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文学フリマ非公式ガイドブックは文壇なのか?
 第4版まで編集に関わっていた文学フリマ非公式ガイドブックについて言及したTweetが流れてきた。

 カオスカオスブックスの富永夏海さんのtweetである。富永氏はおもしろい感性で言葉を綴る作家さんだ。ふと、第十八回文学フリマの朝に二階の踊り場で彼女に会ったので「あ、でかい人だ」と挨拶したら「でかくないっ」と言って去ってしまわれたことを思い出した。それはともかく新刊『赤の素描』も言葉選びのセンスといつものことながら装丁が良かった。「読書好き」よりも「本好き」向けの本である。
 上に引用した富永氏のtweetはよく言われる「文学フリマ非公式ガイドブック=文壇」論の一種である。第十七回文学フリマ直後にも同様の意見があった。

 文壇という言葉は本来、文芸界隈くらいの意味しか持たない。しかし、この言葉は《出版社の正社員・編集者》《築地の料亭》《銀座》《祇園》《渡辺淳一》などの事象と結びつくと特権的なイメージを持つ。しかし残念ながら文学フリマ非公式ガイドブックはそのような事象とは繋がりがない、不幸にも。せいぜい《地域広報誌のアルバイト》《新宿の居酒屋「海峡」》《珈琲西武》《森井聖大》くらいだ。なので富永氏のtweetは同じく第十七回文学フリマ直後に発生した「内輪」論と同じような自己愛的な趣旨を持っていると考えられる。つまり文芸界隈にズブズブ浸かっている文学フリマ非公式ガイドブックにとっては定期的な行事なのだ。


 鯨が今回の「文壇」論は「内輪」論と趣旨は同じと考える根拠は富永氏の続きtweetに書いてある。



 実際に富永氏は「内輪」という言葉を使っていることから、おそらく「内輪」という意味で「文壇」という言葉を使ったのだと考えられる。また特権的な「文壇」を嫌いながらも「メジャーな作家さんを読んでトークイベント」なんて「文壇」的な行為をイベントを面白くするための方策として挙げている矛盾も、氏が「文壇」を「内輪」の別名として選んだこと、そしてそれが憤怒の表現として選択された過剰語であるという考えの根拠となる。

 また、富永氏はご自身の作品への評定文を気にされている。そこで新しい『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド2014年春』を開いて読むと富永夏海氏の『アバガス』が掲載されていた。その評定文は以下の通りだ。
山川夜高:とにかく物体価値は最高。執拗な装丁に執拗な文体を貫き通す作品の強い意志に好感を抱いた。だけどその先は? と、どこか疑いが浮んでしまう。手放しには喜べない。
渋澤怜:夢追い系サブカル男女(我々!)が「自分のこと書かれていると思っちゃう系」小説としては一級品。しかし良くも悪くもそれ以上でもそれ以下でもなく毒にも薬にもならないので要注意ね。
高村暦:誰もが作り・消費する時代への食傷。這うように書くハサミの姿は映画で観たい。夢に恋し、夢に行き着く彼女を救うのは「どうでもいいことばかり書く」アンドレ・ブルトンなのでは。

 鯨としては山川さんがそれ言っちゃう?とか高村女史イミフとか渋澤怜だ~鯨はトライポフォビアなんで~怖いよ~(主旨と関係ない)とか色々あるけれど、三者ともある程度作品をよく読み込んで評定文を書いている。そして、どちらかと言えばネガティブな意味も含ませた評定文である。ただ、富永氏が「わたしたちの本をリコメンドしてくださった、その方にはたいへん感謝していて、とても嬉しくおもった。」と書いた伊藤なむあひ氏の推薦文も「文章が気持ち良い」と書いてあるものの山川氏が言及した「その先は?」や小説的展開については言及していない。この「違い」によって、つまり推薦した伊藤なむあひ氏が言及しなかった部分を評定文が補完することで『アバガス』の推薦頁は全体として連携がとれている。なのになぜ富永氏は推薦文については「感謝し」「嬉しくおもっ」て、評定文に「引っかかった」のだろうか?

 頒布された時点で『アバカス』はすでに富永氏から切り離され、読者の手に渡っている。富永氏が「引っかかった」のは、その子離れをまだご自身で受け入れていないからだ。

 評定制度は第4版から始まった。これは推薦文=リコメンドだけではガイドブックたりえないという考え、そしてその作品を推薦しなかった人の評を載せることで『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド』上で複数人の「主観」の「違い」を載せて読みの多様性を表現し『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド』をガイドブックたらしめようという考えに基づいている。
「非公式ガイド」 の名で親しまれる、あるいは嫌われるこの本を、私たちは《主観の提供》という名目で、懲りずにまた差しだそうと思う。私たちが手にすることのできた数少ない物品の中から、主観で選択し、主観で紹介する。それはどうあってもあなたの主観ではなくて、あくまでも彼や彼女の主観、そして私たちや私の主観だ。けれど、その「違い」から、またさらに別の「作品」を作りだせはしないか、というのが、非公式ガイド の問いかけなのだ。――高村暦「文学フリマ非公式ガイドブック第2宣言」

 このような第4版と最新刊の『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド2014年春』での試みは、作家の子離れをうながし、作品を批評によって作家と切り離そうとする企みである。そして、その企みの継続と徹底でしか文学フリマの内輪感や閉塞感の打破はありえないと信じるゆえの行為である。というのはいわゆる「内輪」や「文壇」と揶揄されるような文学フリマの閉塞感は根深く、そのイベントの枠を超越し、19世紀末~20世紀初頭にロマン主義が「物語」に終止符を打って以降、作家と作品を繋げる、ともすれば作家を作品よりも偏重する世界の文学傾向に基づいているからだ。
人が作家になるのは特別な才能があるからではなくて、不幸にして他の仕事ができなかったからであり、孤独な仕事を通じて得られるのは、靴職人が靴を作っていただく報酬と同じであって、それ以上の褒賞や特権を手にするべきではないと考えてきました。「あなた方がおられるので」ガブリエル・ガルシア=マルケス、カラカス、1972年

