文学フリマ非公式ガイドブックは文壇なのか?
 第4版まで編集に関わっていた文学フリマ非公式ガイドブックについて言及したTweetが流れてきた。

 カオスカオスブックスの富永夏海さんのtweetである。富永氏はおもしろい感性で言葉を綴る作家さんだ。ふと、第十八回文学フリマの朝に二階の踊り場で彼女に会ったので「あ、でかい人だ」と挨拶したら「でかくないっ」と言って去ってしまわれたことを思い出した。それはともかく新刊『赤の素描』も言葉選びのセンスといつものことながら装丁が良かった。「読書好き」よりも「本好き」向けの本である。
 上に引用した富永氏のtweetはよく言われる「文学フリマ非公式ガイドブック=文壇」論の一種である。第十七回文学フリマ直後にも同様の意見があった。

 文壇という言葉は本来、文芸界隈くらいの意味しか持たない。しかし、この言葉は《出版社の正社員・編集者》《築地の料亭》《銀座》《祇園》《渡辺淳一》などの事象と結びつくと特権的なイメージを持つ。しかし残念ながら文学フリマ非公式ガイドブックはそのような事象とは繋がりがない、不幸にも。せいぜい《地域広報誌のアルバイト》《新宿の居酒屋「海峡」》《珈琲西武》《森井聖大》くらいだ。なので富永氏のtweetは同じく第十七回文学フリマ直後に発生した「内輪」論と同じような自己愛的な趣旨を持っていると考えられる。つまり文芸界隈にズブズブ浸かっている文学フリマ非公式ガイドブックにとっては定期的な行事なのだ。


 鯨が今回の「文壇」論は「内輪」論と趣旨は同じと考える根拠は富永氏の続きtweetに書いてある。



 実際に富永氏は「内輪」という言葉を使っていることから、おそらく「内輪」という意味で「文壇」という言葉を使ったのだと考えられる。また特権的な「文壇」を嫌いながらも「メジャーな作家さんを読んでトークイベント」なんて「文壇」的な行為をイベントを面白くするための方策として挙げている矛盾も、氏が「文壇」を「内輪」の別名として選んだこと、そしてそれが憤怒の表現として選択された過剰語であるという考えの根拠となる。

 また、富永氏はご自身の作品への評定文を気にされている。そこで新しい『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド2014年春』を開いて読むと富永夏海氏の『アバガス』が掲載されていた。その評定文は以下の通りだ。
山川夜高:とにかく物体価値は最高。執拗な装丁に執拗な文体を貫き通す作品の強い意志に好感を抱いた。だけどその先は? と、どこか疑いが浮んでしまう。手放しには喜べない。
渋澤怜:夢追い系サブカル男女(我々!)が「自分のこと書かれていると思っちゃう系」小説としては一級品。しかし良くも悪くもそれ以上でもそれ以下でもなく毒にも薬にもならないので要注意ね。
高村暦:誰もが作り・消費する時代への食傷。這うように書くハサミの姿は映画で観たい。夢に恋し、夢に行き着く彼女を救うのは「どうでもいいことばかり書く」アンドレ・ブルトンなのでは。

 鯨としては山川さんがそれ言っちゃう?とか高村女史イミフとか渋澤怜だ~鯨はトライポフォビアなんで~怖いよ~(主旨と関係ない)とか色々あるけれど、三者ともある程度作品をよく読み込んで評定文を書いている。そして、どちらかと言えばネガティブな意味も含ませた評定文である。ただ、富永氏が「わたしたちの本をリコメンドしてくださった、その方にはたいへん感謝していて、とても嬉しくおもった。」と書いた伊藤なむあひ氏の推薦文も「文章が気持ち良い」と書いてあるものの山川氏が言及した「その先は?」や小説的展開については言及していない。この「違い」によって、つまり推薦した伊藤なむあひ氏が言及しなかった部分を評定文が補完することで『アバガス』の推薦頁は全体として連携がとれている。なのになぜ富永氏は推薦文については「感謝し」「嬉しくおもっ」て、評定文に「引っかかった」のだろうか?

