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【朗読工第三回】「市民プールの人魚」
 聖アウグスティヌスの『告白(上)』(服部英次郎訳、岩波文庫)の第六巻第三章に朗読工としては興味深い、有名な文がある。弁論術教師としてミラノに赴いたアウグスティヌスがマニ教からカトリックに改宗するきっかけとなった師、ミラノ司教アンブロシウスの黙読風景について書かれた部分である。
しかしながら、かれが書を読んでいたとき、その眼は紙面の上を馳せ、心は意味をさぐっていたが、声も立てず、舌も動かさなかった(sed cum legebat, oculi ducebantur per paginas et cor intellectum rimabatur, vox autem et lingua quiescebant.)。しばしば、わたしたちがかれのもとにいたとき――だれでもはいって差支えなく、来客を取り次ぐ習わしでなかったので――かれはいつもそのように黙読していて、そうしていないのを見たことは一度もなかった

 アウグスティヌスにとってアンブロシウスの黙読は珍しいものだったのだろう。アンブロシウスがなぜ黙読をしていたかには理由がある。アンブロシウスは多忙で読書に割ける時間が少なく、音読をすると「ここにアンブロシウスあり」と知らせているようなものだ。そうすると人が寄ってきて「今の部分がよくわからなかった」などと質問から入っての議論などがはじまってしまい、たたでさえ少ない読書の時間が削られてしまう。そのため自分の存在を周囲に知られないように黙読をしていた。だがアウグスティヌスは別の理由もあげている。
もっとも、彼の声はしわがれがちであったので、声を大事にすることもまた、そしてその方が黙読のほんとうの理由であったのかもしれない。(quamquam et causa servandae vocis, quae illi facillime obtundebatur, poterat esse iustior tacite legendi.)

 必要にせまられての黙読であったが、黙読をしていたからこそアンブロシウスは「文字は殺し、霊は生かす」(Littera occidit, spiritus autem vivificat)というように、書かれている内容を正確に解釈することができた、あるいはしようとした。朗読・音読は何かを習得するには向いているのかもしれない。だが、朗読によって人は正しい理解を妨げられ、正しい解釈から遠ざけられている。朗読工は文学活動ではない、単なる娯楽と酔狂である。

by suikageiju | 2012-04-30 10:25 | 朗読工
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