カテゴリ:掌編( 8 )
西瓜鯨油探偵社へようこそ!
「こちらは西瓜鯨油探偵社ですか」
 と事務所の扉を開けた六角に、毎週土曜日恒例のエロサイト巡回をしていた牟礼がブラウザを消しながら応える。
「そうです。あなたのためにある探偵社、西瓜鯨油探偵社です」
 促されるがままに六角は、桃花心木製の机を挟み牟礼と対峙して座る。すぐに牟礼が探偵助手と紹介した、二十六歳にしか見えない女性が氷の浮いた烏龍茶の入ったグラスをもってきて六角の前に置く。探偵助手は瞬く間に隣の部屋に消えた。六角の目にはどうみても助手が二十六歳にしか見えなかったのであとで確かめようと思った。グラスのまわりに生えた露でコースターが少しずつ湿っていく。事務所の冷房はよく効いている。
「それで、どんな依頼ですか」
 牟礼が口火を切った。
「まことに言いにくいのですが」
 そう六角が言いよどむと、牟礼は机の上に両肘をついて両手を揉みながら身を乗り出した。
「言いにくいことを解決するのが、我が探偵社の使命です」
 六角はグラスに口をつけ烏龍茶で舌を湿らしてから言う。
「彼女の住所を知りたいんです」
 牟礼は机の端に置いてあったブロック・メモ帳を引き寄せると胸ポケットに差してあったジェットストリームの黒ボールペンをカチッと鳴らし、何かを書き付けた。
「今つきあっている彼女ですか、それともすでに別れた彼女ですか」
 牟礼の質問に息をつまらせそうになりながら六角は応える。
「すでに別れた、と思う彼女です」
 牟礼の質問は途切れることはない。
「『と、思う』というのは明確な別れを告げられたわけではないということですか」
「はい」
 六角は落ち着きを取り戻した。いや、落ち着いたわけではない。この事務所に入ったときの状態に戻っただけだ。
「急に音信不通になった。メールを出しても電話をかけても返事はない。どうしたものか分からない。それこそまだ付き合っているのかそれとも別れたのかどうかも定かではない。そこで直接会いたくなった。でも住所を訊いていなかった。ああ、どうしたらいいんだ、で、この事務所にやってきた、そんなところですか」
 たたみかける牟礼に六角は押され気味になりながらも返す。
「……はい」
 牟礼探偵はこの手の依頼には慣れているのだろう。
「そこであなたが知りたいのはその彼女さんの住所で間違いないですか」
「はい」
 その六角の返事を聞いて、牟礼は姿勢を正した。
「無料相談はここまで。ここからは料金が発生します。前金は五千円。これは今日の話が終わってから戴きます。それで、あなたが住所を知ったときに成功報酬をいただきます、その額が五万円。もしその住所が違っていたり、住所が見つからなかったりすれば成功報酬はいただきません。ただ、失敗した場合でも前金の五千円は返金いたしかねます。お支払いは住所情報を渡してから一週間以内でお願いします。それでは料金発生の話をすすめてもでよろしいですか」
 牟礼にまくしたてられた勢いで「調べてくださるのですか」と六角は言ってしまう。牟礼はにやりと口角をあげる。
「はい、あなたはどうやら誠実な人柄の男性のようです。ぜひともあなたの手助けをしたい。それと言い忘れましたが、もし住所がわかっても白枝さんに別の男性がいた、いわゆるアバズレの場合、あるいは復縁……いやいやちゃんとした関係に戻れなかった場合でも成功報酬はお支払いいただきます。よろしいですね」
「はい」
「そこらへんの身辺調査はまた別料金となります。それでは料金発生の話をすすめてもいいですね」
 六角は頭を前に一回だけ垂らした。それが彼の本心だったのかどうかはわからない。
「それでは本題にいきましょう。あなたは社会人ですね。その彼女も社会人ですか。職業とお名前など知っている情報をお願いします」
 自分が社会人であると見抜かれて、六角は驚いたようだった。それと同時に六角も身を乗り出す。何か期待のようなものを抱いてしまったのかもしれない。
「彼女、その白枝睦月は社会人ではなく、大学生、小鹿女子大学文学部仏蘭西学科の三年生です。誕生日は六月十二日、二十一歳。趣味はゴルフ。サークルには入っていません、バイトもしていなかったように思います」
 それをすらすらと牟礼はメモ帳に記していく。
「あとは」
 六角は机の角を見ながら眉間に皺を寄せる。その角を牟礼も見る。
「とりあえず、そのくらいでしょうか」
 牟礼はペンを置き、目の前で両手の指を組み合わせた。
「白枝さんの最寄り駅、ご両親のお名前、ご両親の職業はわかりますか」
