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サークル閉鎖。
by 鯨
憧れの先輩
 僕は部長に怒られている。なぜ怒られているのか、それは分からない。態度がどうのこうの、言葉遣いがどうのこうのと言っているけれど、怒鳴っているから言葉がはっきりしないのだ。それに部長の怒鳴り声とフロアの雑音とが混ざり合う。部長の声に意識を集中しようとするけれど、うまくいかない。僕はどうもこれが苦手だ。聴くべき音も聴かなくていい音もすべて同じように聴こえてしまう。虫眼鏡のように聴きたい音に焦点を合わせられればいいのに。みんなはどうやって聴くべき音を聴いているのだろうか。先輩は、どうやっていますか?



 部長の声が聴きとれないので苛々としてくる。コピー機をとめてくれ、パソコンの冷却装置を止めてくれ、おしゃべりしないでくれ、外の車のエンジンよ、全て止まれ。段々と胸が苦しくなってきた。部長の顔が大きくなってくる。これは悪い兆候だ、こういう時はろくでもないことが起こる。部長の顔が前よりもはるかに膨らんでくる。毛穴とか皺とかがはっきり見えるくらいまで部長の顔が拡大している。もちろん実際の部長の顔の大きさはもとのままなのだろう。これは僕の眼球の問題だ。お医者さまはこの問題を不思議の国のアリス症候群とおっしゃっていた。でも僕は考える。中島敦の名人伝のように、戦闘するために僕の肉体が変化しているのだ、と。部長が椅子から立ち上がり、僕に近づく。部長の巨大な顔が僕の目の前に来て、部長は僕のネクタイをつかむ。巨大な顔が視界一杯に広がる。僕は思わず笑顔をつくってしまう。なぜ自分が笑っているのか、わからない。「何を笑っているのだ」と部長は叫ぶ。そうだ、理由はわかっているじゃないか。笑顔とは相手に犬歯を見せる行為、すなわち僕の肉体が攻撃の態勢を整えたということだ。僕の右足が震えてきた。怖いのか、そうだ、怖いのだ。部長が怖い。こんなに怒鳴る部長が怖い。だから僕の肉体は戦うために全身の筋肉に血流を送っている。それで右足が震えているのだ。これは悪い兆候だ。こういう時、決まって僕は人を殴らざるをえない状況に追い込まれる。中学のときも高校のときもそうだった。僕は人なんて殴りたくなかった。でも肉体が僕に人を殴らせるのだ。止めてください、部長。僕の肉体をけしかけないでください。
「ちょっと来い」
と部長は僕の願いも虚しく、ネクタイをつかんで僕をどこかに牽いていこうとする。ダメです、部長。これ以上は。僕の脳の色が一瞬で青から赤に変わった。そのときから僕の肉体は僕の肉体にのっとられた。
「ふざけるな」
という大声が聞こえて驚いた。僕が叫んでいるのだ。なんて大声を出しているのだ。先輩が見ているじゃないか。僕の左手は部長のネクタイをつかみ、僕の右手は拳を何度も部長の頭に拳を振り下ろしている。何をしているんだ、僕。これじゃあ子供の喧嘩じゃないか。部長の眼鏡が吹っ飛ぶ、そういえば眼鏡が前とは変わっていたような気がする。いつからだろう。ああ、眼鏡なんてどうでもいい。何度、僕の拳が振り下ろされたことだろう。僕は部長を押し倒し、その上にまたがっていた。両手が部長の喉元をおさえている。
「おまえ、何者だ」
と言う声が聴こえる。僕の声だ。なんということを僕は訊いているのだ。この人はおまえの部長だろうが。でも部長は
「おまえこそ、何者だ」
とかすれる声できちんと答えている。部長、律儀すぎます。そんな質問になんて答えなくてもいいのに。僕の右手はボールペンをつかんだ。「やめろー」という叫びはなぜだか口からは発せられなかった。そして振り下ろされる、僕の右手。あーあ。部長の右目に突き刺さっちゃった。なぜ左目ではないのだろう。そして僕の右手はまた違うボールペンを持っている。赤いボールペン、先輩とつながるボールペンを、僕の肉体はどうしようというのか。次の刹那、やっぱり振り下ろし、刺したのは部長の左目。なるほど、だから左目をあけといたのか。そのとき、脳の色が赤から青に変わった。僕の肉体はやっと僕自身に返還された。
 激しく動いたから、息が苦しい。僕は肩で息をして立ち上がる。先輩の方を見る。先輩がこちらを見ている。先輩の前で、こんな恥ずかしいことをしてしまった自分が情けない。でもこんな状況を、こんな僕の失態を処理できるのはこのフロアで先輩だけだ。ゆっくりとたどたどしい足取りで僕は先輩のデスクに近づく。
「先輩」
そう呼んだのは僕自身の声だ。先輩は僕のめちゃくちゃになったネクタイを直してくれた。この優しく器用な手の動き。今まで僕は先輩に何度ネクタイを直してもらったことだろう。小学生の二十分休みのときに名前のない女の子が僕の掛け違えたボタンを直してくれた映像がフラッシュバックした。
「どうしましょう」
今まで僕は先輩に何度こう問いかけたことだろう。そして僕はこれからも先輩にこの質問を訊けるのだろうか。いやだめだな、ちゃんと自分で全部できるようにならないと。そのあと、幾つかの問答が僕と先輩の間を行き来した。この時間を永遠に繰り返していたいと願ったが、それは社会人には適わぬ願いだ。
「ほら、汗びっしょり、顔洗ってきなさい」
と最後に先輩に言われ、僕は言葉の通りにお手洗いに向かう。そんな僕の背中に先輩が
「橘君」
と呼びかける。僕が振り返ると、先輩が満面の笑顔で親指を立ててサムズアップ。ああ、はじめて僕が契約をとってきたときもこんなことをしてもらったような気がする。だから僕も満面の笑顔をつくる。部長の前でつくる笑顔とは別の笑顔。そして親指を立てて、サムズアップ。そして心の中で「先輩、結婚おめでとうございます」
 救急車のサイレンの音に、あきらかに違う種類のサイレンの音が混じりあう。その音が自分の追いやられた立場をもう一度思い起こさせる。フロアから出るとき扉の上にかかった壁時計を見る。永遠に記憶から拭い去られることはないだろう、鮮やかなまでの午後の三時だった。
by suikageiju | 2009-11-24 19:09 | 掌編
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