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絶対移動中vol.14 特集:異界 マヨイトあけて
 文学フリマには「お母ちゃん」と呼ぶべき人が2人いる。兎角毒苺團の伊織さんと絶対移動中の伊藤鳥子さんである。会場入口近くに割り当てられた絶対移動中ブースへ行き、そこでぴょこんと座っている伊藤鳥子さんに
「お母ちゃん」
 と声をかけると、第二展示場1階にバミューダ海域よりももっと静かな海原が広がった。帆のない舟が滑るように航る海だ。無言で差し出された掌に対価としての貨幣を落とし、本を受け取ってブースを離れた。最後まで言葉が交されることがなかった。あのとき鯨が見たのは何だったのだろう。これは伊藤鳥子さんが編集した『絶対移動中vol.14 特集:異界 マヨイトあけて』である。異界モチーフは古代からよく使われている。黄泉、鄭邑の隧道、ウェルギリウスのいる森、不思議の国のアリス、コンゴ川の奥地などなど。さて、今回はどんな異界がたち現れるのだろうか、と期待しながら読んだ。
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「四ページ目の真代子」、宵町めめ
 巻頭作らしい仕掛け。「続いている公園」を視覚つきで見たような、突然あらわれたメビウスの環を一口で食べちゃった感あり。

「まにまに」、加楽幽明
 あちら側はこちらであり、まだそこは夢の中なのだろうか。異界と斯界の境界として丁寧に幾層にも膜をはっていくような感覚を得られたのが良い。足元がふらふらになった。

「外に出ようとする男と女」、涌井学
 外と「外」の指すものは違うけれど、回り回って同じ自立を目指すってこと。そうすると異界であるところの内=「内」をもっと狂気じみて描くと、火災で燃えたあとの場面が反動で聖性を獲得する。

「台所の人」、高橋百三
 そこから先、時間を遡行して観られる景色、その人の脳髄がかつてとらえた記憶はもう他人にとっては異界なのだ。

「鏡子ちゃんに、美しい世界」、伊藤なむあひ
 ここにもう一人、世界図書館の司書を志す者が。鏡子ちゃんという概念の踏み込みが深く夢中で頁をめくった。もちろん最後の電波塔のシーンは「安直な」自殺なんかではなく、リリィ・シュシュのすべてだった。でも、この篇は引用という基盤の上に成り立っているのだから、やはり安直だよ。だってそれは分かる人だけが分かる異界なのだから。

「メイコの世界」、伊藤鳥子
 思弁小説めいていて、予め定められた結末に強いられて落とされた読後感。異界のアルゴリズムは楽しめたけれど、アルゴリズムを見せられなければ、描かれようとした世界を得られただろうか。きゅん

「SIX」、業平心
 将棋の話? だけじゃないと思う。でもよくわからない。読めない。

「マスカレイドスコープ」、秋山真琴
 王道ファンタジーから企業戦士もの、そしてSF小説。そしてそもそもこれは6人の誇大妄想狂が幻視した異界なのね。上手い。

「ヴァニシング・ポイント実験小説」、蜜蜂いづる
 実験小説の実験結果は実験小説そのものだから肝心の実験は執筆段階にあるという事実を鋭く突いてきた作品と言える。実験小説の読者は結果だけ見せられて、肝心の執筆段階は読み手にとっていつまでも異界であり、立ち会えない。

「哲学小説」、有村行人
 異界からのアルファを見つけた夜を思い出した。聖性について考えさせられる。

「暗黒舞踏会」、くりまる
 舞踏と舞踊の違いもわからず、黄泉の舞台へとおりたった感覚を得た。
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by suikageiju | 2013-11-26 08:19 | 感想 | Trackback | Comments(0)
バウンダリー・ドメイン
この敬体まだるっこしいな、と思って読んでいたけれど楽しめた。平行宇宙や過去を改変して地球の危機を救うといったテーマはあまりSF小説を読まない鯨でも陳腐に思える。ただ、文体で救われた感じがあるかな。在水あゆみさんの『バウンダリー・ドメイン』
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日本語の敬体だと太宰治の『人間失格』に引きずられてあの調子になるのだけど、該当作は敬体になることで助動詞一個分だけ間延びして、かつ文体の婉曲さとあいまって話者である少女のまだるっこしい語り口を堪能できるようになっている。未来からのメッセージの語り口との差違も良い対照となっていた。もっと書き慣れると凄い物を出してきそう。
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by suikageiju | 2013-11-24 13:31 | 感想 | Trackback | Comments(0)
ami.me (アミ・メ)
今回、人に請われ短歌を読んで何か書いてみることになった。詩や短歌の感想ってよく分からない。書いたことない。なので、分析的な評っぽいものしか思い付かなかった。そして、本に載っていても詩はよして短歌だけについて書いた。題材は『ami.me』。
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改札を出てから雨にぬれるまで駅はどこから終わるのだろう(吉田恭大)