「最寄り駅は小田急線の喜多見駅、両親の名前はちょっとわかりません。職業も、わかりません」
 すまなそうに六角は答えた。だが済まなそうにする必要はあったのか。
「白枝さんの中学・高校も東京ですか」
「えっ」
 六角は驚いた表情を見せる。
「さあ、でもずっと東京だと聞いたような気がします」
「では一人暮らしではなさそうですね。それでは白枝さんのご自宅は一軒家ですか、それとも集合住宅ですか」
 六角は首をひねる。
「さあ、どちらでしょう」
「思い出してください。白枝さんと話したエピソードを一つ一つ思い出してください。帰りに母親からお買い物を頼まれた話を聞いたことはありませんか。近所のおばさんとこんな話をしたなどくだらないエピソードを聞いたことはありませんか。どんな些細なことでもいいです。愛のささやきの合間に話したこと、ピロートーク、なんでも、お話しください。もちろん今までの情報でも尾行調査で白枝さんの住所は見つかるはずです。データベースでも見つけられるでしょう。でも尾行というのはなんとも野蛮なやり方です。前時代的で二十世紀的です。それにターゲットに見つかってしまう危険性もある。そしてデータベースの出所はもちろん違法だ。そんな手はなるべくなら使いたくない。なのでスマートに調査を完了させたいと思います。そのために六角さんが実際に見聞きした白枝さんの情報はとても貴重なのです。さあ、思い出してください。どんな些細なことでもいいです」
 そう言って牟礼はさらに上半身を乗り出した。六角は目を閉じ、白枝睦月との思い出を回想する。
「その、よく駅前のミスタードーナッツで朝食を済ませるとか、野川沿いをよく散歩すると言っていました」
 牟礼はにこやかに笑顔を浮かべる
「いずれも糞情報ですね。ちょっと作業をします。しばらく白枝さんとの思い出を回想していてください。何かを思い出したらすぐにおっしゃってください」
 六角はムッとしたようだがすぐに言われた通りに再び回想しはじめた。そうさせる必要は本当にあったのか? その間に牟礼はパソコンに向かいキーボードとマウスで何かを操作する。五分後、「おそらく白枝家は集合住宅でしょうね」と言ってマウスをクリックすると牟礼は両手を頭のうしろに置いて後ろに凭れた。
「なんでわかったんですか」
「それは企業秘密です。さて何か他に思い出しましたか。白枝さんのよく着る服とか覚えていらっしゃいますか」
「それは、どうでしょう。下着なら覚えているのですが」
 あきれたように牟礼はメモをとりながら両肩をもちあげる。
「男性はえてしてそういうものです。だが下着では情報として薄い。女子大生の下着を堂々と外に干すご家庭は少ないですからね」
「はあ」
「他に何も思い出しませんか」
「残念ながら」
 牟礼はわざとらしく大きなため息をついた。
「まったく、愛するだの恋するだのは相手の情報をしっかりつかんでからやってくださいよ。ご両親の名前、住所、電話番号なんでもいいんです。そういった情報をしっかりつかんでからいっぱいしのことを言ってもらいたいものです」
「すみません」
 そう弱気になった六角を取り直すように牟礼は声をかける。
「いえ、こちらも言い過ぎました。とにかくこの情報で調査しましょう。三日後にまたこちらからお電話をさしあげます。それでは助手に五千円を支払っておいてください。領収書はいりますか」
「あ、はい」
 六角は立ち上がる。気落ちしてしまった依頼者に牟礼が思い出したように声をかける。
「六角さん、儀式を忘れていました」
「儀式、ですか」
 牟礼は今まで話をメモしていたメモ用紙をちぎるとくしゃくしゃに丸めて灰皿のなかにいれた。そして胸ポケットに入れてあったジッポで火をつける。血を流すようにメモ用紙が燃えていく。
「個人情報ですので、目の前で処理させていただきました」
 鼻を焦げた匂いが襲う。その匂いを嗅ぎつけてか、隣の部屋からどう見ても二十六歳にしか見えない助手が出てきた。六角は財布から五千円札を取り出して助手に渡す。すぐに助手は宛名のない領収書を六角に渡した。
「それでは、三日後に」
 そう挨拶をした牟礼は手をふってまた背もたれによりかかり、エロサイト巡回に戻る。助手に見送られて六角は事務所の外に出る。
「ありがとうございます」
 そう言って廊下で頭を丁寧にさげる助手に六角は声をかける。
「すみません、あの、失礼なことを訊ねるようですが」
「はい? 」
 助手は首をかしげる。
「二十六歳ですか」
 助手は目を見開くが、即答する。
「よく間違えられますが、十九歳です」