 このように20世紀後半に故ガルシア=マルケスが忌避した作家偏重の傾向が東洋の島国日本でも、特権的ないわゆる「文壇」を形成した。それは現代でも継続している。

林真理子さん「文壇が崩壊してしまうほどの衝撃」

渡辺淳一さんと30年にわたって交流を続けてきた作家の林真理子さんは「お年を召して大御所になってからもベストセラー作家であり続けるという信じられないような方でした。女性もお酒もおいしいものも大好きで、そういうことがすべて作家としての糧になると信じていたのだと思います。渡辺先生と一緒にいると作家であることの喜びや楽しさを感じることができました。今の私があるのも渡辺先生のおかげで、さみしさでいっぱいです」と渡辺さんの死を悼んでいました。
また、「本が売れず出版業界が大きな試練を迎えているなかでリーダーがいなくなり、とても困ってしまう。1人の作家が亡くなったというだけでは済まされないくらいで、文壇が崩壊してしまうほどの衝撃があります」と声を詰まらせながら話していました。作家の渡辺淳一さん死去

 なぜ作家が死んでも作品が遺るのに文壇が崩壊するのだろうか。知人の死で取り乱している故の言だろうか。それとも、これは作家を偏重していて、個々の作品で価値を判断していない時代の名残りに囚われているからなのだろうか。きっと、渡辺淳一が不老不死でも出版業界の試練は続いただろう。そんな構造的試練に直面している出版業界と同じことを文学フリマという自由な市場でやっても仕方がない。もっと良い方法がある。

 閉塞感を抜け出したいのならとりあえずは「作者の考え」と「読者の考え」が等価であることを認めるべきである。たとえ、作者が考える読み方であっても、他の「読者の考え」と同じ、そして偶然にも最初の読者に選ばれた人の読み方として捉えるべきである。そして不幸にも「文壇」=文芸界隈に属している文学フリマの作家たちが、しかしこの自由市場でいち早く改宗し自己愛的な「作者の考え」偏重を遠ざけるべきである。その先で、作家と作品の幸福な切り離しを図ろう。そうなればやっと作家の名前は責任の所在のみを示すようになる。文学フリマがそこまで到達すれば、この閉塞感に満ちた文芸界隈も今までには無かった形をとって息を吹き返すかも知れない。それは文学フリマというモデルケースに従って、という目を疑うような形で。

 音楽もデザインもアートも、特に音楽とデザインはガルシア=マルケスの言う「靴職人」の「靴」に近い状態になっている。しかし「文学」はまだ「靴」にもなっていない。ただの鞣革、しかも作者の人皮装丁だ。文学が閉塞的であると気付いている富永氏なら、いつか自身の作品の子離れを受け入れる日が来ると信じている。その時、ご自身が作品との間に結んだ「文壇」的な癒着関係から解放されるはずだ。きっと打破できる。それは富永氏にとっての救済となるし、彼女が文学フリマというイベント並びに文芸界隈を導く存在となる第一歩となる。

文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド編集員会側の見解
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by suikageiju | 2014-05-06 23:11 | 文学フリマ | Trackback | Comments(2)
第十八回文学フリマとCOMITIA108を効果的に連絡する双方向ハシゴ方式
 2014年5月5日(月祝)、有明の東京ビッグサイトこと国際展示場で自主製作漫画誌展示即売会COMITIA108が、その同日に平和島の東京流通センターで創作文芸・評論オンリーの同人誌即売会、第十八回文学フリマが開催される。論を俟たずして逃避癖の文学結社・西瓜鯨油社は第十八回文学フリマに参加する

 東京湾岸部で、創作文芸サークルが参加しそうな同人誌即売会が同日開催されることで、2つのイベントを連絡して一般参加をする人、いわゆるハシゴをする一般参加者が出てくるだろう。都合の良いことに両イベント間には路線が通っており、ビッグサイトの最寄り駅であるりんかい線国際展示場駅と東京流通センターの最寄り駅である東京モノレール流通センター駅は、天王洲アイル駅で乗り換えれば534円25分以内で行ける。歩行時間も含めれば50分もかからない。
 ハシゴといえば午後2時前までどちらか一方の同人誌即売会に滞在して、午後2時半には別の同人誌即売会に移る、という片方向ハシゴ方式が一般に流布している定番だけれど、その方式だと前半で帰ってしまうサークルさん、後半から遅れて参加するサークルさんの本を買えなくなる危険がある。そのため、どちらの同人誌即売会にも前半と後半それぞれに少なくとも一回は訪れる双方向ハシゴ方式を採用する世界基準の一般参加者が増えている。そのうち、ISOも取得するだろう。そこで、第十八回文学フリマは閉幕17時とCOMITIA108より1時間長く会が続くことを考慮し、前半は(開幕)COMITIA108→第十八回文学フリマ、後半は第十八回文学フリマ→COMITIA108→第十八回文学フリマ(閉幕)という双方向ハシゴ方式を採用すれば効果的だろう。決して効率的ではないけれど。

 双方向ハシゴ方式での実際の行程表を示すには有明と平和島、それぞれの地区にどのくらい滞在する必要があるかを計算する必要がある。Googleマップによれば、国際展示場駅から東京ビッグサイトまで徒歩11分とのこと。多く見積もって片道15分で計算すれば有明地区の滞在時間は1時間30分必要だろう。一方で流通センター駅から東京流通センターまでは徒歩3分である。これなら平和島地区の滞在時間は1時間あれば充分だろう。この滞在時間を基準に以下、行程表をジョルダンで算出した。

