文庫フリマ
 『南武枝線』第二版を、下北沢は茶沢通り沿いにある古書ビビビさんに納本した。『受取拒絶』と同じように見本誌に幅広の帯をつけた。
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 ここ数ヶ月、山本清風さんと栗山真太朗さんが古書ビビビさんでの委託をはじめられたようで、扉入ってすぐ正面の平台はセルフパブリッシング系文庫本の祭典「文庫フリマ」めいている。同系統の本が並んで目立つので店長曰く、数が出ている、とのこと。もともとはこの3人に秋山真琴を加えた文庫本小隊を山本清風さんが取りまとめ、「文庫フリマ」という旗印を鯨が提案して、4人で一山あてる積もりだったのだけれど、それはおじゃんになっていた。下北沢で勃興しつつある「文庫フリマ」はその一山の代替物なのかもしれない。
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 山本清風さんは人間の諸相を戯画として描いて饒舌、栗山真太朗さんは人間の上澄みを活写して瑞々しく、そして牟礼鯨は人間の業を嘘をまじえながら肯定して簡潔である。それぞれに特徴があり、それぞれに違う文庫本を楽しめるだろう。また古書ビビビさんへの納本後に湯島へ行ったのだけれど、そこで抱いたのはやはり湯島・御茶ノ水界隈は川崎市東部とともに『南武枝線』『受取拒絶』の舞台であり、鯨にとって文学の宿る地なのだなという感慨だった。それは栗山さんにとっての川町=小岩や山本さんにとっての浦崎=尼崎もそうなのだろう。そしてそれぞれの土地はそれぞれにとり決して故郷ではない。前述のように3人はそれぞれに違うのだけれど、場としての土地と文学についてのこだわりは一様なのかもしれない。

 ただ2人はバンドでベースをやっていたこともあるのだろう、鯨とはちがって恵まれた人間であり、人間であることは同時に欠点ともなって、彼らの文学を鯨は全て手放しで「良いですね」と言うことはできない。陸の人と海の人のようなちがいだ。作品が面白いのかどうかとその文学を受容できるかどうかはまた別の話だ。我々は混同しがちであるが作家の評価と作品の評価は別であるように、作品の文学的価値と面白さは全く別の基準で測られる。もちろん、栗山・山本両文学を手放しに受容しえないと表明するのは単に牟礼鯨文学を規定することでしかない。それは、渋澤怜作品群から推測するに牟礼鯨文学は渋澤怜にとって受容できないだろうから渋澤怜が「牟礼鯨作品はつまらない」と表だって言うことは単に牟礼鯨文学を基準にして渋澤怜文学を規定しているだけに過ぎないという事象と同じだ。
私ってかわいそうとか、俺って孤独とかって
そういうやつ、ごまんといるわけだ
でもさ
開き直っているというか、あきらめているというか、達観しちゃったやつって
憐れすぎてどうしようもないだろ(『受取拒絶』より引用)

そういう憐れなやつのままでいられるか、或いはそうではいられないかで住む世界が、海か陸かが、大きく隔たってしまうのだ。
 でも3人の作品はまず読まれるべきである。自分が含まれていることを考慮しないで言わせていただければ、首都圏で何か日本語で書かれた文学作品に関する企画を練っている人がこの3人のうち1人でも欠かしたままでその企画を押し進めることが文学と知に対する怠惰さの証拠であるように、たとえどんな文学的立場を表明していたとしてもこの3人の作品は読むべきである。文庫本なのだから是非移動中に読んではどうだろう。
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 繰り返しになるが「文庫フリマ in 下北沢」が開催されているのは下北沢は茶沢通り沿いの古書ビビビさんである。
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by suikageiju | 2013-12-02 00:54 | 古書ビビビ | Trackback | Comments(0)
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