文学的存在について銀河系最強が語る
秋山真琴さんが第15回文学フリマで出会った本について語るときに自分の語ることにおいて次の同人誌の感想に行く前に鯨について、文学的存在について語った。
ところで、次の同人誌の感想に行く前に、脈絡なく牟礼鯨さんについて語りたいと思います。あるいは文学的な存在について。秋山にとって、文学というのは、新奇さの別称です。読み手の中には、文学という概念は、非常に古臭く、小難しく、やたら高尚かつ迂遠な表現を多用する、面倒で煩雑な読み物だと判じている方も見受けられますが、秋山の評価は、完全に逆です。実際に読んでみると全然、高尚でない。ときに乱暴だし、ときに適当だし、むしろ、そういうリズムが心地良い。さておき、文学というのは、ある種、禁忌を犯す勢いで、新奇さ、斬新さを追求している領域だなあと考えています。平易な表現をすると、ロック。一応は、上品な言葉で飾っていたり、あるいは飾っていなかったりしますが、本質にあるのは破壊であり、創造であり、それがセックスだとかバイオレンスだとかディスコミュニケーションだとか、まあ、そういう形を装って表現されています。実際、この手の表現は疲弊を伴います。自分で自分を切りつけて、吹き出た血を絵の具代わりにして絵を描くような行為。そういう自傷的な行為を自覚的なり、無自覚的なり取っているひとを、文学的な人と呼んだりしています、なんとなく。自己顕示欲が強く、他者を自分の物語に落とし込まないと納得できず、破滅的で自滅的で、そして何よりも貪欲。そういったひとを見ているとね、諸君、我が家の猫を思い出しますね。猫と一緒に暮らしているのですが、普段は、実にぶっきらぼうなんですよ。撫でてあげようと近づくと逃げるし、抱きかかえると嫌がります。それでいて、こちらが疲れきって布団に倒れこんだときに限って、近づいてきて顔の前で丸くなったり、上に乗っかってきたりするんですよ。この傍迷惑さ、なんとかならないのでしょうか。ツンデレ属性持ちには快感なのかもしれませんが、正直なところ面倒なだけです。

文学的存在は他者としてしか認識できないので、「牟礼鯨」コンテンツは鯨にとって「ありきたりなもの」でしかないし、判断しうる対象ではない。ちなみに現在生存している文学的コンテンツとして鯨が堪能させてもらっているのは森井聖大(何故?)さんである。
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by suikageiju | 2012-11-26 12:55 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
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