【1】開幕のCOMITIA108を愉しむ。(有明滞在1時間35分)

■国際展示場 1番線発
|  りんかい線快速(川越行) 4.3km 3・8号車
|  12:35-12:40[5分]
|  267円
◇天王洲アイル 1番線着 [9分待ち]
|  東京モノレール(羽田空港第2ビル行) 4.7km
|  12:49-12:54[5分]
|  267円
■流通センター

【2】第十八回文学フリマを楽しむ。(平和島滞在1時間13分)

■流通センター
|  東京モノレール(浜松町行) 4.7km 後/6号車
|  14:07-14:12[5分]
|  267円
◇天王洲アイル 2番線発 [13分待ち]
|  りんかい線(新木場行) 4.3km 3・8号車
|  14:25-14:31[6分]
|  267円
■国際展示場 2番線着

【3】COMITIA108を愉しむ。(有明滞在1時間34分)

■国際展示場 1番線発
|  りんかい線(大崎行) 4.3km 3・8号車
|  16:05-16:10[5分]
|  267円
◇天王洲アイル 1番線着 [11分待ち]
|  東京モノレール区間快速(羽田空港第2ビル行) 4.7km
|  16:21-16:26[5分]
|  267円
■流通センター

【4】第十八回文学フリマを楽しむ。閉幕。(平和島滞在34分)


 この方式ならICカードを使えば1602円で前半と後半の両イベントを堪能することができる。本も何冊か買えるだろう。もちろん1時間を少し超えるくらいの滞在では本を探す時間が足りなくなることもあろう。そこで便利なツールとしてCOMITIA108にはティアズマガジンがある。そして第十八回文学フリマでは公式カタログの他にB-1で頒布されている『文学フリマ非公式ガイドブック2014年春(通巻5号)』がある。
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by suikageiju | 2014-04-29 07:00 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
非公式ガイドブック2014年春号(通巻第5号)推薦作決定会議
 「非公式」は補集合の代名詞だった。精神的指導者(アイドル)をつくり何かと群れたがる文学フリマ参加者のなかでそういった集合から漏れた嫌われ者クラスタたちの掃き溜めが文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド編集委員会であるはずだった。佐藤、屋代秀樹、牟礼鯨、そういった犬畜生、人外鬼畜、海棲哺乳類がいたころ、「非公式」はなかなかひとつにまとまらず、まだ補集合でいられた。
 でも、今や「非公式」は固有名詞となっている。何かと人望を集めている高村暦、猫をかぶった山本清風、そして銀河系最強の秋山真琴などまずまずの人格者を責任編集者に据えてひとつの集合を為しはじめた。だからだろう、今回から「非公式」ならではのカラーが出来てたように感じられる。もはや補集合には戻れないのか。