 六角は何も言わずに事務所をあとにして階段を降りた。そしてマンションの敷地の外に出て事務所のあるだろう部分を見上げる。窓硝子に「西瓜鯨油探偵社」と書かれた赤文字のビニルが貼ってある。
「来たときにあれ、貼ってあったかな」
 そう呟いたとき窓ガラスが開いて牟礼が顔を出して、手を振る。助手も顔を出した。六角は二人に軽く会釈をして立ち去った。窓ガラスから顔を出している、十九歳と自称する、どう見ても二十六歳にしか見えない助手の高笑いが聴こえた。幾夜を寝てもその声は拭い落とせそうにない。
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by suikageiju | 2012-07-29 22:29 | 掌編 | Trackback | Comments(0)
もし早稲田大学入学式で新歓をしたら
 4月1日は早稲田大学の入学式である。入学式といえばサークルの新入生勧誘イベント、新勧がある。鯨は文学結社「西瓜鯨油社」に新しい売り子を招き寄せるため、早稲田へ新入生を漁りに出かけた。なぜ早稲田か? 鯨の母校が早大であるグランファルーンもそうだが、早稲田大学には早稲田大学教育学部国語国文学会創作部会早稲田大学現代文学会早稲田大学詩人会早稲田大学児童文学研究会早稲田大学創作文芸会ことのは早稲田文学編集室ワセダミステリ・クラブなど文学フリマ参加サークルが多数あり、それらに加入する可能性のある新入生に名前を売るのもいいかと思ったのだ。
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 時間は政治経済学部・法学部・文学部の入学式が終わる頃合いをねらった。記念講堂のある戸山キャンパスから本部キャンパスにいたる商店街のとある電灯に体重を預け、戸山キャンパスから本部キャンパスに流れてくる人に次々に声をかけていこうという算段だ。最初は人通りが少なかったけれど、午前11時をまわることからだんだんと人が増えてきた。第一弾入学式が終わったのだろう。鯨はすれ違う人すれ違う人に「西瓜鯨油社です。売り子やりませんか」「西瓜鯨油社だ。文学やろうぜ」と、右手に名刺を持って声をかけ続けた。「なんだろう、この人は? 」とチラ見してくれる人もあるが、たいていは無視である。ひとり「貴様が鯨か。天誅!」と正義漢気取りに殴られたが、大したケガはしなかった。あきらかに学生ではない男がキャンパス外の公道上で新入生勧誘をしているのだ。怪しまれるのは仕方のないこと。それでも鯨はめげずに声をかけ続けた。
「西瓜鯨油社です」
 ある黒スーツの女子大生が声をかけた鯨の前で足をとめた。スーツを着ているというより着られている様相である。それに、興味があるから足をとめたというより、声をかけられたので驚いて足をとめたような感じだ。
「あ、はい」
 すかさず鯨は名刺を、女子大生の右手に持たせた。
「売り子やりませんか」
 その女子大生は手渡された名刺と鯨の顔とを丹念に見比べ
「売り子って何ですか」
 と細い声で訊いてきた。心の奥底にある言語以前のものをなんとか発話しているような、そんな印象のある女の子だ。
「うちは文学サークルで、自分たちで本をつくってイベントなどで売るんです。売り子というのはそういった本をつくったり、本を売ってくださる人のことです。5月にはイベントが2つあって、夏には福岡遠征とかもする予定です。もし文学に興味があれば、ぜひ。あ、あなたみたいな人が僕の本を売ってくれたらうれしいなと思います」
 ふーんと女の子は鯨の言葉を消化しているようであり、何かを思案しかねているようでもあった。そして返ってきた言葉が
「ちょっと興味あります」
 である。鯨がびっくりだ。
「え、本当ですか」
 などと訊いてしまった。こういう事態に陥ったときにどうすればよいかを考えていなかった。いったい、どうすりゃいいんだろう。
「じゃあ、これから予定とかありますか。あ、ちょうどお昼頃だし何か食べながらお話しましょうか」
「あ、はい」
 それは予定がないということでいいのだろうか。
「じゃあ、こっち来て」
 と鯨は手招きする。女の子はそのあとをついて来る。

