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現代小説を練習する
 大学5年生の冬、就職の決まった牟礼鯨は人生の終わりを予感していた。だから遺書を著わす必要があると思った。それは物語でありたいと願った。現代日本を舞台にして数作品を書こうとしたがいずれの作品も数百字や千数百字で、つまらなさを理由に終わらせるのをやめてしまった。自分で文章に蓋を設定していたのだ。かといって解き放つためというのは他の国を舞台にする必然性として不十分だった。
 そんな時、『掌編集』や『物語群』に収められた「象棋」を書いた。はじめて納得できる水準の作品だった。後世の文学史家のために日付を残しておくとすれば、それを書いたのは2008年2月4日である。高校生のときからあたためてきた仮想世界を舞台にした作品だったが、フランスやアメリカ合衆国を舞台にするよりも必然性があった。なにより「こう書けばいいのだ」と納得しうる水準のものを書く練習をするのに仮想世界はいろいろと都合が良かった。蓋なんて持ち込むだけ莫迦らしいからだ。
 第十三回文学フリマで頒布した『ガリア女』の値段である100円について佐藤氏やこくまろ氏や霜月みつか氏などから指摘があったが、種を明かすと『ガリア女』は日本を舞台にした現代小説(コンテンポラリな意味での)を書くためのétudeに過ぎなかった。だから100円という値段設定しかできなかった。
 確かに『ガリア女』は現代小説の練習のための作品なのだろう。これで憧れだった現代小説を書く人に近づけるというわけだ。しかし『物語群』や『コルキータ』だって2つ前の段落の論法で言えば現代小説のための練習だったはずだ。3年近く練習を重ねた上で更に練習をするというのはいくらなんでも念を入れすぎである。『奇貨おくべからず』などの例も忘れてはならない。だから2つのことを推測する。『ガリア女』が練習作品だというのは一種の衒いに過ぎないのではないのか、或いはすでに鯨が目指すべき現代小説の形があってそれを模索している最中なのではないのか、と。
 いずれにせよ、牟礼鯨についてはこれからも鯨は注目していきたい。
by suikageiju | 2011-12-10 23:07 | 雑記
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