 2月16日10時40分ごろ地下鉄神保町駅に着いてホームを歩き扉が閉まったとき、Deity's watchdogと書かれた近江舞子さんの黒いトートバッグを半蔵門線の車内に置き忘れたことに気付いた。文芸同人誌入れとして重宝しており、いつもそれには数冊の文芸同人誌が入っていた。改札口の横にある駅事務室へ行き、駅員さんをけしかけて押上駅と北千住駅で回収作戦を決行したけれど、いずれも失敗した。11時からレイアウト会議であったので神保町交差点の集合場所で待っていた高村暦女史に会いに行き遺失物の件を告げた。11時15分くらいになっていたが、組版係のわたるんはまだ来ていないばかりか遅刻の連絡もないらしい。そこで高村女史の提案により、遺失物のデータベースにそのトートバッグが載って連絡が来るまで神保町のカフェめぐりをすることにした。
 カフェめぐりといっても中に入ったりはしない。犬尾春陽氏に教わった神保町カフェ・リストから非公式の会場に相応しいお店を外観と窓からのぞき見た内装から選ぶだけの作業である。雪の残る靖国通りとすずらん通りを女史のあとに従い歩く。
 それにしても、犬尾氏は迂闊だ。彼女が紹介したお店はほとんど日曜祝日休業だった。神保町は古本街とは言われているけれど、その実態は問屋街である。つまり平日に働く職業人のために賑わう街であり、日曜祝日になんて来るべき街ではないのだ。ましてや珈琲を飲むなんてことは。それは名高きさぼうるが日曜日定休であることから考えて分かるはずだろう。犬尾氏もそうだが、鯨は日曜日に神保町を開催地に選んだ高村女史も迂闊だと思った。会場となったギャラリー珈琲店古瀬戸は日曜日でも開いていた稀な例である。
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 文学フリマ非公式ガイドブック2014年春号(通巻第5号)の推薦作つまり掲載作決定会議は13時半過ぎから高村暦、秋山真琴、伊藤なむあひ、そして遅れてやって来た山本清風、真乃晴花の5人で、名雪大河が描く蛙たちのただなかではじめられていた。そこに牟礼鯨はいない。13時半から14時過ぎまで鯨は再び半蔵門線に乗って黒いトートバッグが見つかったという清澄白河駅までそれを取りに行っていた。今回、鯨はただの一冊も推薦していない。そんな非公式ガイドブックの制作に非協力的な人が会議で口を挟むのも可笑しいので会議よりも遺失物回収を優先させたのだ。もちろん、もう編集サイドからは外れた、ただのオンブスマンでありたいという願望もその選択には込められている。
 遅れて古瀬戸へ向かう。すでに会議は盛り上がりを見せていた。くっつけられた3脚の青い丸テーブルを囲むようにして座り、推薦作を全作品を読んだ責任編集者3人を中心に推薦作一冊ずつにそれぞれが意見を投げかけあっている。伊藤なむあひ、真乃晴花、牟礼鯨、この3人はその場にいるけれど俎上にあがっているすべての作品を読んでいるわけではない。単に偶然買って読んでいたか、それとも現物が目の前のテーブルの上に載っているかして得た情報をもとに、あるいはただ純粋に推薦者が書いた推薦文を読むだけで議論に加わっている。これは推薦作そのものへの評価もそうだけれど、それよりもその作品を推す推薦文への評価にも重きを置いているのが非公式ガイドブックだからだ。ゆえに推薦作をあまり知らない人が推薦文を読んでどう思うかを探るためにも未読者の存在はこの会議に必要である。幸運と努力の賜物だろうか、掲載する推薦作はその日のうちに決まった。けれど、まだ容赦がありすぎるように思えた。鯨の主観では「え、こんな本が?」という数作に誰も拒否権を発動しなかったのだ。
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 会議はやがて掲載が決まった推薦作をどの評定担当者にまわすかを決めるテーマに移り変わった。評定担当者は推薦者の推薦文を相対化する。評定文は推薦作への評価を推薦文から読み取れる内容で固定化しないように機能する。その調整を行うという観点で評定担当者の割り振りが決められる。この割り振りにこそ責任編集者ならびに編集委員会の意図が込められている。
 最後には推薦作が載せられている頁以外をどうするかというテーマで話し合われた。いわゆるサークル紹介頁についてである。このとき鯨はその前のテーマで鯨に割り振られた推薦作の評定文をその場で書いていたのでほとんど話を聴いていなかった。ただそこでも厳かな決定が下されたことは確かだろう。
 16時に会議は終わり、その後はミスボドの秋山真琴が持って来たボードゲームを遊ぶ。まずは「詠み人知らず」、次に「藪の中」である。しばらく楽しんだあと、遅れて横浜からやって来た栗山真太朗を迎え、名古屋へ帰る秋山真琴を見送り、パパ・ミラノ神保町店にて無口な6人は歓談した。5月5日の第十八回文学フリマから話題を逸らすことはなかなかできなかった。
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by suikageiju | 2014-02-17 23:40 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
非公式ガイドブック第4版を終えて
 非公式ガイドブック第4版を完売で終え、牟礼鯨は11月4日に当編集委員会の責任編集者職を辞した。鯨は旧称・非公式文学ガイドブック小説ガイド編集委員会結成当初からのメンバアで、第1版から続けている唯一の責任編集者であり、この度やっと拒否権を手放せることになった。責任編集者は憲章にあるように拒否権vetoを有する編集者である。それは非公式ガイドブックに推薦された本の掲載を拒否できる権利だ。悪魔のような権能である。第3版までは佐藤さんと屋代さんが拒否権をぽんぽん発動していたので鯨がそれを発動する機会は少なかったが、第4版の同僚責任編集者であった高村女史と山本清風さんはともに人間的なので、彼らの内面に潜む悪魔の代理人として拒否権を発動することもあった。拒否権を発動するのが責任編集者の仕事だ。
 創作文芸と呼ばれる界隈には「自分がオピニオン・リーダーでありたい」という欲望が潜んでいる。オピニオン・リーダーと呼ぶのが相応しくなければ精神的指導者(アイドル)であろう。自分の意見をこの小さいが裾野の広い界隈の隅々にまで行き渡らせたいという欲望である。さかのぼれば内紛で自滅した文芸リローデットから、非公式ガイドブック発足前にいたるまで、すべての諍いはその欲望に起因している。たいていは少し売れて界隈を賑わした作家やアンソロジーを主宰した作家や十年選手・二十年選手の作家が欲望を抱き、お山の大将となって精神的指導者を、意識してか無意識にしてか、目指した。そしてその周囲にはそこまで力のない作家が金魚の糞のように集う。はたから見れば稔りの少ない畑の縄張り争いだ。単に醜悪で愚かなだけ。文学はエンターテインメントか芸術か人生の支柱かの論争もその縄張り争いの一端である。文学を冠するイベントなのに、文学フリマでも人格者や優しい人に人気があり、人格破綻者や攻撃的な人が嫌われるのも創作文芸界隈特有の精神的指導者を求める傾向があるからだ。くだらない。鯨もくだらないと思う。そんなことよりも作家はもっとやるべきことがあるはずだ。だから、非公式ガイドブックはそんな欲望と諍いの連鎖をたちきるための手段であるはずだった。お互いを褒めちぎり合って精神的指導者を輩出する陋習の代わりとして、人間を排除した殺伐たる場を演出する機構を生み出すはずだった。初代最高責任編集者であった佐藤さんはそこへ至る基礎を築いた。そしてそこに誰よりも近づくことができた。でも失速した。佐藤さんは可愛い。だから批判的ではありえても殺伐さの機構を徹底させることができなかった。2013年4月に大阪文学フリマと超文学フリマのダブル開催があり第3版は頒布数を60部以下に落とした。それが潮時だった。佐藤さん、屋代さんはそれぞれ責任編集者から降りたいと明言した。そして誰も引き継いでくれなければ第4版は出なくてもいいや、そういう流れになった。古書ビビビに納品するため在庫担当責任編集者となっていた鯨も在庫の山を見て、もうやめたいと考えていた。

 6月30日(日)夕方、新宿で在日外国人犯罪追放デモ行進があった日に、靖国通りの北の家族で佐藤、山本清風、真乃晴花、吉永動機、はいり、久保田輝、屋代秀樹、渋澤怜、牟礼鯨が第3版の集計会で集った。その会で上記引用の高村暦女史小説発表中止のお知らせを読んだ佐藤さんが次期最高責任編集者候補として高村暦女史と久保田輝氏の名をあげた。実はその集計会の数十分前まで代々木のカフェロリータで高村暦女史と久保田輝と鯨の3人で文芸座標を立ち上げていたのだ。新しいことをはじめるくらいなら既存のレール上でやりませんか? という考えが佐藤さんにはあった。そして久保田はダメっぽかった。そのため『視姦』や鯨暦譜や福岡ポエイチなどで一緒に作業したことがあり高村女史に連絡できる唯一の責任編集者・牟礼鯨が女史勧誘の任にあたった。