「どこか行きたいところある? 」
 と女の子に訊くと
「秋葉原」
 と答えたので
「えっ」
 と鯨は会話の流れを断ち切ってしまった。早稲田のまわりの手近な食堂で今後のことを話そうと思っていたのだが、心づもりがはずれてしまった。もしかしてと思い「東京の子? 」と訊くと「いえ」という返答である。
 なるほど、そういうことか。
「出身は長野県です」

 早稲田駅から東西線、日本橋駅で乗り換えて銀座線に乗り末広町へ。地下鉄の車両で女の子が「メイド喫茶に行きたいです」などと言い出したので、唯一鯨が行ったことのあるシャッツキステに案内することにした。何だかお上りさんの観光案内をしているような気になったが、やはり5日前に上京して中井に居を構えたばかりだという。東京見物はまだ、とのことだ。シャッツキステに到着したときは12時前でまだ開店していなかったので外で待っていたら、メイドさんが開けてくれた。有閑階級メイドに案内されて席につく。席についた女の子、古橋希(決めてもらった筆名)のカップと鯨のカップに紅茶が注がれる。それとサツマイモの黒蜜ほうじ茶タルトを注文した。
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 突然喋り出すメイドさんの話を無視して、ゆったりと西瓜鯨油社のあらましと今までの活動を説明した。その説明内容はここでは割愛させていただく。希はだいたいのことを理解したようだ。そして、鯨が大学生なんかではなく、西瓜鯨油社も大学のサークルではないことも。
「すまんな。騙した形になってしまったみたいで」
 希はこのときはじめて紅茶に口をつけた。
「いえ」
 ちょっと濃かったようで。すぐにカップを置いた。鯨は近くを通りかかったメイドさんにミルクを頼む。
「なんとなくわかっていました。鯨さんは大学生ではないんじゃないかと」
 なら、なんでと訊くのは野暮かな。
「大学生ならこれからたくさん会えるけれど、それ以上の方と会う機会はなかなかないと思ったので」
 希は賢い子だった。
「これからよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 それからは古橋希自身の話を聞いた。長野県飯田市での幼少期、小学生の無邪気な思い出、中学校時代のかなわぬ初恋、高校生のときにつきあいはじめた彼氏との思い出、受験で信州大学に進学した彼氏とは遠距離恋愛になったこと。詳細を語るのを避けようとした希が築く牆壁を、鯨は質問でつきくずし、希はかすかな抵抗ののちに諦め、自ら微細の小道へとゆっくり足を踏み入れていった。ケーキは切り崩されなくなっていく。紅茶は残量が少なくなるころにはメイドさんによって新たに注がれていく。話すうちに希はだんだんと高揚していった、目にはかすかに涙をたたえていた。鯨は熱心に語る希の左手を右手で握った。
「じゃあ、しかるべき所へ行こうか」
 希は話を遮られたことについては文句ひとつ言わず、ただ頬を真っ赤にさせてコクリと首を縦にふった。2人分の会計を済ませ、鯨は希の手を握ったままシャッツキステを出て湯島方面に向かう。ここからだとそんなに距離はない。坂をのぼるとホテル街にたどり着いた。そしてとあるラヴホテルの前で立ち止まる。ちなみに鯨もそこに入ったことはない。
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「入るぞ」
 そう言うと希は無言で頷いた。その一室では為すべき事が為され、行われるべきが行われた。「つけないんですか」と言われても「彼氏がいるんでしょ」と確かめれば「あ、そうでした」と返ってくる。他動詞は的確に目的格を探り出し、掘削機は掘り返すべきを掘り返した。主格は対格にとってかわり、対格は主格になりかわる。すべてが終焉に至り、まずは希が、ついで鯨が眠りに就いた。