 頒布された時点で『アバカス』はすでに富永氏から切り離され、読者の手に渡っている。富永氏が「引っかかった」のは、その子離れをまだご自身で受け入れていないからだ。

 評定制度は第4版から始まった。これは推薦文=リコメンドだけではガイドブックたりえないという考え、そしてその作品を推薦しなかった人の評を載せることで『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド』上で複数人の「主観」の「違い」を載せて読みの多様性を表現し『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド』をガイドブックたらしめようという考えに基づいている。
「非公式ガイド」 の名で親しまれる、あるいは嫌われるこの本を、私たちは《主観の提供》という名目で、懲りずにまた差しだそうと思う。私たちが手にすることのできた数少ない物品の中から、主観で選択し、主観で紹介する。それはどうあってもあなたの主観ではなくて、あくまでも彼や彼女の主観、そして私たちや私の主観だ。けれど、その「違い」から、またさらに別の「作品」を作りだせはしないか、というのが、非公式ガイド の問いかけなのだ。――高村暦「文学フリマ非公式ガイドブック第2宣言」

 このような第4版と最新刊の『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド2014年春』での試みは、作家の子離れをうながし、作品を批評によって作家と切り離そうとする企みである。そして、その企みの継続と徹底でしか文学フリマの内輪感や閉塞感の打破はありえないと信じるゆえの行為である。というのはいわゆる「内輪」や「文壇」と揶揄されるような文学フリマの閉塞感は根深く、そのイベントの枠を超越し、19世紀末~20世紀初頭にロマン主義が「物語」に終止符を打って以降、作家と作品を繋げる、ともすれば作家を作品よりも偏重する世界の文学傾向に基づいているからだ。
人が作家になるのは特別な才能があるからではなくて、不幸にして他の仕事ができなかったからであり、孤独な仕事を通じて得られるのは、靴職人が靴を作っていただく報酬と同じであって、それ以上の褒賞や特権を手にするべきではないと考えてきました。「あなた方がおられるので」ガブリエル・ガルシア=マルケス、カラカス、1972年

 このように20世紀後半に故ガルシア=マルケスが忌避した作家偏重の傾向が東洋の島国日本でも、特権的ないわゆる「文壇」を形成した。それは現代でも継続している。

林真理子さん「文壇が崩壊してしまうほどの衝撃」

渡辺淳一さんと30年にわたって交流を続けてきた作家の林真理子さんは「お年を召して大御所になってからもベストセラー作家であり続けるという信じられないような方でした。女性もお酒もおいしいものも大好きで、そういうことがすべて作家としての糧になると信じていたのだと思います。渡辺先生と一緒にいると作家であることの喜びや楽しさを感じることができました。今の私があるのも渡辺先生のおかげで、さみしさでいっぱいです」と渡辺さんの死を悼んでいました。
また、「本が売れず出版業界が大きな試練を迎えているなかでリーダーがいなくなり、とても困ってしまう。1人の作家が亡くなったというだけでは済まされないくらいで、文壇が崩壊してしまうほどの衝撃があります」と声を詰まらせながら話していました。作家の渡辺淳一さん死去

 なぜ作家が死んでも作品が遺るのに文壇が崩壊するのだろうか。知人の死で取り乱している故の言だろうか。それとも、これは作家を偏重していて、個々の作品で価値を判断していない時代の名残りに囚われているからなのだろうか。きっと、渡辺淳一が不老不死でも出版業界の試練は続いただろう。そんな構造的試練に直面している出版業界と同じことを文学フリマという自由な市場でやっても仕方がない。もっと良い方法がある。

 閉塞感を抜け出したいのならとりあえずは「作者の考え」と「読者の考え」が等価であることを認めるべきである。たとえ、作者が考える読み方であっても、他の「読者の考え」と同じ、そして偶然にも最初の読者に選ばれた人の読み方として捉えるべきである。そして不幸にも「文壇」=文芸界隈に属している文学フリマの作家たちが、しかしこの自由市場でいち早く改宗し自己愛的な「作者の考え」偏重を遠ざけるべきである。その先で、作家と作品の幸福な切り離しを図ろう。そうなればやっと作家の名前は責任の所在のみを示すようになる。文学フリマがそこまで到達すれば、この閉塞感に満ちた文芸界隈も今までには無かった形をとって息を吹き返すかも知れない。それは文学フリマというモデルケースに従って、という目を疑うような形で。

 音楽もデザインもアートも、特に音楽とデザインはガルシア=マルケスの言う「靴職人」の「靴」に近い状態になっている。しかし「文学」はまだ「靴」にもなっていない。ただの鞣革、しかも作者の人皮装丁だ。文学が閉塞的であると気付いている富永氏なら、いつか自身の作品の子離れを受け入れる日が来ると信じている。その時、ご自身が作品との間に結んだ「文壇」的な癒着関係から解放されるはずだ。きっと打破できる。それは富永氏にとっての救済となるし、彼女が文学フリマというイベント並びに文芸界隈を導く存在となる第一歩となる。



第十八回文学フリマ当日以降の文学フリマ非公式ガイドブック関連ツイート



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by suikageiju | 2014-05-06 23:11 | 文学フリマ | Trackback | Comments(2)
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Commented by 秋山 at 2014-05-07 10:10 x
アバカスでは?
Commented by suikageiju at 2014-05-07 10:19
アバカスでした。
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