サークル閉鎖。
by 鯨
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ジョアン・フォンクベルタの視覚による悪ふざけ
 さて、今日の勝手にフランス語を訳す企画はLe Mondeの新聞記事、ヨーロッパ写真館で開催されていたジョン・フォンクベルタのカモフラージュ展についての記事の無料で読める部分だけだ。

展示会を訪問して笑い声が鳴り響くのはそうありふれたことではない。ヨーロッパ写真館での、部屋から部屋へと虚構の悪ふざけをぶらつく、抜け目なく笑いをとるスペイン人、ジョン・フォンクベルタの展示会では笑い声にしかめっ面を見せるなんてとんでもないことだ。

地下階にある美術館の丸天井では絶滅種を発見した学者の研究が展示されている。その文書、新聞記事、科学的写真は足取りの真剣さを証明している。ケンタウロス、ユニコーン、グリフォンなどとの強い類似が示されている問題のある動物を除いて、全て。

 ちょっと文の構造が複雑だった。

原文
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by suikageiju | 2014-04-29 08:29 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
アントニの断片
 やっと昨夜、休めた。今夜は「シネマテーク・フランセーズ」から。2014年は1914年からちょうど100年ということで、大阪の書店で大坂の陣特集が組まれるように、欧州の書店では第一次世界大戦特集が組まれている。では鯨は、おまえは(指を差さないで!)レトロニムを排して「世界大戦」と呼ぶその戦いに思いを馳せて何をしているのか?というとセリーヌの『夜の果てへの旅』をちびちび読んでいる。作家がle bout de la nuitを知っているかどうかって大事だ。le bout de~のあとが何だかは構わないけれど、いくらプロットに巧みで言葉の配置がうまくても、le boutを知らないと文章が薄くて透けてしまう。深みがないっていうのもそうだけれど、偽物になってしまう。偽物が十数人集まって本を作っても本物にはならない。でも本物が一人混ざっていれば本物になる。
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1919年、アントニは目立った外傷なく戦争から帰ってきた、しかし彼が体験した恐怖により心理的外傷を負う。彼のケースはラブルース教授、心理的外傷をともなう衝撃の治療に於ける先駆者に非常に興味を持たせた。教授は彼に戦争体験のうちでもっとも激しい瞬間を再現させることを試みる、そこから解放するために。

 つまらなそうな感じが文面から沸き立つ。文章がやや複雑だからだ。もっと単純に説明できたと思う。きっとアントニがどんな戦争体験をしたのか、その核心となる部分がずっと伏せられていて、段々と傍情報から真実が明るみになっていくというミステリー仕立てなのだろう。そう考えると面白そうな気がする。でもこういう謎解きパターンってその謎解きがメインになっていて真実を知ってしまうとたいてい「え、そんなこと」と呆気にとられるケースも多い。これはどちらか。
 それにしても「アントニの断片」、どんな映画なのだろう。
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by suikageiju | 2014-04-12 23:37 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
ケドマ
 こうして「シネマテーク・フランセーズ」を和訳していく企画も3日連続で更新である。明日は絶対に休もう。そういえばこの企画を考えたとき、新潮文庫を思い出した。新潮文庫は文庫ラインナップ紹介文が好きだった。夏の昼下がりにあの短い紹介文を読むのがたまらなく好きだった中学生。
 今回はイスラエルの映画監督Amons Gitaiの作品である。つまりアモス・ギタイ氏。まったく聴いたことがない監督だ。そして題名はKEDMA。たぶんヘブライ語だろうけど意味が分からない。「ケドマ」、聴いたことがない。そもそもイスラエル映画は観ない、鯨が、あるいは日本では。アウシュビッツ収容所などユダヤ人がナチスに虐殺される映画はよく観るのだけれど、それ以後のユダヤ人を撮ったイスラエル映画はあまり観ない。これは鯨個人の趣向なのか、それとも日本人の趣向なのか。
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 とりあえず訳す。
1948年5月。英国の委任統治は終焉したのに、ユダヤ人とアラブ人はパレスティナで交戦している。ある老朽化した貨物船《ケドマ》号は約束の地へ向かって進む、全欧州から来たホロコーストの生存者数百人を載せて。パレスティナの浜辺の上でパルマッハ(ユダヤ人地下部隊)の兵士達は彼らを迎える準備をし、そして英国の兵士達は彼らの上陸を阻止しようとする。