駅前あるある。改札を出て案内図に迷い、地下街に入ったり、アーケード商店街に入ったり。外は雨のはずなのに、電車から降りて傘もささないのにまだ濡れない。町は雨。そしてコンビニ前を曲がり、アーケードから外れ、民家の建ち並ぶ路地に出て、はじめて髪を湿らす。あ、駅が終わったな、と思う。ところで、ここはどこ?

路地猫を追う君を追わない僕を気にしなくてもいいから、猫を(吉田恭大)

詠み手の視線が猫→君→僕→君→猫と往復するのが面白い。そして焦点は猫のさらに先に飛んでいく。猫のことだから町をこえて、国をこえて、空をこえて行くのだろう。中途で終わらざるをえなかった呼び声は永遠に木霊する。そのことを君も僕も忘れてはいない。

コンビニを辿ってゆけばそれぞれにあかるい歌が聞こえる町だ(吉田恭大)

町田? コンビニに入れば聴こえてくる陽気な歌謡曲。では次のコンビニへ。また聴こえてくるのはオリコン入りした歌謡曲。では次のコンビニへ……、って日の沈む、迷い猫も寄り付かぬ町は寂しいな、おい。この町の見所はコンビニだけかいっ! という声が聴こえてくる、ような。
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by suikageiju | 2013-11-23 20:00 | 感想 | Trackback | Comments(0)
日々是空色
ある人からこの本を手渡された。
「あなたの本ですか?」
 と問うと
「違います。ただ、牟礼さんがこの本を読んでどう思うのか知りたくて」
 なんてことを返す。そういうのいらないんだよね。鯨がこの本を読んでどう思うかなんてどうでもいいじゃん。なになに、自分の感想が正しいのかどうか鯨が書いた感想を読んで確認でもするの? それとも鯨が感想を教えてあげないとこの本を読めないとでも言うの?鯨のブログは文芸同人の答案用紙じゃないんだよ。いい? 鯨はそこらへんを漂う閉塞感兼ブロガーなの。権威も学識もここにありはしないのだよ……。
 という経緯があったので借りたままずっと放置してしまったこの本。綾瀬眞知佳さんの『日々是空色』
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指先のむこう
 いかにも「これ、面白いだろ」ってドヤ顔している小説あるでしょ。融資した五億円でもないのに伏線を無駄に回収したり読み返したら絶対恥ずかしいのに大袈裟なアクションシーンがあったり。それってたぶん娯楽であることが読者を楽しませようという作者自らの意志が何らかの高尚な価値であるかのように勘違いしているんだろうけど、陳腐なだけだよ。「指先でむこう」を読んだ。そう、これだ、これだよ、これ、と読後に思った。こんな小説を読みたかったんだ。淡々と何も起こらず流れる日常のなかでうつろい行く生活とか何気ない会話とか、すれ違う思いとかそういったことを丁寧に描き出す小説。読みたかったものに出会えた感が強い。まず、香澄君の一人称=自分の苗字、に違和感が芽生えたんだけれど、逆にそれが良い違和感となって作品に入り込めて、居酒屋で彼らの隣で座って話を聞きたいと願えた。ただ、ちょっと読みの速度をはやめると筋を追えなくなるので、印象を与える力が薄い、あるいはそうすることに消極的なのかな。そう考えると、まぁ、つまらない。でも逆にそこがただ読むのに向いている。そして鯨はただ読みたいのだ。漢詩の引用も嫌味がなく、作品に広がりを与えている。そして引用のやり口が巧み。

