。同じように文学フリマも文学の根源である悪党を排除し文学と自由という名目を同時に廃し、最大の文章系イベントという定評に拠るイベントとなった。更に文学フリマ・アライアンスによる百都市構想を掲げ、地方事務局開催の文学フリマやテキレボで参加登録が1サークルあるたびに数百円がwebカタログを作成した山崎良祐氏の私腹を肥やすために送金されるという体制に変貌した。その証拠に第二十回文学フリマ東京から「諸経費の高騰により出店参加費が5,000円から5,500円に上が」った。


また、文学フリマにとって外に向けた唯一の生命線だった批評システム「非公式ガイド」も、悪党は立ち去り「角が立たないようにする」参加サークルによる参加サークルのためのガイドブックへと路線を転じた。文学フリマガイドブックの方針転換は文学フリマ・アライアンスと山崎良祐氏にとって金が入るのがサークル参加登録でしかない現状では、必要な判断だろう。サークルを怒らせてサークル参加登録数を減らしたら身入りが減るだけだ。文学フリマが文学という名目を必要としなくなった以上、悪党は邪魔だ。来場者のための非公式ガイドなんて文学フリマ・アライアンスにとり目の上のたんこぶでしかない。サークル参加者が心地よければ文学フリマ・アライアンスはそれでいい。文学とは単にイベント名に冠するだけの飾りとなった。

なぜ文学フリマ・アライアンスは百都市構想に熱心なのか

それはお金のためだ。元寇以降、鎌倉幕府は御家人へ恩賞を与えることができず信頼関係は失われた。一方で文学フリマの参加サークルは純粋来場者の増加を期待している。しかし百都市構想である。文学フリマ・アライアンスは百都市開催を目指して拡大を続け、開催都市が増えてサークル参加登録が増えるたびに硬貨の落ちる音(たとえば、チャリン)がして文学フリマ・アライアンスの一部メンバーが私腹を肥やす。文学フリマ・アライアンスはお金に直結するサークル参加登録を増やすためには尽力するが、純粋来場者を増やすのはサークル参加者任せだ。

今までは望月代表のトーク力と人望と参加サークルの無知でなんとか誤魔化せてきた。「サークル参加者が1人で2人招けば1000人だ」「サークルに関係ない来場者なんてほとんどいやしない」「文学は内輪で進化してきたんだ。蕉風だって白樺派だって」。内輪でも相互批評があったことを除けば反論のしようがない正論だ。「百都市に文学フリマが拡大すればそれが宣伝となり純粋来場者が増える」東京の現状を見ても希望はいつだって美しい。開催都市数が百都市に近づくたびにうなぎ上りに増え続けるサークル参加者、一向に増えないだろう純粋来場者。査読制度が崩壊し批評機関としての意義が失われた文学フリマガイドブック、各地方都市事務局が公式ブログに載せる記事では目標設定のないままの「成功!成功!」の連呼、足し算で簡単に出来る来場者数の操作。文学フリマ・アライアンスはメンバーである地方事務局に内規を一切明かそうとしない。きっつー、とも言いたくなる。

鎌倉幕府はモンゴルと戦ったとき外にうって出なかった。文学フリマは外へうって出るだろうか。気づいたときには既存の出版流通システムより最悪な集金システムが出来ているかもしれない。

今や文学フリマより市井の一部書店の方が革新的に流通システムに抗っている。同人誌即売会という20世紀のシステムにいつまでしがみついている必要があるのだろうか。しかもそのシステムが事務局の一部の私腹を肥やす道具であり、かつイベントの大義名分も失われているとしたら。

Bunfree delenda est

鎌倉幕府は悪党の跋扈により武士団の内紛という形で別の棟梁を戴く武士団「室町幕府」へと変革されてしまった。同じように速度と無秩序を旨とする悪党的思考を持った作家が跋扈すれば文学フリマは滅びるだろう。そもそも作家は文学フリマという組織に与され机を半分に仕切ったブースを守り製品・商品をトレースし続けるサラリーマンではなく、流動的に作品を創造し喜びと悲しみと怒りをばら撒く悪党であるのが本質だ。文学フリマという動物園で飼いならされた経済的動物が作家としての本分である反社会的性質を思い出し悪党に戻れば文学フリマは鎌倉幕府のように瓦解する。文学フリマ・リスペクターの皆さん、安心してほしい。確かに文学フリマは大きくなり望月代表は優秀だ。しかし代替不可の存在ではない。鎌倉殿が室町殿に変わったように、文学フリマが死んでも代わりの優秀なイベンターはいくらでもあるし、webカタログみたいなシステムを作れる技術者はいくらでもいる。文学フリマ後に別の文章系イベントが発起しないことはない。そして、そもそも文学フリマがある今は作家にとり十全な状態ではない。十全であったなら、文学フリマは存在しなかった。文学フリマを必要としないことが作家の本願であった筈だ。その起源の危うさこそが文学フリマの本質である。

才能ある作家諸君、君は与えられたブースを守るだけの守護地頭のままで満足していられるのか。幕府が一回変わるだけで戦国大名にも天下人にもなれるのに。もし少しでも野心を抱いたのならやるべきことは簡単。失ってしまった液体性を獲得する、ただそれだけだ。

第二十二回文学フリマ東京の戦利品で本棚が大変だ。ともあれ、文学フリマは滅ぶべきであると考える次第である。

by suikageiju | 2016-02-25 17:15 | 文学フリマ
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