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個人サークルはこんなことを考えている
10時
 初っ端から差をつけられてしまった。こんなんじゃダメだ。右隣のサークルは白い布で机を覆って、透明プラスチック衝立で本を立てている。なるほど通行人から見やすい工夫である。科学文明の力だ。ブースの人間は男と女。若い男と若い女が狭いブースで椅子を並べて隣り合って座っている。今にも接吻とかしてしまいそうで不謹慎である。さっき女のほうが「今日はよろしくお願いします」と俺に声をかけてきた。驚いたので「うへええす」とわけのわからない声をあげてしまった。みっともない。俺に何がよろしくなのか、わけがわからない。でも女はその右隣のサークルの眼鏡をかけた出っ歯の女にもよろしく挨拶してやがる。出っ歯女はきょどって同じ種族であるはずの女にへこへこ何度も挨拶している。みっともない。なるほど文学フリマではこういうふうに隣の人に挨拶をする慣行があるのか。礼儀正しいお子様たちだ。そして俺のブースの上には装飾は見事になにもない。昨日印刷してホッチキス止めしたコピー本がベニヤ板の上で十冊あるだけ。一冊百円だ。値札も宣伝のための紙もない。そんなもの考えたことはなかった。左隣のブースに女が来た。太った女だ。「よろしくお願いします」そう声をかけられた。「あ、うん」そう返した。こういうことがあるだろうと思っていたし、前の女のとき程はきょどらなかった。何でだろう。なんとなく右隣を見てはいけないと思ったので顔を左に向けて左隣の太った女が本を並べるのを観察していた。変な原色の布を敷いてピンク色っぽい本を横置きしている。値札もちゃんとあるし、立てかけ看板もある。こいつ、経験者か。太った女は支度が済むと立ってどっかへ行き、戻ってきた。なんだ、トイレか。

11時
 会場のスピーカーから声が流れてきた。周囲の雑音とまざって何を言っているのかわからなかった。文学フリマがはじまるようだ。拍手が鳴り響く。なんだろう。こういうときには拍手をするものなのだろうか。右隣の男女が拍手をしている。左隣の太った女も拍手をしている。自分もしなければと思って膝の上に置いていた手を出したら拍手が終わった。ポンとひとつ柏手をうつ。俺の人生はこんなふうにいまひとつ間に合わない。それからはじっとパイプ椅子に座っていた。ブースの前を人が通り過ぎていく。俺のブースには誰も見向きもしない。右隣の男女サークルにはその男女のおしゃれさに見合うようなこぎれいな女が来ている。男と女と、何やら楽しげな、俺とは異次元な話をして、本を買って去った。その女の次にも河童みたいな髪型のひょろ長い男が来て本を買っていった。大盛況じゃないか。なんだか自分のサークルのちっぽけさを思い知らされた。本当に俺のサークルと隣の太った女のサークルには誰も来ない。太った女はずっと自分の携帯電話を眺めてボタンをいじっている。やる気あるのか、こいつ。ここは戦場なんだぞ。また右隣にはお客さんが来ている。俺の『紫露草』は誰からも見向きもされない。そして左隣の太った女も誰からも省みられることはない。2つのブースで1つの机。これはお似合いカップル誕生の兆しか。

12時
 太った女がビニル袋のなかに入った唐揚げを包み紙をちぎって食べている。商品名はたぶんファミチキだ。香辛料のにおいが鼻につく。そんな脂っこいものを食べているから太っているのだ。太った女のブースの上に並んだピンク色の本をそっと見やる。なんとなく題名がBLっぽい。太った女がファミチキを食べ終わる。紙袋がビニル袋にしまわれる。急に腹が減ってきた。そのとき独りのおばさんがブースの前に立った。男女のブースの前かと思ったら俺のブースの前だった。俺はそのおばさんを睨んだ。何をしにきたのだ。「立ち読みしてもいいですか」とおばさんは訊いてきた。俺は黙って一番上にあったコピー本をおばさんに差し出した。おばさんは手渡されたそれを読んだ。嫌な汗をかく。「一冊ください」とおばさんは言う「いくらですか」
「百円です」
と俺は答えた。おばさんは百円硬貨を机の上に置いて、そのコピー本を持って立ち去った。やっと一冊売れた。これでここに来たという面目が立つというものだ。
「売れましたね」
という声がした。誰かと思ったら左隣の太った女だった。「ああ」とだけ返しておいた。なんだ、いつからそんな仲間意識が俺とおまえの間に芽生えたのだ。男と女のサークルにはまた客がいる。本当にこいつらは。いいや、隣の芝生は青い。一冊売れたのだから、もう帰ろう。なんだか躯がだるくなってきた。俺の脳は火花を散らしている。だから脳が人よりも栄養をくって疲れやすいらしい。これは致し方のないことだと医者も言っている。そんな俺がこんなところに何も食わずに2時間もいたんだ。もう充分だろう。