 7月23日(火)に珈琲西武で佐藤、山本清風、真乃晴花、高村暦、羽岡元、牟礼鯨による会議が催された。そこで佐藤さんは高村女史に無理に最高責任編集者の任を押しつけない方針だったと思う。というのは会議の最後になるまで「持ち帰って考えてきてください」という言い回しだったからだ。しかし鯨は、第十七回文学フリマまで残り3か月半では、第4版をやらないなら兎も角、やるとしたら高村女史に時間的猶予はないと考えていた。そのため事前に話を詰めて7月23日以前に「高村女史が最高責任編集者を継承し牟礼鯨は勧誘の任を果たす。その代償として牟礼鯨は責任編集者をもう1期だけ継続する」という条件で話をつけていた。鯨は何も決断できない会議が嫌いなのだ。つまり、その7月23日の珈琲西武での会議が最高責任編集者禅譲の場となるお膳立てはすでにできていた。だから佐藤さんが「持ち帰って考えてきてください」と会議を〆ようとしたとき、鯨はやや強引にその場の流れを遮るようにして「高村さんはどうしますか?」と訊いた。鯨はこう思っていたのだ。第4版が出ないよりも出た方が良いのは佐藤さんも鯨も同じだろう、そして女性が最高責任編集者になれば殺伐たる場を演出する機構をつくっても何だか許されてしまいそうな気がする。それに高村女史は充分なくらい腹黒い人間だ。

 その日の2次会で近くの居酒屋海峡に移り、高村暦女史は責任編集者を指名する。まず鯨が、そして山本清風さんが責任編集者に任命され、こうして第4版の責任編集者陣3人が決まった。

 そして8月5日(月)に第4版の責任編集者陣に佐藤さんと組版担当者を含めた会議がまた珈琲西武で催される。そこで評定制度など第4版の方針や大まかな紙面が決定された。その後の流れを説明するのは鯨の仕事ではない。それは高村最高責任編集者の仕事である。

 第4版は第十七回文学フリマにおいて175冊完売という結果に終わった。まだ殺伐さを演出する機構としては容赦がありすぎるが、挙げた数字は成功と言っても良いだろう。これらは全て高村女史と山本清風さんの働きのお蔭である。すでに鯨の責任編集者としての役割は高村暦最高責任編集者を擁立したことで終わっていたからだ。なのに、11月4日まで責任編集者という立場に居座り続けたことを文学者として愧じる。
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by suikageiju | 2013-11-07 01:18 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
最初のブックエンドに出演した
 10月26日のことだ。文京区白山にある本屋さん、双子のライオン堂さんから発信されたラジオ番組「最初のブックエンド」に牟礼鯨が出演した。西瓜鯨油社の物語作家として、そして文学フリマ非公式ガイドブック編集委員会の責任編集者として。【動画URL(mp4)
 駒込の東洋文庫閲覧室で調べ物をしたあと白山通りを南下して30分弱で春日駅にたどり着いた。15時半に春日駅の地上出入り口で集まって、クロフネ3世さんが会場である双子のライオン堂まで連れて行ってくれると聞いていたからだ。15時28分くらいに待ち合わせ場所に着くとクロフネ3世さんと真乃晴花さんがいた。英国家庭教師っぽい眼鏡女子の真乃さんは第一観覧者である。その後15時30分を過ぎて「恋と童貞」の朝倉氏、文学フリマ事務局の望月代表が現れたので会場へ移動した。
 双子のライオン堂さんは富士見湯という銭湯の近くにある。そこで店長さん、BOOK SHOP LOVERの和氣さん、アナログゲーム倶楽部『獅遊』のKさん、プロデューサーのだいあっとさん、そして橋本さんが鯨たちを待ち受けていた。店の奥にある畳の間を囲み自己紹介と名刺交換をしていると山本清風さんと小泉哉女さんが加わった。ラジオ放送進行のあらましが書かれたA4の紙を下地にスタッフさんとともに番組の企画と構成を練る。このとき、スタッフとゲストがともに打ち解けることができた。それから軽食をとりながら文学フリマ、タトホン、本の杜、コミティア創作文芸嶋、そしてテキレボについて望月代表を中心に談笑した。
 18時20分ごろからマイクテストのために、会場である本屋さん店舗部分に移動する。本棚と本棚の狭間に長テーブルを置いてお互いの肩をぶつけるほどに詰めて座った。鯨の左には望月代表、右には山本清風さん、正面には朝倉氏が座った。緊張のためかゲストたちは紙コップに注がれたミネラルウォーターを頻繁に口に運びながらON AIRを待った。
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 そして放送開始である。第1部は自己紹介と告知のあと、望月代表による文学フリマの紹介、そしていわゆる評論サークルの話をした。そこで文学フリマ非公式ガイドブックとして牟礼鯨も沿革や無名作家を評価する喜びについて話した。BOOK SHOP LOVERで池袋の天狼院書店さんの紹介が終わると1分間の休憩時間があった。そのとき、扉が開き店外で待っていた最高責任編集者・高村暦女史が入店した。女史は第二観覧者である。第2部は創作サークルが小説を書くということについて、本をつくるということについてそれぞれの考えを話した。
 そして20時を少し回ったときに放送が終わった。あとから聴いてみるとゲストのうち望月代表の声が一番聴き取りやすかった。すぐにはどうにもならない声質は別として、たとえば話の最後はわかりやすい単語を出してまとめる(たとえば「ビジランテ」「全身逆鱗人間」など)、もしくは断定口調で締める、といったことに気を配るよう反省しこれからの声の活動を考えていきたい。以下はTwitterのタイムラインで拾えた視聴者さんと視聴し忘れた方の声である。











