カテゴリ:自己愛な人( 6 )
メテオラシャワー問題から創作文芸サークルは何を学べるか
 2013年4月、電子書籍を作成している作家たちの間でちょっとしたトラブルが起きたらしい。現在ネット上に残っている資料から読み取れるのは、メテオラシャワー氏が公募企画「第一回日本法螺小説大賞」に作品を応募したところ、その作品を他の応募作とともに電子書籍にまとめられて「勝手に売られてた」という。
参照: このホラ吹きがすごい!2013:文芸サイト・てきすとぽいがブラックすぎてむしろ秀逸になってる件w

 第一回日本法螺小説大賞の募集記事には下記のような【注意事項】が書かれている。
【注意事項】
 投稿作は電子書籍としてまとめるかも知れません。
 掲載されると困る方は、コメント欄かどこかに書いておいてくれれば、
 予め除外します。
 なお、電子書籍の売上は賞品などに利用される予定です。

 応募者のメテオラシャワー氏は応募期間中である3月20日に下のようなコメントを残している。これ以外のコメントは見当たらない。
f0208721_20354790.jpg

電子書籍として掲載される場合はツイッターにてご一報くださいm(__)m

 そして、第一回日本法螺小説大賞の主催者である山田佳江女史は投稿作品をまとめて電子書籍で販売する際に下記のようにtweetしている。

 このtweetを発端としてメテオラシャワー氏がトラブルを起こした。その結果かどうかは分からないけれど山田佳江女史は活動休止を宣言した。コメントのやりとりでお互いに意志疎通しきれていなかった点を除くとして、山田佳江女史は1つだけ誤ちを犯したと考えられる。それは
投稿作をどうするかを未定のまま不特定多数の人から作品を募った。

 である。

 限定した作家を対象に、あるいは仲間内だけで作品を募るのであれば募集要項は未定あるいは曖昧なままで構わないしトラブルが起きる確率は低いけれど、不特定多数から作品を募るときは必ず募集要項や作品の取扱い方針は決定しておかなければならない。そうしなければ大抵トラブルが起こる。
 上で「山田佳江女史は1つだけ誤りを犯したと考えられる」と書いた。けれど細目では2つの誤りを犯したとも考えられる。その2つとは「投稿作をどうするか未定のまま作品を募ったこと」と「不特定多数の人から作品を募ったこと」であり、今回の事例はこの2つが組み合わさってトラブルが発生したため1つだけの誤りと数えた。ただ、トラブルの発生の原因はほとんど2つのうちの後者「不特定多数の人から作品を募ったこと」である。というのは前述の通り、募集要項が曖昧でも特定の人から作品を募ればトラブルは起きる確率は低いが、募集要項がしっかり決定されていても不特定多数から作品を募るとトラブルが起きる確率が高いからだ。この事例では同じような応募要項を読んだはずの、メテオラシャワー氏以外の応募者は観測しうる限りトラブルを起こしていない。つまり前者「投稿作をどうするか未定のまま作品を募ったこと」という状況はトラブルの原因ではない。
 トラブルはトラブルを起こしたい人が起こす。トラブルを起こしたい人とは「心の傷つきや痛みを訴える人」「数値化されない被害を訴える人」など自分のことしか考えない人たちのことだ。状況はトラブルを起こさない。状況はトラブル発生の理由にされることはあるけれど、社会的動物ではないのでトラブルを起こせない。文学フリマのとある合同誌では作品の掲載順だけでトラブルを起こす人がいた。或いは別の合同誌では段組の違いだけでトラブルを起こす人がいた。選考から漏れただけで午前3時に脅迫電話をかける人もいる。トラブルを起こしたい人にとり状況はなんでも構わないのだ。たとえ合理性に欠けていても理由っぽければ、それで拳をあげてしまえる。
 不特定多数から作品を募集するということはトラブルを起こしたい人を招き寄せることである。彼らに門戸を開放することである。だから、たとえトラブルが発生しても不特定多数から作品を募集したいのであれば何が起こってもそれに耐えうる主催者の覚悟が必要とされる。もしその覚悟がなければ不特定多数から作品を募集してはいけない。
[PR]
by suikageiju | 2013-05-15 09:09 | 自己愛な人 | Trackback | Comments(0)
生放送から卒塔婆文化を理解すること
 うちひしがれた鯨と酔客を乗せて私鉄は蛇行しながら郊外を目指す。ただひたすらに後悔の念が押し寄せていた。後悔するのに費やす時間がいつもより長く、考えをまとめるのに時間がかかったのは脳の糖分が不足していたからだろう。きっと、レッドブル一杯では足りなかった。アルコール飲料を摂取して忘れていた方が、その後の頭痛を考えなければマシだったのかもしれない。