13時
 会場を離れた。帰り支度をし始めたら男女がこちらを見てなにやらひそひそ話をはじめる。左隣の太った女が「もうお帰りですか」と訊いてきたので「ああ」とだけ答えておいた。見ればわかるだろ、もう帰るんだ。用は果たした。鞄に残りのコピー本九冊を詰め込んで後片付けは終わりだ。椅子をそのままにしてブースから立ち去る。左隣の太った女は「おつかれさまです」と俺の背中に声をかけた。俺はその挨拶を無視してその場を足早に立ち去った。会場の外、風が頬にあたる。どちらへ行こうか、まずは駅へ。次回はちゃんと準備をして来よう。
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by suikageiju | 2012-04-22 23:32 | 文学フリマ | Trackback | Comments(1)
文学フリマという麻薬
 望月代表に騙されているのではないのか? と文学フリマ前の沈鬱な休日に考えるときがある。来月五月六日日曜日に第十四回文学フリマが開催される。参加するからには「なぜ参加するのか?」と考えざるをえない、そして自分自身を納得させ一定の理由を与え奮い立たせなければとてもそんな場へは参入できない。人見知りではない、行ってはまた帰ってくる者だ。古代都市に入る城門を視界にちらつかせながら、カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』を読む。だが大理石の柱廊が邪魔をして文字を追えない。文学フリマに出展する作品のどれかが古典となることはあるのだろうか? まずないだろう。もしどれか一作品でもそのデータが恒星間宇宙船の図書室端末に日本語古典として列せられたとしよう。するとその他の万を越す作品は「その古典は文学フリマで売られていた」の一文に集約される。情報の収斂、それこそが宇宙時代の幕開けだ。話を人間が地球上を這いずり回っていた時代に戻す。文学フリマがなくてもモノは書けるのだから牟礼鯨としてはもちろん、西瓜鯨油社としてもやっていける。文学フリマに参加せずにちょっとした本のイベントにこまめに参加していく、そういう道もあるはずで、その道でも「体験者」(「読者」とか云う囲い込み文句はみっともない)と出会えるだろう。こうやって暇そうにブログ記事を書いていることからもわかるように鯨は文学フリマやイベントにあわせて物語データを制作していない。だから、イベントへの中毒性は他のサークルに比べて低いし、きっと大丈夫だ。そう思うこともある。でも、第十五回文学フリマへも申し込むのは分かり切っている。第十二回文学フリマあたりから「俺、午前に喫っていないからニコチン中毒じゃないから」と言いながら喫煙している隠れ中毒者のようにして文学フリマにサークル参加している。躯がもう年に2回の文学フリマなしではたちゆかなくなっているのだ。たぶん申し込みをしなかったら鯨は禁断症状にのたうちまわるだろう、事務局の申込フォームが更新されるたびにそんな妄想がわき上がり、禁断症状への恐怖そのものよりもその妄想に突き動かされた強迫観念によって紹介文と3つのキーワードを入力し、結構早い時期に毎回登録している。もうこれは精神の病であって、治療には執筆道具も書物も無しで一年間の禁固刑が必要だ。なんでこんな躯にされてしまったのだろうか。まず文学フリマの名称である。「非公式文学フリマガイドブック」の名前が出たとき理性上では「非公式」だから大した問題じゃない、と思いつつも動物としての本能が「文学フリマ」なんて名前を冠するなんて大それたことをしやがると危惧していた。同じように「文学フリマ」という普通名詞っぽい固有名詞があたかもこのイベントが創作文芸系同人即売会を、そして創作文芸界隈全体を代表するかのような印象を与える。もちろんこれは鯨の妄想であり、「文学フリマ」というのは単に文字列にすぎず、それそのものにそんな意志はないのだが、読みとる鯨の脳が「このイベントに参加しなければおまえは存在として抹消されるのだ」そんな強迫観念を与えている。あくまでもこれは事実ではない、単なる中毒者、強迫観念者の戯言そして妄想だと思ってくれればいい。存在を消されるという根拠のない強迫観念がまた次回も申込フォームを立ち上げさせる。次に参加当日である。名前も顔も知らない人たちがうろうろ徘徊する会場で「なにかを獲られるだろう」そんな夢を見てしまう。笑半紙がミスタージーンズに定着させた夢ではない。根拠と責任なき希望としての夢だ。