 数刻して鯨が目覚めると部屋には誰もいなかった。「希」と呼んでも声は返ってこない。バスルームを見てもトイレを見ても誰も入っていない。どうしてしまったのか。うろうろしていると硝子製のテーブルの上に紙片を見つけた。拾い上げると女の子らしい文字で「4/1」と書かれている。エイプリルフール、どうやらなにもかもが嘘だったようだ。
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by suikageiju | 2012-04-01 17:22 | 掌編 | Trackback | Comments(0)
小春日和
 トイレで髄液を垂れ流して死んでいたという。死んだのは僕の友人の健吾で、享年二十七歳だった。健吾は二年前、高校生のときから付き合っていた初美と結婚して三鷹市のマンションで暮らしていた。初美のことはあまり知らない。笑う顔がとてもステキな女の子だったと思う。結婚して二年たったある夜のこと。午後十一時半に、五年間勤務していた証券会社から帰宅した健吾は、初美のいるキッチンに向かって
「ただいま」
と言った。食器を洗っていた初美はその挨拶について何の感慨も抱かなかった。当然と言えば当然だ。それは毎晩の夫の挨拶だったのだから。靴を脱いだ健吾は
「トイレにいく」
と初美に言った。そんな夫の言葉に初美は疑い深くも
「飲んできたの? 」
 と訊いた。それは「遊んで遅く帰ってきたのか」という遠回しの批難だった。
「まさか」
 と健吾は返し、鞄を玄関に置いたままでトイレに入った。それが、健吾が初美に言った最期の言葉になった。

 日付が変わってもトイレから出てこない夫を不審に思った初美は「酔って寝てしまったのかしら」とトイレの扉を開けた。健吾は自らの頭蓋から漏れ出した髄液に、沈むようにして倒れていた。初美は一一九番で救急車を呼んだ。けれど、すでに健吾は二度と「ただいま」の言えない世界へと旅立っていた。病院での検死の結果、アルコールは検出されなかった。臨月を迎えた初美はそれを聞いてはじめて泣いた。
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by suikageiju | 2011-11-12 17:59 | 掌編 | Trackback | Comments(0)
憧れの先輩
 僕は部長に怒られている。なぜ怒られているのか、それは分からない。態度がどうのこうの、言葉遣いがどうのこうのと言っているけれど、怒鳴っているから言葉がはっきりしないのだ。それに部長の怒鳴り声とフロアの雑音とが混ざり合う。部長の声に意識を集中しようとするけれど、うまくいかない。僕はどうもこれが苦手だ。聴くべき音も聴かなくていい音もすべて同じように聴こえてしまう。虫眼鏡のように聴きたい音に焦点を合わせられればいいのに。みんなはどうやって聴くべき音を聴いているのだろうか。先輩は、どうやっていますか?