 4月14日夜、大阪難波の高島屋8階にある居酒屋さんぽで第十六回文学フリマの打ち上げとして鈴木さんとクロフネ3世と伊織さんに囲まれて飲んでいたとき、超文学フリマ一週間前の20日夕に開催するニコニコ生放送を使った宣伝会議の話を聞いた。そのとき鯨は参加を表明した。これは、一週間に一回の頻度で人と会うのも楽しいだろうと思ったからだ。それもニコニコ生放送をするとのこと。新奇でおもしろそうである。難波で話を聞いた時点では、それは極めて内輪な生放送になるだろうと容易に予想できた。あるいは「卒塔婆」的な。
 開催の数日前までに参加メンバーにいくつか変更があった。そしてノンポリ天皇がメンバーに名を連ねていた。違和感を得た。こんな極めて内輪の生放送になぜノンポリ天皇が、と。普段のノンポリ天皇の活動とはあまりにかけ離れた選択に戸惑いを隠せなかった。ノンポリ天皇の芝浦慶一氏はその参加メンバーをよくご存じなかったのではないかと疑ったくらい。ただ準備時間、目白の森の某教室で鈴木さんが「あのノンポリ天皇が来ますよ」と言ったとき、すべては大丈夫なのだろうと信じた。ただ16時半過ぎにノンポリ天皇の一行が遅刻して来場した後、渋澤怜が放送開始前に来場して鯨に「ブログがすごいしっかりしていて意識が高いと思って」と間の抜けたことを言っていて、もしかしたら芝浦氏も渋澤怜の轍を踏んだのかもしれないと危惧して、氏のこけた頬を見る。それは凶相である。
 17時半に放送が始まったけれど、2サークルがまだ遅刻していた。ゆえに段取りもどういう順番で何を話すのかも決めることはできなかった。遅刻したサークルをどう割り振るのかという段取りさえも。そんななか始まった初回の芝浦氏の発表はその創作姿勢と同様に抜け目がなかった、ただ一点だけ、それが普通の本の宣伝であることを除いては。あるいはその時にもう場が変わってしまっていたのかもしれない。
 次の発表はクロフネ3世である。彼が話し出して最初の生放送枠が終わって延長が成功したときに、鈴木さんが喫煙のため場を去ったことに驚く。リアリズムから逸れることを恐れるならば鯨は怒りを覚えた。鯨は嫌煙家ではなく、喫煙家である。怒りを覚えたのは、まず話しているクロフネ3世に失礼だろうという実にどうでも良い見当違いな理由からである。次にノンポリ天皇が普通に本を紹介をしたことで、この生放送が「変人」や「キチガイ」を演出してただ垂れ流すだけの放送から何か宣伝を志したようなキチンとした放送へと変わり司会進行を疎かにできなくなった流れに鈴木さんが気づいていなかったからだ。「流れ」というかこれは天皇陛下の意志だ。鈴木さん、天皇陛下はどうやら白塗りが出てきただけで視聴者が喜ぶような放送はしたくないようですよ。もう鯨自身の発表は本を使わずスライドショーベースで進める以上どうにもならない、それでも鈴木さんはまだなんとかなるだろうとは思っていた。白塗りだけど。主催者である鈴木さんが姿を消した会場内で、鯨は苛々としてミネラルウォーターを口に含んでいた。もし鯨がアルコール飲料が好きなら室内に垂れ込める不穏な空気から来る緊張をかき消すために飲酒してただろう。クロフネ3世の発表がもうすぐ終わりに近づく。さすがにと思い鯨は鈴木さんを呼びに教室後ろに付属するベランダに赴き、ガラス戸を拳で数度叩いた。「どうしました」とガラス戸が開いて白塗りの男が顔を出す。鯨はきつめに言う。
「もうすぐクロフネ3世の番、終わりますよ」
 だが
「まだタバコを吸っているんで」
 と返事をして鈴木さんはガラス戸を閉め、再び喫煙スペースであるベランダに戻った。今度の鯨は怒りを覚えず不安になった。そして不安のあまり席に戻って隣に座っていた渋澤怜の前で暴言を吐いた。このままでは佐藤さんから聴いている芝浦氏の性格から考えてどこかのタイミングで場は荒れる、だがそうなる前に鈴木さんと何かしらの手を打つのは無理だとその時点で判断した。ずばり、鈴木さんを庇うのは諦めた。部屋の対角線上に座る芝浦氏の痩せこけた頬を怯えながら見る。そしてクロフネ3世が話し終わったときも鈴木氏はまだベランダにいた。芝浦氏がカメラの前に姿を現した。そこで発せられた「内輪盛り上がりがひどいんで、コメントでdisってください。こんな屑どもに進行をまかせちゃダメですよ」という芝浦氏の言葉は、語感は悪いけれど、その通りだと思った。だが、それを見てしまってからは後はもう「卒塔婆」でいこう、と割り切ることができた。ノンポリ天皇も本の宣伝も関係ない、4月14日の夜に鯨が、たぶん鈴木さんが、伊織さんが、クロフネ3世がイメージしたままの放送をつくっていこう、そう決めた。