それはたった一度の成功に味をしめ賽子の一擲ごとに大金を際限なくつぎ込むできそこないギャンブラーと同じ心境である。「今回はだめでもまだ次があるはずだ。次にはきっとなにかを獲られるだろう」とその「なにか」が何なのか分からないまま或いは決められないままただ回を重ねるのである。そして老境に達してすっかり禿あがり残った髪も白くなった鯨がお隣サークルの若い売り子さんに語りかける、すべてを悟りきったかのように、重苦しい口調で「やっぱり同人誌が売れるには表紙を工夫しないとね」なんて半世紀前から言われ続けていることを。文書データ移送機の不具合をなおしながら若い売り子さんは眉間に皺を寄せ「何を言っているんれすか、やっぱり内容れすよ」と答えるだろう。鯨は東京コスモヴィラの天井を見上げる。そうか、あれからもう50年がたったのか、鯨も老いるわけだ。第百十四文学フリマ会場の片隅でそんなことを思いながら鯨は文学フリマとともに生きた50年間を振り返る。いろいろなことがあった。何かに憑かれたように中毒になったかのように参加していた。結局何もえられなかったし、何も成長しなかった。会社からはリストラされた。今では空港のトイレを掃除して日銭を稼いでいる。子はいない。けれど、まあいいじゃないか。所詮、現実に希望なんてなかったんだから。頬を涙が伝う。いろんな人の顔があらわれては消えていく。あのとき、と鯨は2012年4月22日を思い返す。あのとき、自分の病に気づいてその治療に専念していたら文学フリマへの参加を数年でいい、やめていたら、そして思い切って文学フリマから身をひいたとしたらどうだっただろう? どんな人生だったのだろう。そのとき開場の挨拶音声が流れはじめ、望月第一書記のホログラムが会場を圧するように映し出される。養老宇宙船で銀河の彼方へと旅立ってしまった初代と同じように脂ぎった無性生殖の三代目が宇宙時代の文学フリマについて弁を垂れる。そして会場には拍手の電子音が鳴り響く。もう若い人の掌の皮膚が薄くなりすぎて生拍手をすると皮膚が爛れるのだ。年季の入った自らの掌の音を骨伝導で聞きながら鯨は自分の回想にケリをつける。そうだ、たとえ文学フリマに参加しなくなったとしても鯨は鯨である。きっと似たり寄ったりの人生を送っていたことだろう。だからこれで良かったのだ。文学フリマという麻薬に浸りきった人生で良かったのだ。拍手が鳴り止む、一般入場が開始される。それにしても、百回以上聞いてもこの開場時の拍手はいいね。胸が安堵感で満たされる。文書データ移送機をやっと直し終わった隣の売り子さんが鯨に声をかける。
「何回目の参加なんれすか?」
 鯨は「だいたい百回だ」と答える。
「すごいれすね」と売り子さんは目をしばたたかせる。
「次回はコミティアと同日れすけど次回も参加されるんれすか」
「もちろん参加する」
 と鯨は言ったあと売り子さんの返事を待たずに語をつないだ。
「何回でも参加してやるさ」
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by suikageiju | 2012-04-22 18:18 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
非公式幻想太宰治事典
 第十四回文学フリマで牟礼鯨は西瓜鯨油社・鯨鳥三日以外にも他サークル発案企画に寄稿をしている。そのひとつはナタリー(イ30)さんの太宰治トリビュート企画『ただ、いっさいは過ぎていく』だ。ナタリーとはあのナタリーではない方、つまりワタリサエコさんのナタリーである。「太宰治」にまつわる、小さなエッセイを寄せてください、と公募していたのであまり太宰治に思い入れがないのに小学校時代のちっぽけな思い出を引っ張り出してエッセイに仕上げ、寄稿した。ポンコツ文豪・太宰治の恩恵を蒙りたいというよりも、ただ単にワタリサエコさんの本が欲しかった、そういう動機からの犯行である。
 次はエンハンブレ企画(D36)さんの『幻想生物事典』である。幻想生物事典といえばJorge Luis BorgesのEl libro de los seres imaginariosという先行イメージがあったのでそれを読み返してからと思ったら読み返さずに寄稿していた。既存の幻獣(この語句は既に矛盾しているけれど具体的には「春西狩獲麟」とか)は誰かがやるだろうから、kafkaesque creatureを新造してそれについて事典風に書こうと試みた。でも、それもやらずに拙著『物語群』を読み返していたら既にkafkaesqueな幻獣が載っていたので彼の生態を後世の古生物学者が文献や化石から考察するという形式で書いた。もう一篇投稿しようかと思ったけれどやめた。
