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うたかたの日々

うたかたの日々 (ハヤカワepi文庫)

ボリス ヴィアン / 早川書房


 下北沢にある古書ビビビでこれを買った。古書ビビビとは今年の10月に昔のところから近所の今のところに移転した古書ビビビである。買ったのは昭和時代に刊行されたボリス・ヴィアン全集の第3巻で、値札が見当たらなかったので店主に尋ねたら表紙のイラストに値札が埋没していた。400円だった。
 大金持ちのコラン、彼の妻で美少女で肺に睡蓮が生えている病のクロエ、そしてジャン・ソル・パルトルの書籍を収集せずにはいられないシック、そのシックを救うためにパルトルを「心臓抜き」で殺してしまうアリーズ、粗筋はどうでもいい。修辞が愉快でくすりとなる。読む人によっては無意味な措辞だと思うかもしれないけれど、鯨にはわかる。それらは意味のある出来事を無意味な出来事につなげるための良くできた糊なのだ。「鰻が一匹いるんだよ。というよりか、いてねえ。毎日水道管を通って洗面所にやって来ていたんだ」「それから彼は十字を切った。というのも、スケーターは、リンクの反対側のはしの、レストランの壁にぶち当たって、潰れてしまったからだ。彼はそこに、残酷な子供によって引き裂かれた紙のくらげのように、張りついたままだった」「花屋は決して、鉄のシャッターを降ろさない。誰も花を盗もうなんて者はいないからだ」「右の肺だよ。教授は初めのうちは何か動物がいると思っていたんだ。だけど睡蓮だったんだ。スクリーンにはっきり映ってるよ。だいぶ大きくなっているが、なんとかうまくやっつけられるさ」「アリーズは全身の力を奮い起こし、きっぱりとパルトルの胸に心臓抜きを押しつけた。彼はアリーズを眺め、速やかに死んでいった。自分の心臓が四面体の格好をしているのを見て、最後に驚いたような目つきをした」
 特に印象に残った言葉は「半分植物性、半分鉱物性のものが沢山、湿った暗闇の中で発達してきたからだ」である。この言葉はボリス・ヴィアンが「あくまでも果実のような宝石」や「石果世界」を根底に物語を綴る西瓜鯨油社と近い場所に存在していたことを示している。
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by suikageiju | 2009-12-25 19:59 | 感想 | Trackback | Comments(0)
月と六ペンス

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

ウィリアム・サマセット モーム / 光文社


 月と六ペンス銀貨は色も形も似ている。しかし月を追い求める芸術家と六ペンス銀貨を追い求める芸術家との間には雲泥の差がある。
 チャールズ・ストリックランドは他人から与えられる常識で満足する人間ではなく、価値を一から創造できる人間である。作家にせよ、芸術家にせよ「社会の常識」を判断基準にして創作する人間の作品はつまらない。「社会の常識」とはなんだろう、鯨にはわからない。金のときもあるし、法律のときもあるし、ルールと言う奴もいる、いわゆる「空気」かもしれない。実体はない。敢えて言うならば、創作する際に自由闊達に動く筆を止める力だろうか。鯨にはそんなものがないからわからない。どうせくだらないものだ。しかし世の中にはくだらない作品がある。それらはたいてい何らかのブレーキがかかっている。そのブレーキが「社会の常識」だろう。たとえ、受けを狙って「狂気」を描いたとしてもそれが「社会の常識」を根底にして描いている限り、単なる猿芝居となる。誰にも頭痛を与えないし、薬にもなりはしない。
 チャールズは、芸術家を集めて知識人気取りの妻エイミーと二人の子供と株式仲買人の職を捨てて単身パリに渡り、芸術家として歩みはじめる。チャールズを説得しにきた語り部との会話を引用しよう。
「そんな薄情な……」
「何とでも言ってくれ」
「恥ずかしくないんですか」
「ないな」
「世間から見たら、あなたはひどい人だ」
「そうか」
「世間から嫌われて、軽蔑されて、それで平気なんですか」
「平気だ」
 (中略)
「どうなんです」と迫った。
「君は馬鹿者だ、くらいしか言うことはないな」

 痛快だ。
 チャールズはそんな感じで生前はまったく無名だったけれど、死んで有名になる。そこで知識人気取りのエイミー・ストリックランド、真の芸術家チャールズに捨てられた女がしゃしゃり出てくる。芸術の上澄みだけを啜る人間たちと芸術の沈殿物にまみれる人間の対比が冷えた笑顔で綴られている。
 「悪魔は自分の都合に合わせて聖書を引用する」
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by suikageiju | 2009-12-11 11:04 | 感想 | Trackback | Comments(0)
生きて、語り伝える

生きて、語り伝える

ガブリエル・ガルシア=マルケス / 新潮社


 「小説なんて書かない、書くのは物語だ。というのは、教えを説くんじゃなくてモノを語るからだ」とその場限りの冗談として言ったことがある。もちろん「説」は「語」よりもやや押し付けがましい意味があるだけで、「小説」には「くだらない話」くらいの意味しかない。だが、後にル・クレジオが「道徳、教訓を垂れるのが文学ではない」と話すのを聴いて2週間前の自分の冗談を戒めとし、「説」の意味を「道徳・教訓を垂れる」に改竄した。私は自分の書いた作品を一切「小説」とは言わないし、誰にも言わせない。私は「物語」だけを創る。
 ガブリエル・ガルシア・マルケスは史上最高のノーベル文学賞作家であり、生物最強の語り部である。一時期、彼の作品を読みすぎたために他の作家の作品が総じてつまらなくなり、うんざりした記憶がある。不幸にも我が日本の大江健三郎の作品群を二回目に読んだのがその時期にあたり、彼の作品群は友人に貸したまま行方不明にするという処置をとらざるをえなかった。『生きて、語り伝える』はガブリエル・ガルシア・マルケスの自伝である。
 驚くのは彼の主な作品がほとんど実話だということだ。特に、あの読んでいる自分さえも恋に罹患する『コレラの時代の愛』が彼の両親の実話だと知って、私は震えが止まらなかった。彼は「(「ナタニエルの最後」という作品を)心を悩ませることなくお蔵入りにした」。なぜなら「私自身とはまるで何の関係もない話であることに気づいたからである」。これについてはこの文を読む以前から私の信条にしている。ただし彼に教わったことかどうかは知らない。
 彼の最高傑作である『予告された同人の記録』についても、周知のことだが、実話である。殺された男はサンティアゴ・ナサールではなくカイェターノ・ヘンティーレ。この事件を題材にしたあの物語について彼自身が「集団的責任という文学的主題」と書いたのには安心させられた。私があの作品を他人に勧めるのは、自分に降りかかる責任の重さを恐れる余りに「自己責任」という言葉を使い、根本的解決を目指さない人間に慢性的な頭痛を与えたいからだ。
 日本の小説やライトノベルは台詞を中心に展開し、地の文がその補足説明となっていることが多い。生徒時代の私も台詞を中心にした文体を書いており、自分の書いたものを読んでうんざりさせられた。そのうち自分は随筆を書いたほうが面白いことに気づき、地の文を中心にして台詞を地の文の装飾や話題の切り換えに使うことにした。この方式を学んだのがこのガブリエル・ガルシア・マルケスである。回想録は物語の無い文章であるが、この本を楽しめるのは地の文のあちこちに諧謔の地雷が埋め込まれているからだ。
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by suikageiju | 2009-12-03 16:08 | 感想 | Trackback | Comments(0)