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サークル閉鎖。
by 鯨
期待の新人
 部長が新人の橘君をまた怒鳴りつけている。橘君はどこか抜けたところのある、気のきかない新人君で、金額をしっかり確かめもしないで領収書をお客さんに送付したことがある。仕事にいい加減な態度で臨む、今時の男の子という奴だ。私は彼の世話役だからちょっと大変。それにしても部長はひどい怒りよう。いったい、橘君は何をしでかしたというのだろう。まあ、何をしても不思議ではないな、彼の場合。今、部長は椅子から立ち上がり、橘君のネクタイをつかんでいる。でも橘君は背が高いから、もう四十代後半白髪混じりの部長でも橘君の前に立つと、子供のように見えてなんだか滑稽だな。



 聴こえるのは部長の怒鳴り声ばかりで、橘君はさっきから一言も発していない。ずっとネクタイをつかまれて黙っている。ふと気づくと、立ったまま右足で貧乏ゆすりをしている。立ったまま貧乏ゆすりができることに驚くけれど、もしかしたら部長が怖くて震えているのかもしれない。へえ、結構かわいいところがある。
 お、部長が「こっちに来い」と橘君を一喝、ネクタイをつかんで牽こうとしている。どこに牽いて行くのだろうと思っていると

「ふざけるな」
という甲高い叫び声がフロア中に響いた。フロア中の頭という頭が一斉に部長と橘君を見る。もちろん私も見ている。叫んだのは橘君。部長のネクタイをつかみ、右手を握り締めてつくった拳を何度も部長の後頭部に叩き下ろしている。橘君はかなり上背があるから殴られたら痛いだろうな。部長のオシャレ眼鏡がふっとぶ。そういえば一ヶ月前に十万円で買ったと自慢していたオシャレ眼鏡。部長の顔はさっきまで怒りで紅潮していたのに、今では恐怖で脅えたような目つきになり頭を両手で抱えて打撃から身を守っている。哀れ、五歳の娘がいる一児のパパ。橘君は殴打を三度ほどでやめて、部長の足を払い、部長の体を床に押し倒してその上にまたがり、両手で部長の首をしめた。すごい、一連の動作。学生時代に柔道でもやっていたのかな。
「おまえ、何者だ」
と、橘君は馬乗りになったまま部長に訊いている。なんか、間の抜けた質問だなと思っていたけれど、首をしめられている部長にとってはすべてが必死なのか
「おまえこそ、何者だ」
と訊き返していた。深いな。「おまえは何者か」という深遠なる問いに、部下に馬乗りにされた状況で答えられる上司がこの世にいるのだろうか。残念ながら、この部長は答えられる上司の部類には含まれないようで、無言で足をばたばたさせて橘君のお尻の下で惨めにも、もがいている。
 橘君は自分の胸ポケットからおもむろに黒ボールペンを取り出した。もしかして部長の顔に落書きするの、とときめいた私の期待を裏切って、橘君はそのボールペンを持った右手を高々と上げると振り下ろし、部長の右目に突き刺しした。そしてもう一本、赤ボールペンを胸ポケットから取り出す。偉い。一昨日、私は橘君に「社会人たるもの、黒と赤のボールペンは常に携帯すべし」と注意していたのだ。ちょっと見直した。
 その見所のある新人は赤ボールペンを部長の左目に突き刺していた。部長、哀れ失明、一児のパパ。そして橘君、ゆっくりと立ち上がり、私の前に来る。肩で息をしている。全身汗みどろ。お疲れ様。見るべきものは終わったと判断されたのか、フロア中の頭という頭が目の前の仕事に戻っていた。
「先輩」
と、橘君が私を呼ぶ。橘君のネクタイ、部長が引っ張ったせいで伸びていて、しかも曲がっている。だらしないぞ。私は橘君のネクタイを直してあげる。少し結び目が小さくなっちゃったかな。
「どうしましょう」
そんな橘君の数千回目の「どうしましょう」に私は答える。
「大丈夫、人事部が内々に処理するはずよ。部長にも労災がおりるはず。でも橘君、部長を殺せたはずよね。なんで殺さなかったの」
橘君は驚いたように目を大きく開いて私を見て、そして答える。
「死はとても暗くて何も無くて想像するだけで恐ろしいんです。いくら部長でもそこに追いやるのは、あんまりだと思ったので」
はあ、橘君は優しすぎる。
「でも、あなたはそのくらいの闇と無を何度も部長から与えられたはずよ。その世界に部長を追いやっても誰も責めなかったはず。本当、よく思いとどまったわね。偉いわ。今日一日であなたは随分と成長した。これからの橘君の成長を、私は期待している」
それを聞いて橘君、嬉しそうに顔を綻ばせ、
「ありがとうございます」
とお辞儀する。声は少し涙ぐんでいる。
「ほら、汗びっしょり、顔洗ってきなさい」
お手洗いに向かう橘君を私は呼び止める。汗まみれ、涙まみれで振り返る橘君に親指をたててサムズアップ。それに橘君が満面の笑顔で親指を立てて返すサムズアップ。
 部長が黒ボールペンを力づくで引き抜くのと同時に眼球が眼窩からこぼれ落ちて、痛いのか、床の上でのたうちまわっている。入社三年目の雲居さんが部長からもらうはずだった書類の決済を誰からもらったら良いのかと課長に尋ねている。カタカタカタとキーを叩く音がする。オフィス街の谷間を救急車のサイレンが響き渡る。やがて、それとは違う種類のサイレンの音が混ざりあって不協和音を奏でるフロア、午後三時。
by suikageiju | 2009-11-19 09:48 | 掌編
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