 今回の放送は良い放送だったと思う。もちろんこれは機材がある程度そろっている放送の環境を知っていることによる自己暗示としての感想だろう。けれどすっかり気をよくした鯨は音声だけで表現することに興味を持った。それは演劇とも違う、身体表現を消した、言葉を声に乗せる表現への興味である。それはよく考えた人だけに伝わる物語の技法とは違う、ただ単に伝えたいことをそのまま「伝える」という技術を修練することである。だから今回の「最初のブックエンド」に出演させていただいたことをきっかけに、あのような本格的な放送まではいかなくてもユーストや生放送を積極的にやっていきたいという思いを抱いた。この思いが鯨の大きな財産となるだろう。
 放送後にドミノピザを頼んでビールを呷る打上げがあり、そこで望月代表から「何でもブログにしちゃうのはすごい」というお言葉をいただき、いちブロガーとしての精神を今に至るまで持ち続けて良かったと思った。
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by suikageiju | 2013-10-27 22:01 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
文学フリマ非公式ガイドブック第四版掲載作決定会議
 最高責任編集者と責任編集者2名が代々木のカフェ・ロリータに全員集ったのは30日の午後7時半になった。これは非公式ガイドブック第四版に載せる候補作を持ち寄って、その中から実際にどの本を載せるのか決めるための集会である。前の晩に下北沢の山角で山本清風と飲み食いをした鯨は懐疑的になっていた。果たして自分たち、就中鯨に「拒否権」を発動する資格があるのかどうか、と。
 文学フリマに参加する諸先生方は確かに心のなかで美しいもの、涙誘うもの、躍動感あふれるもの、大笑いさせるものを抱いている。それは鮮やかなイメージだ。そして、それぞれの書く技量を用いて心の中のイメージを文章という形で表現しようとしている。たいていはそれに成功している。でも技量の限界によって、その心の中の一大スペクタルを小説に投影しきれなかった作品を前にして、鯨は無慈悲に「拒否権」を発動できるのかどうか。これが懐疑である。そんなことをすれば逆に「なぜ彼らの心の中の映像を察することができなかったのか」と鯨が責められやしないか、と。だから鯨は懐疑を打ち砕くため「何を描くのか」ということ、つまり心の中のイメージには目を瞑った、と表明する。そんなもの、判じようがないからだ。そして「どうやって描くのか」という技量にだけ目を向けて判じることにした。それならば証拠が本という体裁で残されていて誰もそのことを否定しようがないからだ。
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 責任編集者3人の集いは、まず名古屋編集者から送られてきた本の査読から始まる。それぞれがそれぞれの方法で査読していった。一例をあげると山本清風は名古屋から来た本をカフェのトイレで読んでいた。それも彼なりの査読法なのだろう。
 査読が済むや否や今までに査読した候補作の中から3人で掲載作を判定していく。各責任編集者に理由と決断が要求された。その後、決められた掲載作を編集委員会のなかでどう処理するのか方針を定めるためにひたすら升目を埋めていった。升目が全て埋まる頃には時計は午後10時を回っていた。疲労と徒労感だけが残った。
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by suikageiju | 2013-08-30 22:35 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
文学フリマ非公式ガイドブック第4版第2回編集会議
 お盆時期の科学喫茶コペルニクスは短縮営業中である。8月16日夜、オーナーである深谷氏の都合により非公式ガイドブック第4版第2回編集会議は午後8時半を回ってから開始された。まずお忙しい中、店を開けてくれた深谷氏には感謝したい。革命家のアジトじみた要町の科学喫茶で7人の文学フリマ参加者がシーシャを囲み、紫煙をくゆらせ、冷珈琲の匂いを嗅ぎながら、棘のある意見をぶつけ合う。その中で最高責任編集者である高村暦女史が黒板の上で白墨を滑らせた。
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 佐藤氏が前任者ゆえの現実論を語り、伊藤なむあひ氏が冷静に心を説き、屋代秀樹氏が大鉈でぶった切り、山本清風さんが斜に構えながらもあらぬ角度から切り込み、安倉儀たたた氏が幅広い知識と経験から導かれた確かな提案を打つ。高村暦女史は四方八方から投げられた彼らの意見をさばきながら白墨を消耗させる。 そして牟礼鯨は上の空だ。
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 午後9時20分を過ぎて話題は推薦作の陳列に移る。論陣に酔いがまわりはじめる。ニコチンがグラスに溶け込み、アルコールが煙草に浸み込む。安倉儀たたた氏が軽口を叩いたつもりでパンドラの箱を開く。やがて彼の説得力のある言が場を支配する。腹が減った山本清風がピザを頼み、鯨がソーセージを頼む。話題は分割され、議論は流れ、焦燥感が肉を蝕む午後10時。とうとう酔っぱらったアラサー男子6人が各自適当なことを始めて収拾がつかなくなる。山本氏と安倉儀氏は名刺交換を始め、佐藤氏は酩酊し、屋代氏は劇のポスターを壁に貼り、伊藤氏は黙々とポップコーンをかじる。だが、ジャンヌ・ダルクこと高村暦女史がジル・ド・レたるアラサー男子6人を見事にさばき話に一応の決着をつけさせた。パテーの戦いかくの如し、の采配であった。会議の実際的なところは後日、高村暦女史が明らかにするだろう。
 帰りに安倉儀氏と山手線内回りで話したのだけれど、R.S.嬢をはじめとするメンヘラ女子がファンタジー世界に自分の心象風景を投影させることによって組み立てた「閉じられたオモシロい」を見守って(あるいは一緒に形だけでも盛り上がって)あげなくて何が文学フリマ、何が文学なのだという意見には賛同せざるをえなかった。それだけの説得力があった。やはり安倉儀たたたは相州賢人の号に相応しい。
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by suikageiju | 2013-08-17 01:28 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