 卒塔婆も白塗りも内輪で楽しむネタにはなりうるけれど、それ以上ではない。そもそもこの超文学フリマ向け宣伝企画会議は宣伝とは名がついているが何ら宣伝にはならない。もし宣伝ならば誰かの知り合いの「生主」か「歌い手」でも招聘すべきだろう。だがそれをしなかったということは、その生放送は最初から趣味の延長線上にある遊び、内輪発内輪向けの放送である。それは告知ブログを見ればわかりきったこと。つまりあの会は最初から卒塔婆であり、卒塔婆として楽しむべきものだった。そうだ、と鯨は気づく、鯨の不安は会の趣旨とメンバアの募集方法が一貫していないチグハグさによって生じたものに過ぎないのだ。それは何の解決にも繋がらない気づきだったけれど、不安はすぐに消えた。そして、ただあなたの道化師になりたい、と願った。
 それからの鯨は自由にやらせてもらった。最初から卒塔婆であることは分かりきっていたので発表も卒塔婆的にやらせてもらった。というよりスライドショーは卒塔婆風に作ってあったので中途半端にやるわけにはいかなかったのだ。自己満足ではあるが、卒塔婆を完結させることができたと思う。その後もすべて卒塔婆的に振る舞った。表に出てくる視聴者もコメントを読めばこの放送が卒塔婆であることが分かっているようにうかがえる。例えば「コメントを読んでくれないなら帰ります」なんてコメントも実に卒塔婆性に満ちている。伊織さんはお菓子とお酒を買い込み顔を朱に染めながら酔っていた。実に卒塔婆婆である。ただ、だいぶ遅れて来た高村暦さんは16時まで寝ていたのに卒塔婆的ではなく振る舞った。普通に本の宣伝をしていた。その実直さが道化師としてしか生きられない鯨には輝いて見えた。そして最後に「楽しかった~」と言っている渋澤怜の朗らかさが羨ましく思えた。
 次の生放送会場に行かなければならない都合で鯨は20時には会場を去らざるをえず、鯨がその生放送のwifiを担当していたので20時に会は終わった。鯨が帰り支度をしていると
「聴いていたなかで高村さんのが一番良かった」
 と芝浦氏が誰宛にでもなく言う。それは間違いなくそうで、普通に本の宣伝をしていたのが高村さんと芝浦さんの2人くらいしかいなかったからだ。一番良かったのは芝浦氏のものだろう。帰り仕度が済んで鯨がいざ帰ろうとしたときに、芝浦氏は鈴木さんを呼び止めて
「参加者に集客力がない」
 と言っていた。鈴木さんは「この人がいるから観ようと思う人はノンポリ天皇さんと鯨さんしかいないんで」などと返していたが、そんな返答はもう無意味だろう。2人の前提は生放送のはじめから大きく食い違っているのだから。
「お酒はやめましょう。鯨さんがうるさくて半分くらいの視聴者は落としましたよ」
 牟礼鯨はチョコレート菓子バッカスのなかに入っている洋酒以外のアルコールは摂取していないし、周知の通り普段から酔っぱらった風体の鯨である。芝浦氏が自己愛のあまり現実を認識する力を失っていたのはいつからだったのだろう。鯨は挨拶をし足早に会場を出て目白の森をあとにした。そのあと、芝浦氏が鈴木さんとどんな会話をしたのかは知らない。
 池袋駅についてから20時20分頃、西口のケンタッキー前に鯨鳥三日の三人で集まりビッグエコーの一室でユーストをした。和やかな放送だった。ラストオーダー後のコメダ珈琲で三人が無言で座っているとき、ふと、生放送の追加枠の料金を鈴木さんに払い忘れていたことを思いだした。超文学フリマでちゃんと払うので待っていてください。
[PR]
by suikageiju | 2013-04-21 10:45 | 自己愛な人 | Trackback | Comments(0)
頑張って育てているキャラクターを下劣にねじ曲げられる作者の痛み
 文学フリマ、と仮にも「文学」の名を冠するイベントにサークル参加して文学作品を世に問う文学結社の一員である以上、記録として残しておくべき出来事があったのでここにブログ記事にさせていただいた。

