カテゴリ:感想( 133 )
スーパー・ファッキン・ドライ
 11月にも一回読んで、その時は「勢いがある」とつぶやいて本を閉じた。山田宗太朗さんによるこの本には「そんな目で見ないでくれ」と表題作「スーパー・ファッキン・ドライ」が収録されている。
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 2度目に読んで、地の文での語りがあまり上手くないのは、きっと精神的に不安定な主人公の一人称で綴られているので、敢えて崩しているのだと推測した。これは微妙な選択で、作品の雰囲気を作るために下手に書くという手法とそれでも読み応えがあるように書くという手法のどちらが正しいかは一概に決めつけられない。ただ、下手に書いても文章を書くことに巧みな人は言葉の選び方で滲み出る味があるもので、そういったものをいささかも感じられない本著はもしかしたら推測が外れて単に書き慣れない作者による若書きなのではという怖れもある。あるいは完全に読み手が欺かれたか。疑心暗鬼な一冊である。

「そんな目で見ないでくれ」
 この掌篇の主題ととらえられる男の焦燥感や執着の表現が、やや唐突でそして乾いた性描写によって薄められて、ぼやけた感じになり、そしてそのまま唐突に終わっている。独特な疾走感のある文体で読み手は置いてけぼりをくらった。
「スーパー・ファッキン・ドライ」
 シンクにビールを垂れ流す盛り上がり場面のすっぽ抜け感に戸惑いを隠せない。小学生である子とその親である麻酔科医との、テストの点数を媒介にした言葉のかけあいが面白い。

 全体を通して感じられたのが「言葉への信頼が弱い」ということ。言葉への不信感が肉としての言葉を盛ってしまう。これを小説に変えるには無駄な言葉を削り、スト―リー或いは場面を増やす必要がある。そして他人の心に土足で入り、何よりも嘘を鍛えること。
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by suikageiju | 2014-01-09 00:39 | 感想 | Trackback | Comments(0)
帰宅したら弟がニート
 題名のとおりニートの弟がたくさん登場するのかと思ったら7篇あるのにニートは3人、弟にいたっては2人しか登場しなかった。意味もなく裏切られた。
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ループ、稲荷古丹
 字下げと改行が混乱していた。まさか、黒四角が書いたのか? そういう設定なのか? 人工知能作家と人工知能評論家の設定が良い。ただ、最終段落のおさまりが分かりにくく弱い。もっと最終段落へ至る道程を補強した方がいいんじゃなかろうか。

19HK、稲荷古丹
 猫語を解し翻訳する能力が急に身に付いてその能力獲得があまりにも急だったので人語を話しているつもりで猫語を話すようになってしまったと解釈するのはやや難だが、そう解釈できれば面白い。

帰宅したら弟がニート、上住断靭
 イベント数日後の長尾描写がむかつくくらいに秀逸。

philia、坂上悠緋
 気持ち悪い文体が気味の悪い内容にねちゃっと寄り添っている。また、「娼婦」であるところの話者の感覚が内臓的というより皮膚的で、「人形」らしい。ねちゃ、ぬちゃ、にちゅといった擬音が鳴る一品。