文学フリマ非公式ガイドブック第三版第二回編集会議
 作品は製本された時点で作者とは無縁なただの商品、徹底的に作者とは関わりのない消費財となる。けれど読み手は作品と作者を繋げたがるし、作者もまた同様にそういう希望を持つ。そんなことをしても作品との縁は戻らず、いつかその努力も徒労に終わるとわかっているのに。
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 東北関東大震災の2013年における応当日、鯨は刑場と貝塚の町、死と再生の輪廻を体現する土地へ電車で赴いた。「bonjour, madmoiselle」大森駅周辺案内図の前で地図を片手に立ち尽くす小柄な少女に声をかけるとなんと少女ではなく真乃晴花さんだった。危険な大田区の夜道で、真乃さんをエスコートしながら煉瓦敷きの商店街を歩き抜けハローワーク太田の陰に隠れたエセナおおたへ赴くと、そこはもう大田区男女平等派の巣窟だった。鯨は生きて出られるのか。二階最奥、第三会議室には既に佐藤さん、屋代秀樹さん、秋山真琴の面々が揃っていた。長机はすでに菱形に並び替えてある。真乃さんの右隣には屋代さんが、その右隣には鯨が、そしてその右隣には秋山真琴が座る。司会は当然佐藤さんである。
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 19時過ぎ、大阪文フリと超文学フリマに向けての文学フリマ非公式ガイドブック第三版第二回編集会議は、まず文学フリマ開始前での掲載情報漏洩防止の徹底を確認することからはじまった。続いて新刊を後回しにし、既刊についての推薦本文・編集者コメント・書影のスキャン・書影掲載許可など、作業進行状況の確認を行う。前回の会議はインフルエンザで欠席していたので鯨は私的発言を繰り返して全体像をつかんでいった。司会の佐藤さんが決まったことをホワイトボードにさらさらとメモしていく。19時28分に山本清風さんが入室して佐藤さんの右に座る。あとは綾瀬眞知佳さん待ちである。その時点で既刊についてあらかたを語り終えて、会議進行は新刊枠をどうするかという話題に移る。どの新刊を載せるかで難航する会議のさなか19時43分に綾瀬眞知佳さんが入室した。綾瀬さんは佐藤さんの左に座る。この瞬間、今回の会議参加者七人が揃った。新刊枠についての話がなんとか片づいたあと、巻頭作から冒頭数ページをどの順に並べるか、主にあがった3作でまず多数決をする。その後、残りの作品について掲載順を決めていった。これについては第一版・第二版からちょっとした違いが生じることになったのでお楽しみに。その変化から編集委員会の意志を読み取ってもらえれば幸いだ。
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 その後、大阪文学フリマで前乗りするか翌日15日に帰るかを話し合って20時45分に解散。有志だけで大森駅前の無鉄砲にて打ち上げをする。第一版から責任編集者として参加している非公式ガイドだが、第四版まで続ける体力が鯨に、そしてそれぞれの編集委員にあるのか不透明なまま、山本清風さんはピースの紫煙を湯気のようにたちのぼらせている。長時間の会議と日々の稽古と活動と、編集委員の顔に浮ぶ疲労の色は濃い。打ち上げの後半は秋山真琴が提案したゲームでおおいに盛り上がり、大森の夜は現世を忘れていくように更けていく。
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by suikageiju | 2013-03-12 02:21 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
土地と文学フリマ
 性風俗と文学フリマの類似に気付かされたのは或る女作家の打ち明け話からだった。それが第何回かは言えないけれど、文学フリマ後の打ち上げで或る文芸サークルの女作家が鯨に近寄ってきた。そして二人で別のところへ行こうと囁く。何かを鯨に打ち明けたそうにしていた。なぜ鯨に?
「鯨さんなら聴いてくれると思ったから」
 と言うので
「鯨であることは何の担保にもならない。ましてや嫌われ者だ」
 と返せば
「嫌われることに無頓着な人は誰も嫌いになれないから」
 と言われて閉口する。集団とは離れた席へその女と移動して話を聴く。どうやら彼女は所謂ソープランドで働いているらしい。その仕事について自分では気持ちの整理がつかないから鯨に文学っぽく解いて欲しいとのこと。莫迦にされているのかと思った。耳を傾けた女の話は支離滅裂で脱線気味だったので要旨をまとめると、そこで働いているときと文学フリマにいるときは同じ感じがして落ち着く、楽しい。平日の職場や実家にいるときはそんなことがないのに、なぜだろう? という疑問である。こちらから答えを出さず相手に質問することで自然と解答へと導くのが鯨の流儀なので、女がふと口にした「しがらみ」に原因があるのではと投げかけると女は分かったような分からないような表情を浮かべ「文フリもそこもしがらみから解放されているってことかぁ」と言い
「彼氏といるときよりも楽しいのは彼氏にしがらみを感じているからかな」
と訊くので鯨は思わず
「え、彼氏いるの?」
と訊き返してしまった。
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 秋葉原が二次元にデフォルメされた性を売買する土地だとすれば、蒲田と平和島・大森海岸は肉体そのものを鬻ぐ土地である。文学フリマの開催地はいずれも性風俗との繋がりが濃い。第一回と第二回が開催された青山も渋谷や原宿に近く、現代女性の性と青山墓地の死が取り巻く地であった。優れた文学作品には死から性を、性から死を呼び起こす力が宿る。文学フリマ事務局による開催地選定にあたり、イベントを単なる書籍の頒布会で終わらせず、イベント会場にいるだけで死と性を同一視する文学的体験ができるよう霊的な決定が為されたことは想像に難くない。イベントそのものが文学作品だった。
 文学フリマと性風俗を同じ視界に入れて霊的な考察を加えた作家と云えば森井聖大である。彼には蒲田のピンサロ嬢を描いた『冬子は、森へ』という作品がある。主人公冬子には実家がない、そして作中人物森井聖大は施設の子である。冬子は「今は蒲田のピンサロ嬢を演じきることがわたし好き」と述懐する。森井御大が描いたのは、世間とは無縁な男女がこれまた世間とは無縁な肉体を貨幣で交換する様である。その取引場所は文学フリマが開催されていた蒲田であった。