続く
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by suikageiju | 2009-11-24 19:09 | 掌編 | Trackback | Comments(0)
期待の新人
 部長が新人の橘君をまた怒鳴りつけている。橘君はどこか抜けたところのある、気のきかない新人君で、金額をしっかり確かめもしないで領収書をお客さんに送付したことがある。仕事にいい加減な態度で臨む、今時の男の子という奴だ。私は彼の世話役だからちょっと大変。それにしても部長はひどい怒りよう。いったい、橘君は何をしでかしたというのだろう。まあ、何をしても不思議ではないな、彼の場合。今、部長は椅子から立ち上がり、橘君のネクタイをつかんでいる。でも橘君は背が高いから、もう四十代後半白髪混じりの部長でも橘君の前に立つと、子供のように見えてなんだか滑稽だな。

続く
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by suikageiju | 2009-11-19 09:48 | 掌編 | Trackback | Comments(0)
 最初の記憶は二十四時間の航海である。いくらそれ以前に遡ろうとしても、那覇から鹿児島へと向かうフェリーの二等船室よりも前の記憶には手が届かなかった。古代の神話には人類にはとうていどうやってもそれ以前には遡れないという限界があって、「神話的時間」という名前が人類学者によって名付けられている。この物語においても那覇で過ごした最後の眠れない夜が「神話的時間」となって、象の記憶に万里の長城のような果てのない壁を築いていた。

続く
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by suikageiju | 2009-10-22 09:59 | 掌編 | Trackback | Comments(0)
アレクサンドリア図書館
 全てが台無しになる予感がした。なので、教王(カリフ)から書簡が届いたけれど、開封しなかった。未開封の書簡を携えたまま国境線をまたいだ将軍アムル・ブン・アルアースと彼の四千人の兵卒は、ビザンツ帝国の属州エジプトに野営の陣幕を張った。月明かりの下でアムル将軍が教王からの書簡を開封してみると、その砂で汚れた羊皮紙にはこう書かれていた。

「国境線をまたがずにこの手紙を読んだのであれば、すぐに帰還せよ。されど国境線をまたいでこの手紙を読んだのであれば、あとはアッラーのみが知りたもう!」

 アムル将軍の部隊はエジプトのあちこちに出現してビザンツ帝国の守備部隊を粉砕し、小さな町や城砦を次々に呑み込んでいった。そして上エジプトの首筋である小バビロン要塞を包囲しているときに、ビザンツの皇帝ヘラクレイオスの死が両軍に伝えられた。抵抗する気力をうしなった小バビロン要塞は陥落し、上エジプトに「アッラーは偉大なり」の声が鳴り響いた。アムル将軍は野営の陣幕をたたもうとしたが、ひとつがいの鳩が巣をつくっていたので、その陣幕はそのままにしてアレクサンドリアに向かった。その陣幕(フスタート)はやがて都市の礎となり、やがてその都市はフスタートと呼ばれることになる。

 援軍を含み、二万人にふくれあがったアムル将軍の部隊は海洋都市アレクサンドリアを包囲した。しかしアレクサンドリア総主教キュロスは戦いを挑まず、十字架をせおって降伏した。

 神王(ファラオ)と皇帝(カエサル)の神政がナイル川の堆積物として重なり地層となった両エジプト、よく乳の出る牝牛をアムル将軍はアッラーの帝国に併合した。ルーム人は皆コンスタンティノープルへと逃げ帰り、売国の総主教キュロスが新しいエジプト王を都市の城門の外までうやうやしく迎えた。陰気な聖職者の案内で、アムル将軍はおよそ千年の歴史を持つ都市を、血に飽いた配下の部隊とともに散策した。巨大な文明が軍港都市アレクサンドリアの上に横たわっている。砂漠から這い出てきた征服者たちにとって、自分たちがその都市を操るのだと想像することすら難しかった。