ウェディング、猿川西瓜
 従兄弟(どっち?)であるミカボシの姉宛の手紙が載っていてこれが読ませる内容だった。

天皇陛下の恋人、森井聖大
 ドザエモンに関する名言がリフレインする。スキンヘッドの男が出てくる箇所の印象だけが鈍く光っていた。
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by suikageiju | 2013-12-23 21:37 | 感想 | Trackback | Comments(0)
鉱石展示室
「鯨さんは鉱石副王と果実太守の物語を紡がれました。ではこれはどうでしょう?」と手渡された本が琥珀舎、波水蒼さんの『鉱石展示室 クリスタル・パビリオン』である。広がっていたのは石果世界ではなく、石菓の世界だった。
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宮沢賢治から長野まゆみへと歪に結ばれたフィラメントの先にある本として読んだ。京都という舞台を設け、琥珀糖専門店ジオードとその主である今市琥太郎氏を基軸にした登場人物たちの、時をこえた繋がりを描いている。それらが有機質として繋がっていく流れに一種の様式美を感じた。弓道で矢がうまく中ったあとの静けさのようなものを。京都、鉱石、琥珀糖、高校演劇部、そして花。美意識を描く作家と美意識を重んじる読者を充分にくすぐる要素を持つ作品だ。美意識という看板は要素ですぐに靡く。では人間は? といった観点から見ると他者に一枚薄皮を隔てたような筆致を見た。たぶんこれからも、そうやって巧妙に紳士的に、すり抜けて、生きていくのだろうなと思わせるような筆致である。極めて上品な出来だ。
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by suikageiju | 2013-12-23 12:38 | 感想 | Trackback | Comments(0)
絶対移動中vol.14 特集:異界 マヨイトあけて
 文学フリマには「お母ちゃん」と呼ぶべき人が2人いる。兎角毒苺團の伊織さんと絶対移動中の伊藤鳥子さんである。会場入口近くに割り当てられた絶対移動中ブースへ行き、そこでぴょこんと座っている伊藤鳥子さんに
「お母ちゃん」
 と声をかけると、第二展示場1階にバミューダ海域よりももっと静かな海原が広がった。帆のない舟が滑るように航る海だ。無言で差し出された掌に対価としての貨幣を落とし、本を受け取ってブースを離れた。最後まで言葉が交されることがなかった。あのとき鯨が見たのは何だったのだろう。これは伊藤鳥子さんが編集した『絶対移動中vol.14 特集:異界 マヨイトあけて』である。異界モチーフは古代からよく使われている。黄泉、鄭邑の隧道、ウェルギリウスのいる森、不思議の国のアリス、コンゴ川の奥地などなど。さて、今回はどんな異界がたち現れるのだろうか、と期待しながら読んだ。
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「四ページ目の真代子」、宵町めめ
 巻頭作らしい仕掛け。「続いている公園」を視覚つきで見たような、突然あらわれたメビウスの環を一口で食べちゃった感あり。

「まにまに」、加楽幽明
 あちら側はこちらであり、まだそこは夢の中なのだろうか。異界と斯界の境界として丁寧に幾層にも膜をはっていくような感覚を得られたのが良い。足元がふらふらになった。

「外に出ようとする男と女」、涌井学
 外と「外」の指すものは違うけれど、回り回って同じ自立を目指すってこと。そうすると異界であるところの内=「内」をもっと狂気じみて描くと、火災で燃えたあとの場面が反動で聖性を獲得する。

「台所の人」、高橋百三
 そこから先、時間を遡行して観られる景色、その人の脳髄がかつてとらえた記憶はもう他人にとっては異界なのだ。

「鏡子ちゃんに、美しい世界」、伊藤なむあひ
 ここにもう一人、世界図書館の司書を志す者が。鏡子ちゃんという概念の踏み込みが深く夢中で頁をめくった。もちろん最後の電波塔のシーンは「安直な」自殺なんかではなく、リリィ・シュシュのすべてだった。でも、この篇は引用という基盤の上に成り立っているのだから、やはり安直だよ。だってそれは分かる人だけが分かる異界なのだから。

「メイコの世界」、伊藤鳥子
 思弁小説めいていて、予め定められた結末に強いられて落とされた読後感。異界のアルゴリズムは楽しめたけれど、アルゴリズムを見せられなければ、描かれようとした世界を得られただろうか。きゅん

「SIX」、業平心
 将棋の話? だけじゃないと思う。でもよくわからない。読めない。

「マスカレイドスコープ」、秋山真琴
 王道ファンタジーから企業戦士もの、そしてSF小説。そしてそもそもこれは6人の誇大妄想狂が幻視した異界なのね。上手い。

「ヴァニシング・ポイント実験小説」、蜜蜂いづる
 実験小説の実験結果は実験小説そのものだから肝心の実験は執筆段階にあるという事実を鋭く突いてきた作品と言える。実験小説の読者は結果だけ見せられて、肝心の執筆段階は読み手にとっていつまでも異界であり、立ち会えない。