 最後に佐藤(C68)さんから責任編集者として招かれたので、『文学フリマ非公式ガイドブック 小説ガイド』にも参加した。それに関係して、そして関係せずともいろいろなことが起こって刺激的な半年間だった。やはり「何かが起こるといいな」では何も起きない、「何かを起こさなければ」で起こるか起こらないか半々くらいなんだと思う。常に行動的な活動をしていきたいね、お花見日和。
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by suikageiju | 2012-04-08 12:24 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
創作文芸の「上から目線」問題
 最近、創作文芸界隈で「上から目線」という言葉を目にする。この言葉がいつから使われるようになったのか。件の企画の周辺について振り返ってみれば、その言葉を最初に使ったのは鯨である。そして4ヶ月ほど唯一の使用者だったのだが、最近そうではなくなった。


 いずれの発言も、他人の小説や作品をレビューすることを「上から目線」や「上の立場」と表現して否定的にとらえようと努力している様子がうかがえる。この傾向はかねてより鯨が危惧していたことである。

 まず、他人の小説や作品を品評する立場は全て「上から目線」になるとは限らない。そうなると思うのは評者への過大評価である。品評には以下の2つの場合が考えられる。1つには「自分の技量より下の作品を段階的に評価する」、そしてもう1つは「自分の技量より上の作品を畏敬する」、この2つである。前者の品評は「上から目線」であるが、後者の品評は「上から目線」ではない。もし品評が常に「上から目線」だとするならば、それは評者が首位の作家であると認めたということに等しい。そんなことはないだろう。
 ではなぜ品評が「上から目線」だ、などという発想が生まれたのだろうか。全ての品評が「上から目線」になるという考えは「作品の出来は作者の感性に由来する」という神話に基づいているのだろう。比較しえない感性に対して評価することは常に「上から目線」と批判されるべきだと鯨も考えている。文明に優劣はあるが文化に優劣がないことを前提におくと理解しやすい。集団の拠り所となる文化は優劣によって評価しえないのと同じようにその人間の拠り所となる感性も優劣では評価しえない。
 ただ、「作品の出来は作者の感性に由来する」という神話はただのジョークである。「感性が感性に呼応する」という伝承と同じくらい無邪気だ。自分の感性はすばらしいと誰しもが思っている。鯨も思っている。そして他人の感性なんて大したことはないと誰しもが思っている。鯨も思っている。誰も見ず知らずの人の感性なんて気にしやしない。敢えて言えば感性は道ばたに落ちている糞だ。その糞みたいな感性を他人にも受け入れられる作品に化けさせるのが技量であり、文明と文化とで言えば優劣のある文明である。作品が感性そのままだという考えは技量を磨かない怠け者の思考である。品評は糞みたいな感性に対してではなく、その作品に刻まれた技量に対して為される。ゆえに作品の出来は作者の感性ではなく、作者の技量に由来する。
 もし品評が感性に対して為されたのであれば、そんな品評は評者の感性に過ぎない。もちろん「作品」化されれば受け入れられるだろう。だが、それは感性に対する感性であり、すなはち単なる「上から目線」であり、傲慢な行いだ。上に引用した2 tweetsは品評が感性に対して、そして感性によるものという前提でなされたものであろう。これは致し方のない誤りだ。なぜならそういう手段でしか品評したことのない人もいるから。鯨もかつてはそうだった。

 鯨が自分の文章がある程度読めるようなものになったと自認しているのはここ4年の話である。9年前から「鯨は読める文章を書く」とは言われていたけれど、自分ではそう思っていなかった。そしてここ4年に至るまでいくつかの段階を経てようやく今の段階「自分の文章がある程度読める」に達した。その踏み越えた段階はどの程度言葉を操れているか、どの程度事象を操れているか、によって区切られている。鯨はその段階を少しずつ踏み越えてきた。すると「子供叱るな来た道だもの」ではないけれど、他人の文章を読んで自分が経た道の半ばにある文章は「この段階だな」とわかるし、自分よりはるかに進んだ文章についてはただ「すげえな」と思う。鯨は修養をはじめてかれこれ13年だけれど10年選手でもそれらの段階を踏み損ねているなという人はいるし、10年未満でも進んでいるなという人はいる。成長の段階を意識してきた人ならば作品を感性ではなく、技量によって判ずるのは容易いだろう。もちろん無意識に成長の段階を踏み越えた人ならば判じ得ないということもある。すべての人に「段階を踏み越えろ」と言っているわけではない。ただ自分の感性に酔うだけでなく、自分の技量を磨いていくのもいんじゃない? そういうお誘いだ。特に春先は自分の感性に酔いやすくなる季節なので。