アップルミントスクエア
どうでもいいひとなら、誤解されても気にしない。

 人はなぜ本を読むのだろうか。たぶん性交するためだ。ではなぜ本を書くのだろう。これも性交するためだ。本屋さんへ行けば、どの人の額にも「セックスしたいです」と書かれている。なぜ、本を宣伝する? セックスしたいから。なぜ、本を買う? セックスしたいから。そして、この短篇もそういう小説だと感じた。感じさせられちゃった。お涼さんの小指はきっと次元の異なる世界に、そして宇宙の果てにまだ在るのだろう。
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by suikageiju | 2013-11-23 18:37 | 感想 | Trackback | Comments(0)
樹木たち
この本の作者であるカオスカオスブックスの富永夏海氏はおそろしく背が高い。幼い子供が見上げたらきっと泣いてしまうだろう。
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読んでいると時間がとまったような感覚がある本だ。もちろん読み始めてから読み終わるまでに2時間ほどかかっておりその経過はちゃんと感じていた。体力を消耗するので30分ほどの仮眠を必要としたが、読んでいる時間はちゃんと流れていたと細胞が記憶している。では何の時間が止まっていたのか、それは物語的時間が止まっていた。一続きの物語であっても細切れの三千の掌篇を読んでいるような内容で、透明な篇から透明な篇へ跨げばその度に時間はリセットされて0になるのだから、物語的秒針が進んではまた戻るのを繰り返して、それで「物語的時間の停止」を読み手である鯨に想起させたのだろう。
 この本は装幀の美しい本である。いや複雑な線で彩られ縁取られた本だ。その複雑さに「美しい」という意味を投げかけられたのであればそう呼べるのだろう。そんな美しい装幀と、この本のところどころに鏤められた「乾いたバターに似た鳥の体臭」のような印象的な修辞、そして上記の物語的時間の停止、この3つが重なったのであれば自ずと解は見えてくる。
 この物語は本という形において完成されており、その形のまま止まろうと欲求している。時間をかけて通読され物語として解釈されることを拒否し、部分的で断続的な読みのみを求めている。それでは物語は本を超えて出てきやしない。しかし本という制限下で閉じ込められた物語をいつも新鮮なかたちで読み手に提供できる。そのように物語を封じこんだ本のおとなしさを、鯨は肯定して受容しよう。
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by suikageiju | 2013-11-14 23:30 | 感想 | Trackback | Comments(0)
幻視コレクション
 文学フリマの打ち上げで山内農場かその後の和民かで秋山真琴氏と会ったとき
「『オルカ』おもしろかったですよ。名古屋で言おうと思って、言えなくて……」
 と秋山氏から急に声をかけられたので咄嗟に前々から思っていたことを口に出してしまった。
「"おもしろい"なんてもう聞き飽きましたよ」
 そのあとに「もっと別の言葉を考えてきてください」と言おうと思っただけで言わなかったのか、それとも実際に言ったのかは覚えていない。そのどちらにしても、この『幻視コレクション』を読み終わってそんなふうに秋山氏に言ったことを後悔した。というのはあとがきに「ほんとうに面白い物語を提供したい」と書いてあったからだ。そして幻視コレクションのページにもデカデカと同じ文句が書いてあった。これでは、なんとなくこの本のあとがきや宣伝文句である「ほんとうに面白い物語を提供したい」を踏まえて上記の発言をしたかのように思われてなんとも心外である、そんな話。
 でも「面白い」はもう聞き飽きた。うんざりもしている。もちろん「面白い」は誰にも説明しえないからそうなのだ。説明できるのならそうではなかったのだろう。けれど、少なくとも書く側であるならばその「面白い」を具象として提示したい。
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 この本は強奪した。白状すると寄稿者の一人であり、弊社隣の文学フリマ非公式ガイドブックブースにいた高村暦女史に秋山真琴氏がこれを献本しているのを見てしまい、それが3冊あるのも確認してしまい、高村暦女史が非公式な業務でどこかへ去った隙をみはからって売り子の雪下女傑に
「これ1冊もらっていいよね」
 と声をかけて
「え、どうでしょう」
 と言ったか言わないかのうちに積み上がった本の塔から1冊だけ強奪して自分のファイル・ホルダーの中に放り込んだのだ。つまり、これは今回の文学フリマで唯一非正規ルートで入手した本、ということになる。

