南武枝線
 第十五回文学フリマで新刊として頒布し、第十六回文学フリマで完売した痴漢・ストーカー小説『南武枝線』が電子書籍となってKindleストアにて刊行された。かつて貰った感想などはこちら
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 子供は自分の好きなモノを善とみなし、自分の嫌いなモノを悪とみなす。好嫌の境界と善悪の境界とが一致する度合いが低くなればなるほど、その人は大人になったと云えるだろう。この社会には、自分が好きなのに悪いことが存在して、そして自分が嫌いな善人もいる。自分が嫌いだからといってそれが悪いこととは限らないし、自分が好きだからといってその人が善い人かどうかは分からない。たったそれだけのことが分からない人もいるのだけれど、たったそれだけのことを認めたくない人の純粋さを、鯨は愛したいと思う。
 善悪の境界は、時代の移り変わりや人々の考えの展開によって徐々に変化していく。だからかつては悪い事象と見なされ犯罪とされていても、現代ではそんなに悪くない事象と見なされる例もある。たとえば重婚、自己堕胎、単純賭博、猥褻物頒布、麻薬所持、売春などの「被害者なき犯罪」は従来は犯罪だったけれど、今のこの時代では犯罪ではないものとみなしていこうと云う「非犯罪化」議論の対象となっている。善と悪の間に横たわる境界線はいつも揺らいでいる。このことを短く「善悪は相対的だ」と云う。釘打ちされて固定された絶対的な基準なんてなくて、善と悪の基準はいつも揺れ動いているからだ。
 相対的だから何が善で何が悪なのかについてはその度々に立ち止まって自分の頭で考えなければならない。今までの自分の考えに固執してはいけない、「誰かが言ったから」を理由に自分で考えることを諦めてはいけない、「それは犯罪だから」と考えを停止してもいけない。物語作家がひとつひとつの言葉の前で踏みとどまるように、君はひとつひとつの出来事の前で踏みとどまらなければならない。「悪いことは悪い」ではない、「悪いことはもしかしたら悪くないのかもしれない」。
 この小説『南武枝線』は痴漢やストーカーについて描かれている。痴漢やストーカーは今の時代では悪いこと、少なくとも気持ち悪いことと捉えられる場合の方が多いじゃないだろうか。でも、いつの時代かそれらは「非犯罪化」されて、芸術とか勇気とか人が持つことのできる心の最も美しい部分とか、そういった麗辞とともに語られる「善いこと」になるんじゃないかなと鯨は考えている。確信なんてないけれど、だって、それらは一生懸命に生きようとする人間が見せる一瞬の輝きなのだから。
 この本を読むことで、どうかみじめで報われなかったあなたの人生が輝きますように。

▼『ダイレクト文藝マガジン vol.11
 牟礼鯨の短篇「青姦する女子高生もやがて母」が巻頭に掲載されています。
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by suikageiju | 2013-05-18 11:29 | kindle | Trackback | Comments(0)
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