 「女性ならではの感性」、「リストカッターならではの感性」、「精神病者ならではの感性」「私ならではの感性」、そういったものを最前線に押し出し、それなりの体裁を施されなかった作品はおしなべて糞である。ただそういった作品をきっかけにして作者への興味は湧くこともある。それが目的ならば、はじめから人間が最前線に出てくればいいだけの話だ。無駄な手間が省けるし、精神衛生上もいい。そうではなく、作者をひっこめて、作品を読んで欲しかったら十数年、数十年の時間をかけて技量を磨くのが一番手っ取り早い。感性は才能でもなんでもない、才能とはひとつのことを長い年月をかけて続けられる鈍感さのことだ。
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by suikageiju | 2012-04-05 06:18 | 自己愛な人 | Trackback | Comments(0)
もし早稲田大学入学式で新歓をしたら
 4月1日は早稲田大学の入学式である。入学式といえばサークルの新入生勧誘イベント、新勧がある。鯨は文学結社「西瓜鯨油社」に新しい売り子を招き寄せるため、早稲田へ新入生を漁りに出かけた。なぜ早稲田か? 鯨の母校が早大であるグランファルーンもそうだが、早稲田大学には早稲田大学教育学部国語国文学会創作部会早稲田大学現代文学会早稲田大学詩人会早稲田大学児童文学研究会早稲田大学創作文芸会ことのは早稲田文学編集室ワセダミステリ・クラブなど文学フリマ参加サークルが多数あり、それらに加入する可能性のある新入生に名前を売るのもいいかと思ったのだ。
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 時間は政治経済学部・法学部・文学部の入学式が終わる頃合いをねらった。記念講堂のある戸山キャンパスから本部キャンパスにいたる商店街のとある電灯に体重を預け、戸山キャンパスから本部キャンパスに流れてくる人に次々に声をかけていこうという算段だ。最初は人通りが少なかったけれど、午前11時をまわることからだんだんと人が増えてきた。第一弾入学式が終わったのだろう。鯨はすれ違う人すれ違う人に「西瓜鯨油社です。売り子やりませんか」「西瓜鯨油社だ。文学やろうぜ」と、右手に名刺を持って声をかけ続けた。「なんだろう、この人は? 」とチラ見してくれる人もあるが、たいていは無視である。ひとり「貴様が鯨か。天誅!」と正義漢気取りに殴られたが、大したケガはしなかった。あきらかに学生ではない男がキャンパス外の公道上で新入生勧誘をしているのだ。怪しまれるのは仕方のないこと。それでも鯨はめげずに声をかけ続けた。
「西瓜鯨油社です」
 ある黒スーツの女子大生が声をかけた鯨の前で足をとめた。スーツを着ているというより着られている様相である。それに、興味があるから足をとめたというより、声をかけられたので驚いて足をとめたような感じだ。
「あ、はい」
 すかさず鯨は名刺を、女子大生の右手に持たせた。
「売り子やりませんか」
 その女子大生は手渡された名刺と鯨の顔とを丹念に見比べ
「売り子って何ですか」
 と細い声で訊いてきた。心の奥底にある言語以前のものをなんとか発話しているような、そんな印象のある女の子だ。
「うちは文学サークルで、自分たちで本をつくってイベントなどで売るんです。売り子というのはそういった本をつくったり、本を売ってくださる人のことです。5月にはイベントが2つあって、夏には福岡遠征とかもする予定です。もし文学に興味があれば、ぜひ。あ、あなたみたいな人が僕の本を売ってくれたらうれしいなと思います」
 ふーんと女の子は鯨の言葉を消化しているようであり、何かを思案しかねているようでもあった。そして返ってきた言葉が
「ちょっと興味あります」
 である。鯨がびっくりだ。
「え、本当ですか」
 などと訊いてしまった。こういう事態に陥ったときにどうすればよいかを考えていなかった。いったい、どうすりゃいいんだろう。
「じゃあ、これから予定とかありますか。あ、ちょうどお昼頃だし何か食べながらお話しましょうか」
「あ、はい」