Burning with Desie、はるかかなた
 夏の暑さに頭がぼおっとして何だか気持ちが悪い。陽炎のような幻視のために失われた包含関係が見えてこない。
XMS/eXperience Management System、佐多椋
 「駅の反対側」という言葉が持つ意味は多層的でそして深い。《》の連続で目が霞んでくる視覚的効果を読み手に与えようとしていたことも実験的で愉しめた。コード、プログラミング、軋む世界ってか。
たしか、映画でこんな話があった、吉永動機
 何かあったというわけでもないけれど嘔吐感がこみあげる。きゅーと締め上げて、ぷほっと手を離した感じを与えられるのは文章を操ることに匠だからだ。
残った夏、言村律広
 この分量では情報の詰め込み具合が危険水域に達している。200~300枚くらいで読みたい。
invisible faces、高村暦
 疲れていたからだろう、途中で寝てしまって、その後読み直しても最後の謎施設でのやりとりが何だかよくわからなかったけれど、この本がなぜ「ほんとうに面白い物語を提供したい」と謳われているのかがこの一篇を読んでやっとわかった。今さらか、オレはもっとはやい段階で気付いていた、そういう方もいるだろう。まァいいじゃないか誰が一番で誰がはやかったかなんてことは。この本の各篇は謎というか矛盾というか思わせぶりな数節を孕ませておいて、それについてはぼかしたまま終わらせる。あるいは絶対謎が解けないし、矛盾はそのままで、思わせぶりなまま放り出して篇をしめくくらせる。幻視、だからね。そして読み手は投げ出され、あの謎は何だったのだろう、矛盾はなぜ解かれなかったのか、そして思わせぶりはどうしめくくられたのだろうと、本を閉じたあともどうしても考えてしまう。読んだあともなんとなく脳裏にこの本のことが気がかりとして残される。あれはなんだったのだろうか、と。人生にいつまでも染みをつくったまま消えることのない一冊。それがこの本の面白さ、なのだ。
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by suikageiju | 2013-11-12 21:43 | 感想 | Trackback | Comments(0)
マズロウマンション
 思弁小説めいた大理石の冷たさ。著者は犬尾春陽さん。
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 アブラハム・マズローの欲望五段階説は人間の欲望をわかりやすく図式化した点では評価できるが、人間の本質に迫ることはできなかった。愛で満たされているからこそ、自己実現なんてどうでもよくなることもあるのが人間だからだ。
 この小説はそんなマズローの五段階説に基づく五階建て、いや六階建てのマズロウ=マンションとそこに住まう住人たち、そして猫目の伯爵を描く。読んでいて大理石を食んでいるように思ったのは、血の通っていない文体が横たわっていたからだ。落ちる涙も、描かれる感情もなんだか空疎である。恋愛に似て、欲望にみせかけて、なんだか虚無である。まるでチェス盤の上で、ポーンを進ませ、ナイトを跳ばし、ルークで守りを固めて、ビショップを進ませるような感覚を味わう。生身の人物ではなく彫像めいた人格が配置されているようだ。なぜだろうと考える。これではまるで世界観や設定だけを詳細に生き生きと描き、登場人物を毛穴まで描くことを怠った安易なファンタジー小説のようだ。なぜなのか。きっとこうだからだろう。この小説の主人公は階から階へ部屋から部屋へ主観を移動させるウェンディではない、マズロウマンションそのものだからだ。マンション内の住人よりも圧倒的にマンションそのものに存在感があって、それが建築物として機能すると詩に変わる。その堅牢さと脆さを保ったまま。
 大理石の塑像は決して肉と血をえない。でもそれは搏動なくして大理石のまま芸術となる。その事実を愉しもう。ただ、惜しむらく両腕で抱いても冷たいだけだ。
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by suikageiju | 2013-11-12 00:07 | 感想 | Trackback | Comments(0)
『受取拒絶』を古書ビビビさんに納品
 11月9日、下北沢の古書ビビビさんに第十七回文学フリマの新刊『受取拒絶』を納品した。ふりかえればTwitterでのリプライをキッカケにして2010年1月に『コルキータ』と『掌篇集』を納品したのがはじまりだった。それから数ヶ月、数年して文学フリマに関係する作家、サークルが委託をするようになった。下北沢の古書ビビビさんはタコシェ(中野)、模索舎(新宿)、架空ストア(吉祥寺)と並び文芸同人誌の委託を受け付けてくれる店舗として世に定着していると思う。そして、もうすぐ最初の委託から4年になろうとしている。
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 2か月とか半年おきという間隔で訪問する度に売上げ報告をいただいている。誰かが下北沢に脚をはこび、古書ビビビさんを訪れ、牟礼鯨の本を買ってくれることに素直に喜び、そして安心している。いくら西瓜鯨油社が日本社会の知的充実のために活動しているとはいえ、所詮は文芸道楽だ。しかし、古書ビビビさんは限られたスペースで商売をしている。決して慈善事業ではない。だからせっかく販売スペースを貸していただいているのに売上げ実績がないのでは申し訳がない。これは単に古書ビビビさんに申し訳が立たないだけではなく、西瓜鯨油社に売上げ実績がないとなれば他の文芸同人サークルの本も置いてもらえないことにもなりかねないのだ。そうやって鯨の力が足りないことを理由に文芸同人の可能性の芽を潰してしまうことはやりきれない。だからこの記事を読んだ人は休日にでも仕事あがりにでも下北沢まで脚をはこび、古書ビビビへ赴いて『受取拒絶』を買って欲しい。これは西瓜鯨油社の、牟礼鯨のためではない。日本の文芸同人サークル全体のために、そしてあなた自身のために、である。ちなみに文芸結社猫の本も置いてある。