「哲学小説」、有村行人
 異界からのアルファを見つけた夜を思い出した。聖性について考えさせられる。

「暗黒舞踏会」、くりまる
 舞踏と舞踊の違いもわからず、黄泉の舞台へとおりたった感覚を得た。
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by suikageiju | 2013-11-26 08:19 | 感想 | Trackback | Comments(0)
バウンダリー・ドメイン
この敬体まだるっこしいな、と思って読んでいたけれど楽しめた。平行宇宙や過去を改変して地球の危機を救うといったテーマはあまりSF小説を読まない鯨でも陳腐に思える。ただ、文体で救われた感じがあるかな。在水あゆみさんの『バウンダリー・ドメイン』
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日本語の敬体だと太宰治の『人間失格』に引きずられてあの調子になるのだけど、該当作は敬体になることで助動詞一個分だけ間延びして、かつ文体の婉曲さとあいまって話者である少女のまだるっこしい語り口を堪能できるようになっている。未来からのメッセージの語り口との差違も良い対照となっていた。もっと書き慣れると凄い物を出してきそう。
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by suikageiju | 2013-11-24 13:31 | 感想 | Trackback | Comments(0)
ami.me (アミ・メ)
今回、人に請われ短歌を読んで何か書いてみることになった。詩や短歌の感想ってよく分からない。書いたことない。なので、分析的な評っぽいものしか思い付かなかった。そして、本に載っていても詩はよして短歌だけについて書いた。題材は『ami.me』。
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改札を出てから雨にぬれるまで駅はどこから終わるのだろう(吉田恭大)

駅前あるある。改札を出て案内図に迷い、地下街に入ったり、アーケード商店街に入ったり。外は雨のはずなのに、電車から降りて傘もささないのにまだ濡れない。町は雨。そしてコンビニ前を曲がり、アーケードから外れ、民家の建ち並ぶ路地に出て、はじめて髪を湿らす。あ、駅が終わったな、と思う。ところで、ここはどこ?

路地猫を追う君を追わない僕を気にしなくてもいいから、猫を(吉田恭大)

詠み手の視線が猫→君→僕→君→猫と往復するのが面白い。そして焦点は猫のさらに先に飛んでいく。猫のことだから町をこえて、国をこえて、空をこえて行くのだろう。中途で終わらざるをえなかった呼び声は永遠に木霊する。そのことを君も僕も忘れてはいない。

コンビニを辿ってゆけばそれぞれにあかるい歌が聞こえる町だ(吉田恭大)

町田? コンビニに入れば聴こえてくる陽気な歌謡曲。では次のコンビニへ。また聴こえてくるのはオリコン入りした歌謡曲。では次のコンビニへ……、って日の沈む、迷い猫も寄り付かぬ町は寂しいな、おい。この町の見所はコンビニだけかいっ! という声が聴こえてくる、ような。
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by suikageiju | 2013-11-23 20:00 | 感想 | Trackback | Comments(0)
日々是空色
ある人からこの本を手渡された。
「あなたの本ですか?」
 と問うと
「違います。ただ、牟礼さんがこの本を読んでどう思うのか知りたくて」
 なんてことを返す。そういうのいらないんだよね。鯨がこの本を読んでどう思うかなんてどうでもいいじゃん。なになに、自分の感想が正しいのかどうか鯨が書いた感想を読んで確認でもするの? それとも鯨が感想を教えてあげないとこの本を読めないとでも言うの?鯨のブログは文芸同人の答案用紙じゃないんだよ。いい? 鯨はそこらへんを漂う閉塞感兼ブロガーなの。権威も学識もここにありはしないのだよ……。
 という経緯があったので借りたままずっと放置してしまったこの本。綾瀬眞知佳さんの『日々是空色』
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指先のむこう
 いかにも「これ、面白いだろ」ってドヤ顔している小説あるでしょ。融資した五億円でもないのに伏線を無駄に回収したり読み返したら絶対恥ずかしいのに大袈裟なアクションシーンがあったり。それってたぶん娯楽であることが読者を楽しませようという作者自らの意志が何らかの高尚な価値であるかのように勘違いしているんだろうけど、陳腐なだけだよ。「指先でむこう」を読んだ。そう、これだ、これだよ、これ、と読後に思った。こんな小説を読みたかったんだ。淡々と何も起こらず流れる日常のなかでうつろい行く生活とか何気ない会話とか、すれ違う思いとかそういったことを丁寧に描き出す小説。読みたかったものに出会えた感が強い。まず、香澄君の一人称=自分の苗字、に違和感が芽生えたんだけれど、逆にそれが良い違和感となって作品に入り込めて、居酒屋で彼らの隣で座って話を聞きたいと願えた。ただ、ちょっと読みの速度をはやめると筋を追えなくなるので、印象を与える力が薄い、あるいはそうすることに消極的なのかな。そう考えると、まぁ、つまらない。でも逆にそこがただ読むのに向いている。そして鯨はただ読みたいのだ。漢詩の引用も嫌味がなく、作品に広がりを与えている。そして引用のやり口が巧み。