 それは予定がないということでいいのだろうか。
「じゃあ、こっち来て」
 と鯨は手招きする。女の子はそのあとをついて来る。

「どこか行きたいところある? 」
 と女の子に訊くと
「秋葉原」
 と答えたので
「えっ」
 と鯨は会話の流れを断ち切ってしまった。早稲田のまわりの手近な食堂で今後のことを話そうと思っていたのだが、心づもりがはずれてしまった。もしかしてと思い「東京の子? 」と訊くと「いえ」という返答である。
 なるほど、そういうことか。
「出身は長野県です」

 早稲田駅から東西線、日本橋駅で乗り換えて銀座線に乗り末広町へ。地下鉄の車両で女の子が「メイド喫茶に行きたいです」などと言い出したので、唯一鯨が行ったことのあるシャッツキステに案内することにした。何だかお上りさんの観光案内をしているような気になったが、やはり5日前に上京して中井に居を構えたばかりだという。東京見物はまだ、とのことだ。シャッツキステに到着したときは12時前でまだ開店していなかったので外で待っていたら、メイドさんが開けてくれた。有閑階級メイドに案内されて席につく。席についた女の子、古橋希(決めてもらった筆名)のカップと鯨のカップに紅茶が注がれる。それとサツマイモの黒蜜ほうじ茶タルトを注文した。
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 突然喋り出すメイドさんの話を無視して、ゆったりと西瓜鯨油社のあらましと今までの活動を説明した。その説明内容はここでは割愛させていただく。希はだいたいのことを理解したようだ。そして、鯨が大学生なんかではなく、西瓜鯨油社も大学のサークルではないことも。
「すまんな。騙した形になってしまったみたいで」
 希はこのときはじめて紅茶に口をつけた。
「いえ」
 ちょっと濃かったようで。すぐにカップを置いた。鯨は近くを通りかかったメイドさんにミルクを頼む。
「なんとなくわかっていました。鯨さんは大学生ではないんじゃないかと」
 なら、なんでと訊くのは野暮かな。
「大学生ならこれからたくさん会えるけれど、それ以上の方と会う機会はなかなかないと思ったので」
 希は賢い子だった。
「これからよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 それからは古橋希自身の話を聞いた。長野県飯田市での幼少期、小学生の無邪気な思い出、中学校時代のかなわぬ初恋、高校生のときにつきあいはじめた彼氏との思い出、受験で信州大学に進学した彼氏とは遠距離恋愛になったこと。詳細を語るのを避けようとした希が築く牆壁を、鯨は質問でつきくずし、希はかすかな抵抗ののちに諦め、自ら微細の小道へとゆっくり足を踏み入れていった。ケーキは切り崩されなくなっていく。紅茶は残量が少なくなるころにはメイドさんによって新たに注がれていく。話すうちに希はだんだんと高揚していった、目にはかすかに涙をたたえていた。鯨は熱心に語る希の左手を右手で握った。
「じゃあ、しかるべき所へ行こうか」
 希は話を遮られたことについては文句ひとつ言わず、ただ頬を真っ赤にさせてコクリと首を縦にふった。2人分の会計を済ませ、鯨は希の手を握ったままシャッツキステを出て湯島方面に向かう。ここからだとそんなに距離はない。坂をのぼるとホテル街にたどり着いた。そしてとあるラヴホテルの前で立ち止まる。ちなみに鯨もそこに入ったことはない。
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「入るぞ」
 そう言うと希は無言で頷いた。その一室では為すべき事が為され、行われるべきが行われた。「つけないんですか」と言われても「彼氏がいるんでしょ」と確かめれば「あ、そうでした」と返ってくる。他動詞は的確に目的格を探り出し、掘削機は掘り返すべきを掘り返した。主格は対格にとってかわり、対格は主格になりかわる。すべてが終焉に至り、まずは希が、ついで鯨が眠りに就いた。

 数刻して鯨が目覚めると部屋には誰もいなかった。「希」と呼んでも声は返ってこない。バスルームを見てもトイレを見ても誰も入っていない。どうしてしまったのか。うろうろしていると硝子製のテーブルの上に紙片を見つけた。拾い上げると女の子らしい文字で「4/1」と書かれている。エイプリルフール、どうやらなにもかもが嘘だったようだ。
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by suikageiju | 2012-04-01 17:22 | 掌編 | Trackback | Comments(0)