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サークル閉鎖。
by 鯨
アレクサンドリア図書館
 全てが台無しになる予感がした。なので、教王(カリフ)から書簡が届いたけれど、開封しなかった。未開封の書簡を携えたまま国境線をまたいだ将軍アムル・ブン・アルアースと彼の四千人の兵卒は、ビザンツ帝国の属州エジプトに野営の陣幕を張った。月明かりの下でアムル将軍が教王からの書簡を開封してみると、その砂で汚れた羊皮紙にはこう書かれていた。

「国境線をまたがずにこの手紙を読んだのであれば、すぐに帰還せよ。されど国境線をまたいでこの手紙を読んだのであれば、あとはアッラーのみが知りたもう!」

 アムル将軍の部隊はエジプトのあちこちに出現してビザンツ帝国の守備部隊を粉砕し、小さな町や城砦を次々に呑み込んでいった。そして上エジプトの首筋である小バビロン要塞を包囲しているときに、ビザンツの皇帝ヘラクレイオスの死が両軍に伝えられた。抵抗する気力をうしなった小バビロン要塞は陥落し、上エジプトに「アッラーは偉大なり」の声が鳴り響いた。アムル将軍は野営の陣幕をたたもうとしたが、ひとつがいの鳩が巣をつくっていたので、その陣幕はそのままにしてアレクサンドリアに向かった。その陣幕(フスタート)はやがて都市の礎となり、やがてその都市はフスタートと呼ばれることになる。

 援軍を含み、二万人にふくれあがったアムル将軍の部隊は海洋都市アレクサンドリアを包囲した。しかしアレクサンドリア総主教キュロスは戦いを挑まず、十字架をせおって降伏した。

 神王(ファラオ)と皇帝(カエサル)の神政がナイル川の堆積物として重なり地層となった両エジプト、よく乳の出る牝牛をアムル将軍はアッラーの帝国に併合した。ルーム人は皆コンスタンティノープルへと逃げ帰り、売国の総主教キュロスが新しいエジプト王を都市の城門の外までうやうやしく迎えた。陰気な聖職者の案内で、アムル将軍はおよそ千年の歴史を持つ都市を、血に飽いた配下の部隊とともに散策した。巨大な文明が軍港都市アレクサンドリアの上に横たわっている。砂漠から這い出てきた征服者たちにとって、自分たちがその都市を操るのだと想像することすら難しかった。

 アムル将軍は海岸で巨大な建造物を発見し、キュロスにそれがなんであるかを尋ねた。キュロスは朴訥に「あれは大図書館である」とアラム語で答えた。通訳の兵士がそれを間延びしたアラビア語に翻訳してアムル将軍に伝えた。灼熱の日差しの下から冷えた建造物の陰に入ったアムル将軍は、埃に覆われ様々な言語で彩られた羊皮紙とパピルス紙、それから楔形文字で飾られた粘土版とが積み重ねられた書架の間を彷徨った。古王国時代から綿々と記録され続けた人口と税収の膨大な数字の蓄積、洪水の頻度と旱魃についての詳細な記述を見つけた。河川文明の蘊蓄と人類の仮説と叡智とが図書館の奥底で横たわり、賢者と愚者の言行録が墓石のように眠っている。ある星辰学者が全ての書物を読もうとしてその半ばで両眼をつぶしたほどの蔵書数を図書館は誇っていた。大図書館は人類の前半生をそっくりそのまま保存していたのである。

 書物はいずれもアラブ人のエジプト統治のために必要な資料であり、この図書館は拡大する帝国を血のかよった肉体と化すための心臓となるはずである。アムル将軍の内面にエジプト王としての自覚が芽生えてきた。百人の司書官に命じてこれらの書物を整理させ、百人の行政官にこのエジプトを統治させる、そんな構想が脳内でまたたいた。しかしアムル将軍にはそれらを自由に没収できる権限はない。戦利品はアッラーに属し、その分配は教王にのみ委ねられている。アムル将軍は図書館の財産の処分を教王に問う使者をムスリムの首府メディナへと派遣した。使者の役目は単なる質問者ではなく、図書館の必要性を訴える代弁者であった。

 二週間後、使者はカリフからの返答が書かれた書簡を携えて大地と天空の境界線から戻ってきた。アムル将軍は、国境線をまたいだあのときとは違い、はやる心をおさえてその書簡を開封した。書簡には初期の簡潔なアラビア文字でこう記されていた。

「もし聖典の教えに反する本があればそれを燃やせ、アッラーへの冒涜であるがゆえに。もし聖典の教えに一致する本があればそれを燃やせ、聖典一冊で事足りるがゆえに。」

 アムルの視界が暗く熔けていった。アムルは蔵書をギザにある三つの巨大な正四角錘の底面に隠すことも考えた。しかし運び手の口を塞ぐことが不可能であると知ると、その無謀な試みを諦めた。アムルはメディナからずっと携えてきた聖典(クルアーン)を手にした。そして大図書館の列柱廊を何度も往復した。自らの手にある軽い羊皮紙の聖典が、この両腕でさえ抱えきれない巨大な知の宝庫に匹敵しうるのだろうか?たかが一冊の書物がアーダムから現在に至る人類の歴史と交換しうるのだろうか?アムルの脳に巣食う疑問は毒蛇のようにとぐろを巻いた。

 アムルは足をとめた。自分の隣では柱の間でアレクサンドロス大王の偶像が擬古的で不快な笑みを浮かべていた。視界がかしいで、絶対的な信仰さえも揺らぐのをアムルは覚えた。そして自分が唯一神教を離れ、多神教に傾きつつあることにアムルは気づいた。万巻の書物か、それともたった一冊の聖典か。茫漠と横たわる大地への旅か、それとも故郷の懐かしい町での暮らしか。多くの女たちを抱くか、それとも一人の女を長く愛するか。広がりか、それとも深さか。そして決意した。アムル将軍は隊長を呼びにやった。癲癇持ちの預言者ムハンマドがカーバの多神教神殿を破壊したのと同じように、アムル将軍はアレクサンドリアの図書館を焼いた。炎の根元で人類の歴史のほぼ半分が消失した。それと同時に人類の迷妄であった多神教の記憶も図書館とともに焼失し、砂漠から吹く熱風が世界を清らかな一者の方角へと向かわしめた。

 それは紀元六四一年、聖遷暦二〇年のことと歴史家アル・バグダーディーは伝えている。
by suikageiju | 2009-09-25 10:36 | 掌編
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