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スーパー・ファッキン・ドライ
 11月にも一回読んで、その時は「勢いがある」とつぶやいて本を閉じた。山田宗太朗さんによるこの本には「そんな目で見ないでくれ」と表題作「スーパー・ファッキン・ドライ」が収録されている。
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 2度目に読んで、地の文での語りがあまり上手くないのは、きっと精神的に不安定な主人公の一人称で綴られているので、敢えて崩しているのだと推測した。これは微妙な選択で、作品の雰囲気を作るために下手に書くという手法とそれでも読み応えがあるように書くという手法のどちらが正しいかは一概に決めつけられない。ただ、下手に書いても文章を書くことに巧みな人は言葉の選び方で滲み出る味があるもので、そういったものをいささかも感じられない本著はもしかしたら推測が外れて単に書き慣れない作者による若書きなのではという怖れもある。あるいは完全に読み手が欺かれたか。疑心暗鬼な一冊である。

「そんな目で見ないでくれ」
 この掌篇の主題ととらえられる男の焦燥感や執着の表現が、やや唐突でそして乾いた性描写によって薄められて、ぼやけた感じになり、そしてそのまま唐突に終わっている。独特な疾走感のある文体で読み手は置いてけぼりをくらった。
「スーパー・ファッキン・ドライ」
 シンクにビールを垂れ流す盛り上がり場面のすっぽ抜け感に戸惑いを隠せない。小学生である子とその親である麻酔科医との、テストの点数を媒介にした言葉のかけあいが面白い。

 全体を通して感じられたのが「言葉への信頼が弱い」ということ。言葉への不信感が肉としての言葉を盛ってしまう。これを小説に変えるには無駄な言葉を削り、スト―リー或いは場面を増やす必要がある。そして他人の心に土足で入り、何よりも嘘を鍛えること。
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by suikageiju | 2014-01-09 00:39 | 感想 | Trackback | Comments(0)
情報カードでできる24のこと
 21世紀は有閑頭脳労働者がアナログへ還る世紀である。デシタルは肉体労働の道具と見なされる。そんな時代の奔流のなかで見直され使われるのは、文房具店の片隅で埃をかぶっている情報カード群となるだろう。以下、その情報カードでできること24を並べる。元ネタは24 Things You Can Do With an Index Cardだが、そのままではつまらないので見出し以外はほぼ創作である。ここで言う「情報カード」とはコレクトの5×3情報カード補助6ミリ罫のことだ。

1.ToDoリストを作成
 朝、その日のうちに達成すべき幾つかの事項を情報カードに書き並べる。その数は3~5個など少ない方が良い。ポストイットに書くよりも紙の耐久力があり、あとあと残るものなので、おろそかにできず強制力を増してくる。やがてToDoをこなすことが目的化してくる。

続きは……

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by suikageiju | 2014-01-07 23:18 | 情報カード | Trackback | Comments(0)
中上健次が生まれた新宮市春日と聖地巡礼
 2013年12月31日19時のことだ。年が変わる5時間前に青春18切符を渋谷駅で購入した。あと5時間遅かったら買えなかったし、1月1日10時に旅立てなかっただろう。青春18切符を購入したときも、そして1月1日10時に出発したときですらその切符でどこに行くのか決めていなかった。登戸駅に立ったとき、電光掲示板の「立川」という文字と「川崎」という文字を見比べて、はじめて行き先を決めた。中央本線で名古屋まで行き、そこから紀勢本線で紀伊半島をまわって南から大阪に入ると決めたのだ。旅はそうやってなんとなしに始めるものだろう。モビーディックのイシュマエルの冒険もそうやってはじまったのだから。
 雪をかぶった山岳地帯を抜けて大都市名古屋を過ぎる。一日目は四日市で泊まった。二日目は午前6時に四日市を出て丸一日かけて紀伊半島の海沿いを走った。多気や新宮や紀伊田辺や御坊や和歌山といった紀伊半島の諸都市を経て大阪に辿り着いたときには夜の22時になっていた。
 新宮駅では2時間以上も紀伊田辺行きの電車を待った。その間に徐福公園や浮島の森を見て暇をつぶしていると、駅の近くで集合住宅群を見つけた。駅から徒歩3分もしないところに団地なんて珍しいなと思ったのだ。
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 その団地に近づいてみると草っぱらに「中上健次生誕の地とその付近」という看板が立っていた。どうやら駅近くで目に付く集合住宅群のひとつは『千年の愉楽』などの著書を持つ作家、中上健次の生誕地跡に建っていることになる。中上文学の読者である牟礼鯨を中本の血が引き寄せたのだろうか。その看板によれば中上健次作品に出てくる天地の辻や礼如さんとオリュウノオバの家とされるところも近くにあるらしい。つまりそこ新宮市春日は「路地」であるようなのだ。思いがけなく中上文学の「聖地巡礼」を果たしてしまった。
 看板をおしまいまで読んで周りを見渡した。真新しい新宮市人権教育センターが見える。そしてなんてことない町並みだ。若松孝二監督の『千年の愉楽』を新宿で観たけれど映画の中の「路地」をとりまく景色は海のある静かな漁村だった。もちろん新宮市春日地区は中上健次がいた当時から今に至るまでにだいぶ開発が施されているのだろうけれど、海は遠いし地形やら何やら違っていた。ひとり立ち尽くし狐にだまされたような気になった。実際の「路地」の景色よりも映画の中の「路地」の景色の方がイメージに合っていた。何で実際の「路地」を見てしまったのだろうと後悔の念に襲われた。それは映画の中の「路地」を観てしまったときの後悔に似ていた。
 ウルスラの顔をこうだと提示されてしまったら『百年の孤独』のイメージがいくつか損なわれてしまうように、文学作品の場合、所謂「聖地巡礼」はその作品が持つ地理への想像を損なう危険がある。中上健次の「路地」については映画の「路地」の方が良かったし、更に言うなら文字情報だけの「路地」のままにしておきたかった。
 文学作品も分かりやすく伝達するために挿絵がついていたり、メディアミックスで映画化されたり漫画やアニメになったりする。そういったことでその文学作品の知名度が高くなるのは良いことだ。でもそういったことでその文学作品を受容するのに支障を来たすこともありえると考える。そして実際に支障を来たしていて、読み手の側が鈍くなっていて気づいていないだけなのだ。でも映画化や漫画・アニメ化を抗議するのは筋違いだ。だから、本来的に漫画やアニメとして描かれるべきであった小説を除いて、文学作品を受容するときは読み手の側がよくよく注意して選択しなければならない。何の映画を観るべきではないのか、あるいはどこに行くべきではないのか。
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by suikageiju | 2014-01-03 23:19 | 雑記 | Trackback | Comments(0)