 アムル将軍は海岸で巨大な建造物を発見し、キュロスにそれがなんであるかを尋ねた。キュロスは朴訥に「あれは大図書館である」とアラム語で答えた。通訳の兵士がそれを間延びしたアラビア語に翻訳してアムル将軍に伝えた。灼熱の日差しの下から冷えた建造物の陰に入ったアムル将軍は、埃に覆われ様々な言語で彩られた羊皮紙とパピルス紙、それから楔形文字で飾られた粘土版とが積み重ねられた書架の間を彷徨った。古王国時代から綿々と記録され続けた人口と税収の膨大な数字の蓄積、洪水の頻度と旱魃についての詳細な記述を見つけた。河川文明の蘊蓄と人類の仮説と叡智とが図書館の奥底で横たわり、賢者と愚者の言行録が墓石のように眠っている。ある星辰学者が全ての書物を読もうとしてその半ばで両眼をつぶしたほどの蔵書数を図書館は誇っていた。大図書館は人類の前半生をそっくりそのまま保存していたのである。

 書物はいずれもアラブ人のエジプト統治のために必要な資料であり、この図書館は拡大する帝国を血のかよった肉体と化すための心臓となるはずである。アムル将軍の内面にエジプト王としての自覚が芽生えてきた。百人の司書官に命じてこれらの書物を整理させ、百人の行政官にこのエジプトを統治させる、そんな構想が脳内でまたたいた。しかしアムル将軍にはそれらを自由に没収できる権限はない。戦利品はアッラーに属し、その分配は教王にのみ委ねられている。アムル将軍は図書館の財産の処分を教王に問う使者をムスリムの首府メディナへと派遣した。使者の役目は単なる質問者ではなく、図書館の必要性を訴える代弁者であった。

 二週間後、使者はカリフからの返答が書かれた書簡を携えて大地と天空の境界線から戻ってきた。アムル将軍は、国境線をまたいだあのときとは違い、はやる心をおさえてその書簡を開封した。書簡には初期の簡潔なアラビア文字でこう記されていた。

「もし聖典の教えに反する本があればそれを燃やせ、アッラーへの冒涜であるがゆえに。もし聖典の教えに一致する本があればそれを燃やせ、聖典一冊で事足りるがゆえに。」

 アムルの視界が暗く熔けていった。アムルは蔵書をギザにある三つの巨大な正四角錘の底面に隠すことも考えた。しかし運び手の口を塞ぐことが不可能であると知ると、その無謀な試みを諦めた。アムルはメディナからずっと携えてきた聖典(クルアーン)を手にした。そして大図書館の列柱廊を何度も往復した。自らの手にある軽い羊皮紙の聖典が、この両腕でさえ抱えきれない巨大な知の宝庫に匹敵しうるのだろうか?たかが一冊の書物がアーダムから現在に至る人類の歴史と交換しうるのだろうか?アムルの脳に巣食う疑問は毒蛇のようにとぐろを巻いた。

 アムルは足をとめた。自分の隣では柱の間でアレクサンドロス大王の偶像が擬古的で不快な笑みを浮かべていた。視界がかしいで、絶対的な信仰さえも揺らぐのをアムルは覚えた。そして自分が唯一神教を離れ、多神教に傾きつつあることにアムルは気づいた。万巻の書物か、それともたった一冊の聖典か。茫漠と横たわる大地への旅か、それとも故郷の懐かしい町での暮らしか。多くの女たちを抱くか、それとも一人の女を長く愛するか。広がりか、それとも深さか。そして決意した。アムル将軍は隊長を呼びにやった。癲癇持ちの預言者ムハンマドがカーバの多神教神殿を破壊したのと同じように、アムル将軍はアレクサンドリアの図書館を焼いた。炎の根元で人類の歴史のほぼ半分が消失した。それと同時に人類の迷妄であった多神教の記憶も図書館とともに焼失し、砂漠から吹く熱風が世界を清らかな一者の方角へと向かわしめた。