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by suikageiju | 2013-11-11 21:36 | 古書ビビビ | Trackback | Comments(0)
この命をくれてやる。
 「これは、恣意セシル版『悪人』だな」と鯨はつぶやいた。恣意セシルは35℃の低体温である。
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 いつも血みどろなので、恣意セシルの作品を読むときは身構えてから読む。カーリーによって周期的殺人欲求に駆られる男、そしてその幼馴染で恋人の女性が妊娠しているという設定。恣意作品の設定あるいは世界観ってよくよく考えるといつも破綻していると思っているのだけれど、そういう合理性とかってもうどうでもよくなってしまう読書体験。ようは悲惨で、残酷なのだ。とにかく殺人症状に駆られる男はハムスターを握りつぶす。ホームレスを打ち砕く。やはり今回も毒まみれで血みどろだった。恣意セシルは毒をよく物語装置として使う。トキシン作家になる前から恣意セシルはトキシン作家だった。ただ極端すぎる毒の設定は、他人の悲しみに気づけない人間、知らず知らずのうちに弱い毒をはき続ける人間への警告なのだろう。その毒は中途半端ではいけない。破綻して破滅するほど強力な毒でなければならない。そうじゃないとその人間は気づかないから。
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by suikageiju | 2013-11-11 21:12 | 感想 | Trackback | Comments(0)
ニーバー、アイヘイトユウ。
あるいはNiebuhr, I HATE YOU. まず添付資料の「猫少年座談会 山本清風×栗山真太朗」という座談会記事を読んで小岩の話や坂の話に「そうなんだ~」と感心していたら、文芸結社猫のなりたちと牟礼鯨と題された章があり、「彼は年齢不詳です。幼くもありおっさんでもある。」「彼は彼の定めた強度を研ぎすますことによりモテたいという信念なんですよねたぶん」や別の章で「僕、牟礼君とたぶん行動原理とか考えていることはほとんど近いんですけれど、アウトプットされることって真逆なんですよ」と鯨について言及してあった。日本語で戦う作家にとって、牟礼鯨あるいは西瓜鯨油社宣言は2010年代には避けて通れない事項ではある。しかしなぜここで?と思い本著『ニーバー、アイヘイトユウ。』を読んでみたら
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しかしなぜここで?と思い本著『ニーバー、アイヘイトユウ。』を読んでみたらいきなり
川町にクジラが漂着した。

だよ。文学フリマでクジラがでてきたら即牟礼鯨の隠喩ってことだよ。誰でも使っている猫とか犬とは違うんだよ。この時点で弊社ブログ読んでいる人この本必読だよ、思った。
 この小説、最後までクジラことクジラノドンが川町の空を飛んでいて、古事記めいてというか本地垂迹していて、半分くらい神様で。とりあえず八粕真也はアルコール中毒で、ニーバーはラインホルド・ニーバー(1892-1971)、反ユートピアの神学者で、なんだかよくわからなかった。本を閉じたときに「虚無」という二字熟語が目の前をよぎる。あえてこの本に一言付箋に書いてのこすとしたら川町"奇譚"であきたらなくなって栗山・山本ペアは川町神話をつくっちゃったんだね、ってこと。まさか、リニアモーターカーが開通しそうでしない2013年にこんなに酸化してほとんど発酵しちゃったような神話を読まされるとは思わなかったよ、ニガー。ネイバー、アイヘイトユウ!(Neighbors, I HATE YOU!)
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by suikageiju | 2013-11-10 19:29 | 感想 | Trackback | Comments(0)