 2012年11月18日、第十五回文学フリマで千円札を右手に握りしめた鯨は東京流通センターの2階、「絶対移動中」ブースの前に立っていた。ある密告者から「霜月みつかが上で『それでは、眠れない夜を』って言っているよ」と聴いたからだ。それは弊社が同人誌即売会で独自に使用する文句であり、一週間前から何時間も掛けて顔芸を鍛えてきた末に披露しているもので、素人が何の下積みなしにやっているなんて許せないと思ったのだ。その数分後、鯨は絶対移動中の新刊と眠る犬小屋さんの『後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む』を購入してエスカレーターを下りていた。

後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む

青砥 十 / 密林社


 11月27日、20時ごろに『後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む』を読み終わって楽しんだ鯨は、この本についても感想を書くべきかを考えた。必ずしも読んだ全ての文芸同人誌の感想を書いているわけではないからね。思考の末、書くことにした。そしてこの本をもてなすのに一番ふさわしいとたどり着いたのが二次創作風感想だった。ありきたりな感想なんて今さら誰も求めていないだろうし、渾身をこめて書いただろう作品のリアクションとして二次創作を書かれれば青砥十さんも喜ぶだろうと思ったからだ。己の欲する所を人に施せ、である。自分の作品の二次創作が出回る。文芸同人作家にとってこれほどの喜びがあるだろうか。
 そこで書いたのが「後輩書記とセンパイ会計、普通の体位に挑む」というブログ記事だ。ちょっぴりエロ風味になって書きあがったのは21時過ぎになった。青砥さんがこの記事を見つけて喜ばれる様を想像しているといてもたってもいられなくなるくらい嬉しくなる。それからしばらくAKBINGO!のこととかタトホンのこととか考えて時間を潰していた。そして午前0時前にTwitterを見るとその記事へのリンクを霜月みつかがRTしていたので公式RTした。ふと気付くとダイレクトメッセージが来ていた。立て続けに3通来ていた。
まったく笑えない冗談です。即刻削除していただけますでしょうか。よろしくお願いします。 @sleepdog

