土地と文学フリマ
 性風俗と文学フリマの類似に気付かされたのは或る女作家の打ち明け話からだった。それが第何回かは言えないけれど、文学フリマ後の打ち上げで或る文芸サークルの女作家が鯨に近寄ってきた。そして二人で別のところへ行こうと囁く。何かを鯨に打ち明けたそうにしていた。なぜ鯨に?
「鯨さんなら聴いてくれると思ったから」
 と言うので
「鯨であることは何の担保にもならない。ましてや嫌われ者だ」
 と返せば
「嫌われることに無頓着な人は誰も嫌いになれないから」
 と言われて閉口する。集団とは離れた席へその女と移動して話を聴く。どうやら彼女は所謂ソープランドで働いているらしい。その仕事について自分では気持ちの整理がつかないから鯨に文学っぽく解いて欲しいとのこと。莫迦にされているのかと思った。耳を傾けた女の話は支離滅裂で脱線気味だったので要旨をまとめると、そこで働いているときと文学フリマにいるときは同じ感じがして落ち着く、楽しい。平日の職場や実家にいるときはそんなことがないのに、なぜだろう? という疑問である。こちらから答えを出さず相手に質問することで自然と解答へと導くのが鯨の流儀なので、女がふと口にした「しがらみ」に原因があるのではと投げかけると女は分かったような分からないような表情を浮かべ「文フリもそこもしがらみから解放されているってことかぁ」と言い
「彼氏といるときよりも楽しいのは彼氏にしがらみを感じているからかな」
と訊くので鯨は思わず
「え、彼氏いるの?」
と訊き返してしまった。
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 秋葉原が二次元にデフォルメされた性を売買する土地だとすれば、蒲田と平和島・大森海岸は肉体そのものを鬻ぐ土地である。文学フリマの開催地はいずれも性風俗との繋がりが濃い。第一回と第二回が開催された青山も渋谷や原宿に近く、現代女性の性と青山墓地の死が取り巻く地であった。優れた文学作品には死から性を、性から死を呼び起こす力が宿る。文学フリマ事務局による開催地選定にあたり、イベントを単なる書籍の頒布会で終わらせず、イベント会場にいるだけで死と性を同一視する文学的体験ができるよう霊的な決定が為されたことは想像に難くない。イベントそのものが文学作品だった。
 文学フリマと性風俗を同じ視界に入れて霊的な考察を加えた作家と云えば森井聖大である。彼には蒲田のピンサロ嬢を描いた『冬子は、森へ』という作品がある。主人公冬子には実家がない、そして作中人物森井聖大は施設の子である。冬子は「今は蒲田のピンサロ嬢を演じきることがわたし好き」と述懐する。森井御大が描いたのは、世間とは無縁な男女がこれまた世間とは無縁な肉体を貨幣で交換する様である。その取引場所は文学フリマが開催されていた蒲田であった。

冬子は、森へー著・森井聖大

nazehenshubu / パブー


 歓楽街で働く風俗嬢の肉体は、作家から製本されることによって縁切られた書籍と同じように世間とは無縁にさせられている。まず肉体の名は源氏名であり封建的な家の縁から放逐されている。おまけに『冬子は、森へ』の冬子は姓を与えられていない。冬子の肉体は家族や職場との「しがらみ」=関係性から逃れえた第一段落の女作家の肉体と同じように自由で無縁である。このように自分とは徹底的に無縁なモノとしたからこそ、風俗嬢は自分の肉体を貨幣で交換できる。同じ原理で作家は自ら著した小説や物語を製本作業で縁切して書籍に変え、貨幣で交換できる。風俗嬢の肉体も、文学が印刷された書籍も購入者に死と性の実感を与えるだけで世間には何ら貢献しない。しかも貨幣は人と人との縁を断ち切る力を持つから縁切作業は念入りだ。更にそうやって得た貨幣についても確定申告をしなければ徴税システムからも逃れることができる。こんな違法すれすれの無縁取引は公式の市場では起こり得ない。歴史上そんな取引が行われる場所は河原や湊などの低湿地帯となるだろう。
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 創作文芸イベントの開催地はいずれも低湿地で、死と性の匂いが色濃い土地である。本の杜は川崎で催され線路を隔てたところに一大歓楽街の堀之内がある。文傾が開催された味園ビル付近の千日前にはかつて墓地や焼き場がありちょうど味園ビルが建つ土地の西南には灰山があったと云う。また福岡ポエイチが催された冷泉荘は橋を渡ればすぐ九州最大の歓楽街中洲がある。それらのイベント主催者は土地の力を得てイベントを運営してきた。だが第十六回文学フリマの堺市産業振興センターはどうだろう。百舌鳥地方は古墳を建てられるくらい磐石な土地である。しかも行政が介入したのに開発に失敗して見捨てられたような経緯もあり、中百舌鳥の土地から得られる魅力は少ない。そのため事務局および参加サークルは書籍だけで死と性が織り成す文学を体現しなければならない。
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 単に人を集めて書籍を売るだけが文学フリマではない。それ以上の霊的な力を提供できてイベントが文学作品そのものとなってこそ、文学を冠する資格が生じる。堺市産業振興センターを開催地と定める限り大阪文学フリマは長くは続かないだろう。第十六回の次の大阪文学フリマは、是非とも大阪の広大な沖積層のぬかるみの上で開催されることを期待する。
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by suikageiju | 2013-03-06 22:29 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
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