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サークル閉鎖。
by 鯨
ル・クレジオ「フィクションという探求」
 東京大学本郷キャンパス法文2号館で行われたノーベル賞受賞作家ル・クレジオの講演会を聴きに行った。最初は整理券が青色だったので二番大教室でテレビ映像か、と思ったら立ち見で一番大教室に移動になり生ル・クレジオを見ることができた。以下は講演メモ。
ル・クレジオ「フィクションという探求」_f0208721_20431323.jpg 講演は少し遅れて15時15分ごろから。まずは日本の印象について語った後、育った土地ニースとの矛盾した関係について。地中海世界について語るということは、純粋性への追求ではなく文化の混交についてへのもの。古代ギリシャ、ローマ、ゲルマン、アラブ、イスラーム、トルコ、イギリスなどさまざまな文化の混ざり合ったものとしての地中海文化。同じような文化圏はインド洋にもカリブ海にも日本海にもある。
 次に二重帰属と殖民地のことについて。ル・クレジオの家族は、モーリシャリスで繁栄を誇ったル・クレジオ一族から追放された移民であり、ニースでは彼の家は「閉じ込められた泡」のなかで暮らしていた。面白い表現だ。ル・クレジオ一家が行ったモロッコ旅行でのバスでの一コマやアルジェリア戦争後の病院の撤退の2つが記憶に残る物語だった。モーリシャリスに残ったル・クレジオ一族はその国の独立により世界に離散する。これを彼は「幸運なディアスポラ」と呼んでいた。
 「書くことは断定することではなく、自分への問いかけ」というのが興味深い。ウォーレ・ショインカの作家の仕事への言及「治療薬を提供するかわりに頭痛を提供する」の引用、「作家は解決をもたらさないが、頭痛のタネを持ち出す」「悪の迷宮を解決できる鍵を持っていない」「作家は道徳家ではない、書く以外の仕事はしない」おもしろいな。道徳、教訓を垂れるのが文学ではない。「自分の記憶、他人の記憶をよみがえさせ、幻想を現出させる」それが作家の仕事だ。
 文学形式については省略。
 「野菜の美しさ」という言葉がいい。戦争や歴史や大事件を語ることではなく、日々の生活や料理のレシピについて語るということを集約した言葉。「地上的生存の小さなエピソード」とも。これは私にとっても重大なことだ。第九回文学フリマの新刊原稿を中澤女史に下読みしてもらったところ「後半が死んでいる」と冷酷にも評されたところが戦争部分であり、慌てて書き直さざるをえなかった。男性は歴史の教科書も楽しめるが、女性の視点はそうではない。男女で関心が違うのだ。女性の視点で「野菜の美しさ」を中心に描いていくことを今のところ、私の責務としている。
 そして面白かったのが「作家は意識的に書いていない、無意識に書いている。明確な計画があって書いているわけではない」という言葉。納得できる。意識的な作家は個人的な読者しか獲得できないだろう。断絶と連続についても面白い。一人の作家の別の作品も同世代の別の作家の作品も違う時代の作家の作品も、すべて断絶はなく、連続しているという話。「すべての作家は一冊の共通の本を書いているのだ」これはまさしく世界図書館ではないか。
 そのあとは詩情について。アンリ・ミショーやロートレ・アモン、ランボー。小説に詩情をどうこめるかに気をつけているノーベル賞作家の姿勢に自分の姿が重なった。「ときには断念することもある」そうだよな。
 最後の議題は、映画、日本映画の「雨月物語」について。最初に出会った芸術映画だと。その映画が実存主義や現象学とあいまって、外部を描く表現に影響を与えたとのこと。茅ヶ崎館の怪談。
 最後に質問に答えて終わり。おじさんが発した2012年への質問は意図的に翻訳者が割愛。難しいことを書くためだけに難しく書くビザンツ主義的文体は避けようという、地中海的表現でしめくくる。終わったのは17時過ぎになった。
 特に得るものは無かったが、多くのことを内から引き出された。いつか私も東大で、ソルボンヌで語れる日が来るように努力せねば。
by suikageiju | 2009-11-29 20:41 | 雑記
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