あなたはキャラクターを何だと思っていますか?今後二度と関わることはないと思います。せめて罪悪感があるのなら、とにかく即刻削除をお願いします。 @sleepdog

今日はインターネットにはまだ接続されませんか?不快きわまりなく、また絵師にも大変失礼で申し訳ないので、早く削除してください。エキサイトにも問い合わせてみます。ご自身の良識を疑ってください。よろしくお願いします。 @sleepdog

青砥さんだ!と思って嬉し恥ずかし感謝メッセージと期待して読んだら「ええええっ!」と驚くような文面だった。それは二次創作風感想「後輩書記とセンパイ会計、普通の体位に挑む」に対する『後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む』作者・青砥十さんからの削除依頼だったのだ。鯨は
キャラクターはコンテンツとは思っています。敬意こそあれ、罪悪感は特にありません。削除を希望されるのであれば削除いたします。 @murekujira

とダイレクトメッセージを返した。そして記事を削除して公式RTとTweetを削除した。基本的に鯨は削除依頼があればその記事を掲載し続ける確固たる理由がないかぎり応じることにしている。今回も掲載し続ける理由がないのですぐに応じた。また青砥さんからダイレクトメッセージがあった。
そうですか。意味がわかりませんが、とにかく削除してください。それだけで結構です。よろしくお願いします。 @sleepdog

削除を確認しました。ご対応ありがとうございます。m(_ _)m
拙作のご購入とお読みいただいたことは感謝いたします。ただ、頑張って育てているキャラクターを下劣にねじ曲げられる作者の痛みをどうか覚えておいてください。
なお、エキサイトの問い合わせはまだでした。さようなら @sleepdog

この返信は送れなかった。ブロックからのブロック解除である。
 注目すべきは青砥さんのキャラクターへのこだわりについて、である。きっと何作品にも後輩書記のふみちゃんや数井センパイのキャラクターを登場させてその人物背景やら隠されたストーリーやらを練り込んで今に至るのだろう。しかし、その努力がたった一本のブログ記事で「下劣にねじ曲げられる」と考えるのは鯨への過信であり、そしてご自身の力量への過小評価である。キャラクターはコンテンツに過ぎない。単に消費して時には浪費するだけの情報に過ぎない。もしあの記事が仮にキャラクターを「下劣にねじ曲げられる」ような情報と力を秘めていたとしても、本編作者であるならば更にそれを凌駕する情報と力で覆せばいいだけなのに。そういえば、あの記事については「本編より面白い」とコメントを寄せてくれた人もいた。鯨も作者に感謝の意味をこめて本編より面白くなるよう丹念に書いた。だからこそだろう、「頑張って育てているキャラクターを下劣にねじ曲げられる作者の痛み」は理解できないけれど「頑張って育てているキャラクターを下劣にねじ曲げられる作者の弱さ」はなんとなく分かる。
 そして文学フリマ出展作品の感想の在り方である。もちろんネットにあがってくる感想については作者が期待していたものではないことなんて多々ある。だがそれについていちいち削除を要請するのは文学に携わる者としては恥ずべき行為だと鯨は思う。正当な論拠があるけれど気に入らない感想であればさらに良い作品を提出すればいいだけだし、弱点だらけで気に入らなければその感想を文章で批判すればいいだけだ。筆執る者でありながら、相手の口を封じて平穏を手にしようとするなら右手の筆は錆び付くだけ。

 最後に、西瓜鯨油社の刊行物については二次創作は大歓迎なのでどんどんやってね。コルキータも澤田彩香も、子宮をえぐってもいいし、船員全員で輪姦してもいいし、痴漢の餌食にさせちゃってもいいよ。それで一定のレベルを超えたら西瓜鯨油社から出版する。原稿料は払わないけどね!
[PR]
by suikageiju | 2012-11-28 07:00 | 自己愛な人 | Trackback | Comments(0)
潜勢の文学であるということ
 先の猫鯨座談会で鯨と山本清風氏は承認欲求にからめて、特に女性同人文芸作家に向けてのメッセージとして
女性であるというジェンダーをぷんぷん匂わせながら「女性だから特別なんだよ」という子宮病をちらつかせるのではなく更にその上に技量を積んで何かを語れ