アップルミントスクエア
どうでもいいひとなら、誤解されても気にしない。

 人はなぜ本を読むのだろうか。たぶん性交するためだ。ではなぜ本を書くのだろう。これも性交するためだ。本屋さんへ行けば、どの人の額にも「セックスしたいです」と書かれている。なぜ、本を宣伝する? セックスしたいから。なぜ、本を買う? セックスしたいから。そして、この短篇もそういう小説だと感じた。感じさせられちゃった。お涼さんの小指はきっと次元の異なる世界に、そして宇宙の果てにまだ在るのだろう。
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by suikageiju | 2013-11-23 18:37 | 感想 | Trackback | Comments(0)
樹木たち
この本の作者であるカオスカオスブックスの富永夏海氏はおそろしく背が高い。幼い子供が見上げたらきっと泣いてしまうだろう。
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読んでいると時間がとまったような感覚がある本だ。もちろん読み始めてから読み終わるまでに2時間ほどかかっておりその経過はちゃんと感じていた。体力を消耗するので30分ほどの仮眠を必要としたが、読んでいる時間はちゃんと流れていたと細胞が記憶している。では何の時間が止まっていたのか、それは物語的時間が止まっていた。一続きの物語であっても細切れの三千の掌篇を読んでいるような内容で、透明な篇から透明な篇へ跨げばその度に時間はリセットされて0になるのだから、物語的秒針が進んではまた戻るのを繰り返して、それで「物語的時間の停止」を読み手である鯨に想起させたのだろう。
 この本は装幀の美しい本である。いや複雑な線で彩られ縁取られた本だ。その複雑さに「美しい」という意味を投げかけられたのであればそう呼べるのだろう。そんな美しい装幀と、この本のところどころに鏤められた「乾いたバターに似た鳥の体臭」のような印象的な修辞、そして上記の物語的時間の停止、この3つが重なったのであれば自ずと解は見えてくる。
 この物語は本という形において完成されており、その形のまま止まろうと欲求している。時間をかけて通読され物語として解釈されることを拒否し、部分的で断続的な読みのみを求めている。それでは物語は本を超えて出てきやしない。しかし本という制限下で閉じ込められた物語をいつも新鮮なかたちで読み手に提供できる。そのように物語を封じこんだ本のおとなしさを、鯨は肯定して受容しよう。
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by suikageiju | 2013-11-14 23:30 | 感想 | Trackback | Comments(0)
幻視コレクション
 文学フリマの打ち上げで山内農場かその後の和民かで秋山真琴氏と会ったとき
「『オルカ』おもしろかったですよ。名古屋で言おうと思って、言えなくて……」
 と秋山氏から急に声をかけられたので咄嗟に前々から思っていたことを口に出してしまった。
「"おもしろい"なんてもう聞き飽きましたよ」
 そのあとに「もっと別の言葉を考えてきてください」と言おうと思っただけで言わなかったのか、それとも実際に言ったのかは覚えていない。そのどちらにしても、この『幻視コレクション』を読み終わってそんなふうに秋山氏に言ったことを後悔した。というのはあとがきに「ほんとうに面白い物語を提供したい」と書いてあったからだ。そして幻視コレクションのページにもデカデカと同じ文句が書いてあった。これでは、なんとなくこの本のあとがきや宣伝文句である「ほんとうに面白い物語を提供したい」を踏まえて上記の発言をしたかのように思われてなんとも心外である、そんな話。
 でも「面白い」はもう聞き飽きた。うんざりもしている。もちろん「面白い」は誰にも説明しえないからそうなのだ。説明できるのならそうではなかったのだろう。けれど、少なくとも書く側であるならばその「面白い」を具象として提示したい。
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 この本は強奪した。白状すると寄稿者の一人であり、弊社隣の文学フリマ非公式ガイドブックブースにいた高村暦女史に秋山真琴氏がこれを献本しているのを見てしまい、それが3冊あるのも確認してしまい、高村暦女史が非公式な業務でどこかへ去った隙をみはからって売り子の雪下女傑に
「これ1冊もらっていいよね」
 と声をかけて
「え、どうでしょう」
 と言ったか言わないかのうちに積み上がった本の塔から1冊だけ強奪して自分のファイル・ホルダーの中に放り込んだのだ。つまり、これは今回の文学フリマで唯一非正規ルートで入手した本、ということになる。