冬子は、森へー著・森井聖大

nazehenshubu / パブー


 歓楽街で働く風俗嬢の肉体は、作家から製本されることによって縁切られた書籍と同じように世間とは無縁にさせられている。まず肉体の名は源氏名であり封建的な家の縁から放逐されている。おまけに『冬子は、森へ』の冬子は姓を与えられていない。冬子の肉体は家族や職場との「しがらみ」=関係性から逃れえた第一段落の女作家の肉体と同じように自由で無縁である。このように自分とは徹底的に無縁なモノとしたからこそ、風俗嬢は自分の肉体を貨幣で交換できる。同じ原理で作家は自ら著した小説や物語を製本作業で縁切して書籍に変え、貨幣で交換できる。風俗嬢の肉体も、文学が印刷された書籍も購入者に死と性の実感を与えるだけで世間には何ら貢献しない。しかも貨幣は人と人との縁を断ち切る力を持つから縁切作業は念入りだ。更にそうやって得た貨幣についても確定申告をしなければ徴税システムからも逃れることができる。こんな違法すれすれの無縁取引は公式の市場では起こり得ない。歴史上そんな取引が行われる場所は河原や湊などの低湿地帯となるだろう。
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 創作文芸イベントの開催地はいずれも低湿地で、死と性の匂いが色濃い土地である。本の杜は川崎で催され線路を隔てたところに一大歓楽街の堀之内がある。文傾が開催された味園ビル付近の千日前にはかつて墓地や焼き場がありちょうど味園ビルが建つ土地の西南には灰山があったと云う。また福岡ポエイチが催された冷泉荘は橋を渡ればすぐ九州最大の歓楽街中洲がある。それらのイベント主催者は土地の力を得てイベントを運営してきた。だが第十六回文学フリマの堺市産業振興センターはどうだろう。百舌鳥地方は古墳を建てられるくらい磐石な土地である。しかも行政が介入したのに開発に失敗して見捨てられたような経緯もあり、中百舌鳥の土地から得られる魅力は少ない。そのため事務局および参加サークルは書籍だけで死と性が織り成す文学を体現しなければならない。
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 単に人を集めて書籍を売るだけが文学フリマではない。それ以上の霊的な力を提供できてイベントが文学作品そのものとなってこそ、文学を冠する資格が生じる。堺市産業振興センターを開催地と定める限り大阪文学フリマは長くは続かないだろう。第十六回の次の大阪文学フリマは、是非とも大阪の広大な沖積層のぬかるみの上で開催されることを期待する。
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by suikageiju | 2013-03-06 22:29 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
文学フリマに潜む水子たち
 文学フリマの会場を歩いていて、水子たちが手招きするのを見たことはないだろうか? 或いは「こよ、こよ」と呼ぶのが聴こえないだろうか? 蒲田でも平和島でも水子はいた。参加したことはないけれど秋葉原にも水子はいたのだろう。ただ青山に水子がいたのかは分からない。あそこは台地であり、別の死霊が徘徊している土地だから。
 小説や物語とは本来、作家それぞれの霊的存在へと捧げられた供物であり、作家自身と霊的存在とを繋ぐ臨時の橋となる。そして、霊的存在が小説や物語を楽しまれた後に残された余剰分を作家が書籍の形に綴じて出版することで、作家は小説や物語との縁を断ち切れる。そうやって縁を断つことで執筆中に悩まされた霊的存在の幻覚から逃れられる。これには時と精神の浄化という側面もあるだろう。朗読という形で発表された小説や物語がいつまでも作家の声=息吹という縁で作家と繋がり続けているのとは対照的である。
 書籍の表紙や奥付に記された著者名は著作権という社会的かつ法的な要請から生じた記号に過ぎず、本質的な小説や物語の在り方に影響を与えることはない。献辞もまた同様である。霊的存在と作家を媒介する小説や物語は紙で綴じて製本することで、或いはEPUBというパッケージに封印することでその霊的な力を失い同時に作家とも霊的存在とも無縁な書籍に変わる。この製本作業という霊的な縁切儀式を印刷会社に依頼するサークルは多いけれど、自前で器具を揃えて製本作業を行うサークルもいる。彼らは作家である自分と小説や物語との縁切を他人任せにできず、確りと自分の手で「我が子」だったモノと縁切をしようとしている。
 作家が自分の書籍を「我が子」と呼び、誰かに「頒布」することを「嫁入り」と呼ぶ風習は同人誌即売会の片隅で確かに生き残っている。それは人と人との縁を断つ貨幣を「頒布」で使うことへの罪悪感をまぎらわすために自然と湧き起こる言語習慣であろう。ただ、たとえ貨幣を使わずに無料配布をしたとしても、すでに書籍となった時点ですでに縁切は済まされている。その書籍を「我が子」と呼ぶのは、既に亡くなった子を抱きながらあやすのと同じであり、また書籍に自分との縁があるのだと主張して自分と書籍購入者との縁を強引に繋ごうとする行為であり、書籍購入者には嫌がられる。作家と書籍、作家と書籍購入者との間柄はいつだって無縁であり、書籍において作家は常に孤独なのだ。
 文学フリマの会場は秋葉原も蒲田も平和島ももとは海の底であり低湿地であった。そんな沖積層のぶよぶよとした大地から、霊的存在によって霊力を吸いとられ抜け殻となり作家からも縁を切られた水子たちが書籍の姿をして這い上がってくる。そんな水子たちの姿が見えないだろうか、手招きする声が聴こえないだろうか。
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by suikageiju | 2013-03-05 20:29 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)