という内容を話した。その際に両者から同人文芸作家渋澤怜女史の名前が例示された。以下はその座談会とはまったく関係なくつぶやかれた女史のtweetである。



 鯨は女史の『バンドマンとは付き合うな』等を読んだことがある。性交表現のあることがエロさの充分条件ではないという前提で読むならば、特にエロさはなかった。そして「女」という面もさほど強調されてはいなかった。ただ語り口のみで鯨は彼女の技量を評価した。まずここでまとめ、渋澤怜女史は「女」としての武器は持っておらず、確かに書く技量がある。なので同人女性作家諸君は「それだけで同じ年の男の子より良いもの書けちゃう」という安易な言葉に惑わされたり安心しちゃったりして過去の女性作家に続いて駄作死屍累々とはせずに、ちゃんと技量を積んで作品を仕上げよう。そうやって文学フリマ並びに創作文芸界全体の底上げを図っていこう。
 「私は○○で特別なんだから」と仕上げられただけで技量を伴わない作品には、いつだってひどい目にあって来た。○○に入る言葉が何であれ「私は特別なんだから」なんて自負はいらない。ましてや「女」という世界の過半を占める性であっては特別さも無い。「二十代の女の子」がどんなに肉感的であったとしても、また、その作品を褒めることが性的蹂躙の達成に繋がったとしても、ただそれだけでは特別たりえない。普通でも全然構わない。○○症候群だとか○○人格障害だとか○○病だとか○○被害者だとか、自分を特別な弱者に仕立て上げるための理由や肩書きを探している暇があったら、この世界のどんな些細な事象でもいいからスケッチするようにして書く練習を積んで欲しい。自分を弱者に仕立てあげて、誰からも文句の言われない、自分を守ってくれる堅固な城塞なんて築かなくたっていい。ただ書く技量さえあればその力によって君は守られるのだから。そしてその書く技量で以て自分のアイデンティティを確立しろ。

 話は変わる。以前に女史と対談した際、霜月みつか嬢離席後に「普通さから逃れるためにもがくことでその普通さがかえって増幅されて凡庸への道を辿っているのではないか」と女史に言ったことがある。そのときは鯨も病み上がりで意識が朦朧としていて話の焦点を絞られず、しかもうまくそのことを説明できなかったので、女史からぴしゃりと「さっきから鯨の言っていることはひとつもわからない」と言われてしまった。もし改めるとしたら「普通さから逃れたことの卒業証書みたいな作品そのものではなく、無理をして普通さから逃れようと藻掻く渋澤怜という在り方こそが文学的である」、そのようなことを当時の鯨は言いたかったのだろう。
[PR]
by suikageiju | 2012-08-26 00:33 | 自己愛な人 | Trackback | Comments(0)
創作文芸の「上から目線」問題
 最近、創作文芸界隈で「上から目線」という言葉を目にする。この言葉がいつから使われるようになったのか。件の企画の周辺について振り返ってみれば、その言葉を最初に使ったのは鯨である。そして4ヶ月ほど唯一の使用者だったのだが、最近そうではなくなった。


 いずれの発言も、他人の小説や作品をレビューすることを「上から目線」や「上の立場」と表現して否定的にとらえようと努力している様子がうかがえる。この傾向はかねてより鯨が危惧していたことである。