Burning with Desie、はるかかなた
 夏の暑さに頭がぼおっとして何だか気持ちが悪い。陽炎のような幻視のために失われた包含関係が見えてこない。
XMS/eXperience Management System、佐多椋
 「駅の反対側」という言葉が持つ意味は多層的でそして深い。《》の連続で目が霞んでくる視覚的効果を読み手に与えようとしていたことも実験的で愉しめた。コード、プログラミング、軋む世界ってか。
たしか、映画でこんな話があった、吉永動機
 何かあったというわけでもないけれど嘔吐感がこみあげる。きゅーと締め上げて、ぷほっと手を離した感じを与えられるのは文章を操ることに匠だからだ。
残った夏、言村律広
 この分量では情報の詰め込み具合が危険水域に達している。200~300枚くらいで読みたい。
invisible faces、高村暦
 疲れていたからだろう、途中で寝てしまって、その後読み直しても最後の謎施設でのやりとりが何だかよくわからなかったけれど、この本がなぜ「ほんとうに面白い物語を提供したい」と謳われているのかがこの一篇を読んでやっとわかった。今さらか、オレはもっとはやい段階で気付いていた、そういう方もいるだろう。まァいいじゃないか誰が一番で誰がはやかったかなんてことは。この本の各篇は謎というか矛盾というか思わせぶりな数節を孕ませておいて、それについてはぼかしたまま終わらせる。あるいは絶対謎が解けないし、矛盾はそのままで、思わせぶりなまま放り出して篇をしめくくらせる。幻視、だからね。そして読み手は投げ出され、あの謎は何だったのだろう、矛盾はなぜ解かれなかったのか、そして思わせぶりはどうしめくくられたのだろうと、本を閉じたあともどうしても考えてしまう。読んだあともなんとなく脳裏にこの本のことが気がかりとして残される。あれはなんだったのだろうか、と。人生にいつまでも染みをつくったまま消えることのない一冊。それがこの本の面白さ、なのだ。
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by suikageiju | 2013-11-12 21:43 | 感想 | Trackback | Comments(0)
マズロウマンション
 思弁小説めいた大理石の冷たさ。著者は犬尾春陽さん。
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 アブラハム・マズローの欲望五段階説は人間の欲望をわかりやすく図式化した点では評価できるが、人間の本質に迫ることはできなかった。愛で満たされているからこそ、自己実現なんてどうでもよくなることもあるのが人間だからだ。
 この小説はそんなマズローの五段階説に基づく五階建て、いや六階建てのマズロウ=マンションとそこに住まう住人たち、そして猫目の伯爵を描く。読んでいて大理石を食んでいるように思ったのは、血の通っていない文体が横たわっていたからだ。落ちる涙も、描かれる感情もなんだか空疎である。恋愛に似て、欲望にみせかけて、なんだか虚無である。まるでチェス盤の上で、ポーンを進ませ、ナイトを跳ばし、ルークで守りを固めて、ビショップを進ませるような感覚を味わう。生身の人物ではなく彫像めいた人格が配置されているようだ。なぜだろうと考える。これではまるで世界観や設定だけを詳細に生き生きと描き、登場人物を毛穴まで描くことを怠った安易なファンタジー小説のようだ。なぜなのか。きっとこうだからだろう。この小説の主人公は階から階へ部屋から部屋へ主観を移動させるウェンディではない、マズロウマンションそのものだからだ。マンション内の住人よりも圧倒的にマンションそのものに存在感があって、それが建築物として機能すると詩に変わる。その堅牢さと脆さを保ったまま。
 大理石の塑像は決して肉と血をえない。でもそれは搏動なくして大理石のまま芸術となる。その事実を愉しもう。ただ、惜しむらく両腕で抱いても冷たいだけだ。
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by suikageiju | 2013-11-12 00:07 | 感想 | Trackback | Comments(0)