トニー滝谷と孤独
 服を余り持っていない女の子が好きだ。それはいつも同じ服を着ている自分と同じような女の子が好きだという同属愛の理由からではない。いつもと同じ服を着ていると安心するからという理由でいつも同じ服を着ているように、いつも同じ服を着ている女の子を見ているとなんだかこちらも安心するからだ。ただ、世の女性にとり幸運なことに鯨は服を余り覚えていない。たとえ今日と明日とで同じ服を着ていても違う服だったと記憶するだろうし、昨日と今日が違う服であったとしても同じ服を着ていたと覚えている。服は脱がせるものであって記憶するものではない。
 女性が服を選ぶとき、その服を男性がどのように脱がすのかと想像しながら試着していることだろう。もしそんな想像の楽しみが無ければ、女性は太古より裸身であったことは文化人類学者でなくても聖書学者でなくても容易に推定しうる。けれど女性の服が織り成すパズルは、智慧のある男にしか解けない。

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

村上 春樹 / 文藝春秋


 村上春樹は短篇の作家である。これは氏の長篇より氏の短篇の方が面白いからといった理由によるものではない。言葉の選び方から読み取れる志向が短篇的なのだ。
彼女はまるで遠い世界へと飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように、とても自然にとても優美に服をまとっていた。
「トニー滝谷」p.126

 『レキシントンの幽霊』に収録された「トニー滝谷」という短篇に注目したのは同名の映画をTSUTAYAで借りて観てからである。声、が印象に残る映画であった。実のところその映画を観るまでは村上春樹にそんな話があったかどうかさえ忘れていた。読み返してみると、改行の鍵括弧のない実に静かな小説であった。
 トニー滝谷は「機械の絵」「細部を克明に描くのが好きだった」とある。また美術大学のクラスメイトの描く「思想性のある絵」について「ただ未熟で醜く、不正確なだけだった」と評している。逆に「美術大学の教師たちは彼の描いた絵を見ると苦笑した」とある。
 孤独な人間がそうであるようにトニー滝谷は自分の心に耳目をそばだてない、そして誰かの心にも耳目をそばだてない。ここでの孤独な人間とは一人ぼっちを怖れるような偽物ではない。孤独が当然であり、それ以外の状態を想像することすらできない人間こそが孤独である。だから孤独な人間は「心の傷つき」を訴えはしない。そういう他人との関わりを訴える人間は孤独にはふさわしくない。そもそも本当に孤独な人間は心や感情というものが存在するなんて信じない。だから孤独を怖れることもできない。心や感情は言葉としては確かにあるのだろう、だが、もしそんなものが自分のどこかにあるのとすれば自分という存在がどうなってしまうのか、分からなくなってしまうのだ。
 トニー滝谷が妻と恋に落ちる理由は「娘の着こなし」である。心や感情ではない、「その娘が気持ちよさそうに服を着こなしている様子」を見て恋に落ちるのである。そして妻と結婚し、トニー滝谷の孤独は終わりを告げる。
孤独ではないということは、彼にとっていささか奇妙な状況であった。孤独でなくなったことによって、もう一度孤独になったらどうしようという恐怖につきまとわれることになったからだ。
「トニー滝谷」p.128

 そして妻は過剰なまでに服を買い続ける。服は「毎日二回着替えをしても、全部の服を着こなすのに二年近くかか」るような数になった。一度はトニー滝谷の忠告を受け入れて妻は服を買うのを控えるけれども、やがてまた服に強烈にとらわれて彼女は交通事故で死んでしまう。妻の葬儀の十日後、トニー滝谷は求人広告を出して、妻の体型に近い、妻が遺していった沢山の服を着られるような女性を募集する。やがてぴったりとサイズの合う女性が見つかるが、トニー滝谷は彼女をすぐに解雇してしまう。そして服は古着屋にすべて売り払う。妻の死から二年後にトニー滝谷の父親である滝谷省三郎も死ぬ。彼が遺した「古いジャズ・レコードの膨大なコレクション」も彼は全て売り払う。
 トニー滝谷の妻という存在には中身がない、心も感情もない。トニー滝谷の妻とは単純に服、それも沢山の服に置き換えられる。それは体型の採寸が同じであれば他の女性でも入替え可能な妻の影である。市川準監督の同名映画はその解釈に基づいて配役を決めていた。またトニー滝谷の父親も古いジャズ・レコードによって置き換えが可能な人物である。孤独な人間にとって他人とはそういう物質に置き換え可能な存在だ。他人とは、部屋のどうしようもない空白を物理的に埋めるような物質的存在である。自分に心や感情が存在してはならないように、他人も心や感情で揺れ動く不確かな存在であってはならない。トニー滝谷の描く実際的な絵のように世界は具象だけで成り立っていて、それだけでもうパーフェクトなのだ。それ以外は不要で、孤独なのだ。
レコードの山がすっかり消えてしまうと、トニー滝谷は今度こそ本当にひとりぼっちになった。
「トニー滝谷」p.145

 「同」という漢字の心地よさ。

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ジェネオン エンタテインメント


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by suikageiju | 2013-05-31 06:59 | 感想 | Trackback | Comments(0)
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