 まず、他人の小説や作品を品評する立場は全て「上から目線」になるとは限らない。そうなると思うのは評者への過大評価である。品評には以下の2つの場合が考えられる。1つには「自分の技量より下の作品を段階的に評価する」、そしてもう1つは「自分の技量より上の作品を畏敬する」、この2つである。前者の品評は「上から目線」であるが、後者の品評は「上から目線」ではない。もし品評が常に「上から目線」だとするならば、それは評者が首位の作家であると認めたということに等しい。そんなことはないだろう。
 ではなぜ品評が「上から目線」だ、などという発想が生まれたのだろうか。全ての品評が「上から目線」になるという考えは「作品の出来は作者の感性に由来する」という神話に基づいているのだろう。比較しえない感性に対して評価することは常に「上から目線」と批判されるべきだと鯨も考えている。文明に優劣はあるが文化に優劣がないことを前提におくと理解しやすい。集団の拠り所となる文化は優劣によって評価しえないのと同じようにその人間の拠り所となる感性も優劣では評価しえない。
 ただ、「作品の出来は作者の感性に由来する」という神話はただのジョークである。「感性が感性に呼応する」という伝承と同じくらい無邪気だ。自分の感性はすばらしいと誰しもが思っている。鯨も思っている。そして他人の感性なんて大したことはないと誰しもが思っている。鯨も思っている。誰も見ず知らずの人の感性なんて気にしやしない。敢えて言えば感性は道ばたに落ちている糞だ。その糞みたいな感性を他人にも受け入れられる作品に化けさせるのが技量であり、文明と文化とで言えば優劣のある文明である。作品が感性そのままだという考えは技量を磨かない怠け者の思考である。品評は糞みたいな感性に対してではなく、その作品に刻まれた技量に対して為される。ゆえに作品の出来は作者の感性ではなく、作者の技量に由来する。
 もし品評が感性に対して為されたのであれば、そんな品評は評者の感性に過ぎない。もちろん「作品」化されれば受け入れられるだろう。だが、それは感性に対する感性であり、すなはち単なる「上から目線」であり、傲慢な行いだ。上に引用した2 tweetsは品評が感性に対して、そして感性によるものという前提でなされたものであろう。これは致し方のない誤りだ。なぜならそういう手段でしか品評したことのない人もいるから。鯨もかつてはそうだった。

 鯨が自分の文章がある程度読めるようなものになったと自認しているのはここ4年の話である。9年前から「鯨は読める文章を書く」とは言われていたけれど、自分ではそう思っていなかった。そしてここ4年に至るまでいくつかの段階を経てようやく今の段階「自分の文章がある程度読める」に達した。その踏み越えた段階はどの程度言葉を操れているか、どの程度事象を操れているか、によって区切られている。鯨はその段階を少しずつ踏み越えてきた。すると「子供叱るな来た道だもの」ではないけれど、他人の文章を読んで自分が経た道の半ばにある文章は「この段階だな」とわかるし、自分よりはるかに進んだ文章についてはただ「すげえな」と思う。鯨は修養をはじめてかれこれ13年だけれど10年選手でもそれらの段階を踏み損ねているなという人はいるし、10年未満でも進んでいるなという人はいる。成長の段階を意識してきた人ならば作品を感性ではなく、技量によって判ずるのは容易いだろう。もちろん無意識に成長の段階を踏み越えた人ならば判じ得ないということもある。すべての人に「段階を踏み越えろ」と言っているわけではない。ただ自分の感性に酔うだけでなく、自分の技量を磨いていくのもいんじゃない? そういうお誘いだ。特に春先は自分の感性に酔いやすくなる季節なので。

 「女性ならではの感性」、「リストカッターならではの感性」、「精神病者ならではの感性」「私ならではの感性」、そういったものを最前線に押し出し、それなりの体裁を施されなかった作品はおしなべて糞である。ただそういった作品をきっかけにして作者への興味は湧くこともある。それが目的ならば、はじめから人間が最前線に出てくればいいだけの話だ。無駄な手間が省けるし、精神衛生上もいい。そうではなく、作者をひっこめて、作品を読んで欲しかったら十数年、数十年の時間をかけて技量を磨くのが一番手っ取り早い。感性は才能でもなんでもない、才能とはひとつのことを長い年月をかけて続けられる鈍感さのことだ。
[PR]
by suikageiju | 2012-04-05 06:18 | 自己愛な人 | Trackback | Comments(0)
K塚正太氏との対談
これはexcite運営に削除された記事を再掲載したものです。
f0208721_1805875.png

[PR]
by suikageiju | 2010-06-27 09:18 | 自己愛な人 | Trackback | Comments(0)