 それは紀元六四一年、聖遷暦二〇年のことと歴史家アル・バグダーディーは伝えている。
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by suikageiju | 2009-09-25 10:36 | 掌編 | Trackback | Comments(0)
ちっちゃな追跡者
 正午を少し回った、照りつけるような陽射しの中だった。成城の三省堂で『タイタンの妖女』を買った私は自宅へと向かう裏道を歩いていた。住宅街の中にある小学校の前を通ると半開きになった校門から勢い良くポニーテイルの女の子が飛び出してきた。小学校の低学年だろうか、透明なビニイルの水着入れを小脇に抱え、ビイチサンダルをぺたぺた鳴らしながら、私の進む方角へ走り去っていく。

 そして二十メートルばかり走ると、疲れたのか女の子は歩き出した。私の胸乳にも届かない背丈の女の子の歩みでは、私の健脚には適わない。私はすぐに彼女を追い抜かした。すると女の子はまたぺたぺたと走り出した。そして私より十メートルばかり先行すると後ろを振り返った。陽射しの眩しさに眉をしかめながら女の子は少し得意そうな顔をしていた。それを見て苦笑いしながら、あの年頃はまったく汗をかかないのだろうか、などと思っていた。しかし私の歩幅は大きい。何度も何度も女の子は私の方を振り返り、足を懸命に動かすけれどまた私に抜かされてしまった。そうしたら、また女の子は水着入れを小脇に抱えて走り出し、ぺたぺたとビイチサンダルを鳴らして私を追い抜かした。けれど十メートルばかり先行すると、何を思ったのか女の子はいきなり立ち止まり、道端に寄って、植木の葉をむしりだしたのである。葉をむしっては捨てながら私の方をちらちらっと見遣る女の子に「何をしているのだろう、この子は?」という視線を返して、私はその子を抜かして歩いていった。そうするとまたビイチサンダルのぺたぺたという音が聞こえてきた。女の子は一気に私を抜かすと団地の方に消えていった。ぺたぺたという音は消えた。「ああ、あの子は団地の娘なのだな」と私は一人合点して団地の前を通り過ぎようとした。しかし団地の前の道を歩いていると、まだぺたぺたという音が聞こえてくるのである。団地には幾人かの子どもがいたけれど、彼らはみな立ち止まって話していた。その謎のぺたぺたという音は確実に私をつけて来ていた。あの女の子の姿を探そうとしたけれど、私には団地の樹木や階段に遮られて見つけることはできなかった。

 団地の脇を抜けて私は丁字路に突き当たった。そこで振り返ると団地の樹木の中からあのポニーテイルの女の子が飛び出してきて、私が後ろを見ているのに気づくと道の真ん中でぎょっとしたように立ち止まった。笑って、私はそのまま丁字路を曲がった。角を曲がるたびにぺたぺたというサンダルの可愛らしい音が、すでに私が歩いた道から聞こえてきた。私は悪戯を思いつき、道をそれて神社の境内に入った。境内の石畳の道を歩いて横を見ると、神社の石柵の外から女の子が顔を覗かせていた。私は手を振った。それには答えず、女の子はぺたぺたと走り去った。神社の境内を抜けた。最後のぺたぺたが聞こえてくる。私の前を女の子が駆け抜けていき、角に消えた。やがて門扉をしめるような金属音がかすかに聞こえて、ぺたぺたは止んだ。

 辺りを見回しても誰もいなかった。真夏の住宅街は静寂に包まれた。私は子狐にだまされた気分になった。
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by suikageiju | 2009-09-21 11:00 | 掌編 | Trackback | Comments(0)