 文法としてはalors que~の「~のに」くらい。1948年5月といえば第一次中東戦争が勃発している。WWⅡに勝利したばかりの英国はパレスティナに於けるユダヤ人国家樹立に前向きではなかった。そのためユダヤ人地下組織による反英武装蜂起や暗殺、内戦などが横行する事態になる。紀元直後のローマ人よろしくユダヤ人統治に手を焼いた英国は1948年5月に委任統治を断念し、「約束の地」の未来を国連に丸投げしてパレスティナから撤退した。そういった歴史を踏まえないとこの映画の紹介文は何のことか分からない。そしてパルマッハは英国が対独戦のために組織したユダヤ人部隊で書かれているようなl'armée clandestin juiveとは意味合いが違う。そんなパルマッハと英国軍。パレスティナの浜辺ではどんな闘争がくりひろげられたのだろうか。
 老朽化した貨物船が載せるホロコーストの生き残り、という叙景が美しい。まるでユダヤ神話に出てくる「ノアの方舟」みたいだ。あるいはオデュッセイアか。「シンドラーのリスト」を観たあとはこれ。それにしてもどんな映画なのだろう。
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by suikageiju | 2014-04-10 23:18 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
 今日も「シネマテーク・フランセーズ」から。二日連続になってしまったけれど、この企画は決して毎日更新ではない。世間はそんなに寛容ではない。今日はフランス語題「VISAGE」という台湾映画。監督はTSAI MING-LIANG、1957年にマレーシアのクチン(猫町)で生まれて、台湾で映像教育を受け台湾で活動している。漢字では蔡明亮と書く。彼の映画を鯨はまったく知らなかったし、観たこともない。
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 それでは訳していこう。
ある台湾の監督はルーヴル美術館でサロメの物語を撮影するよう招かれる。彼は英語もフランス語も知らないにもかかわらず、どうしてもヘロデ王の役を喜劇役者ジャン=ピエール・レオに託したいと固執している。このフィルムにチャンスを与えるため、制作会社はサロメ役を国際的名声のあるトップモデルに委ねる。しかし撮影の冒頭から問題が蓄積し……。


文法としてはbien que~で「にもかかわらず」、それに「il sache」とsavoirの接続法現在形が使われていることくらいか。la productionを主語に据えたときの適訳、そしてquelque chanceの訳に悩んだ。Jean-Pierre Léaudが誰かを知らなかったけれど、フランソワ・トリュフォーやヌーヴェルヴァーグ映画と関わりの深い俳優とのこと。確かに蔡監督は「台湾映画の初期ヌーベルヴァーグ期の10年間に現れた監督」という説明もあった。ということは、ルーブルに招かれた台湾の監督とは蔡明亮本人のことなのだろう。そしてジャン=ピエール・レオは売れない、流行らない、時代遅れの俳優といったイメージがフランス人の中にはあるのだろう。あるいは映画そのものを破壊してしまうような魔力を秘めているのか。いずれにせよ、ジャン=ピエール・レオ起用であいた穴を塞ぐために制作側は世界的トップモデルをサロメ役に据える。でも撮影冒頭から問題が次々と起るのだ。きっと台湾人監督は己の美学を追求するために、採算度外視でサロメの映画撮影を完遂させようとしたのだろう。洗礼者ヨハネの首を本当に斬ってしまったりたりたり。どんな問題が起ったのか気になる。VISAGEは顔の表面という意味。サロメ役のトップモデルの顔と血の気を失った洗礼者ヨハネの顔が大きく、点対称のようにして映される画が思い浮かんだ。いったい、どんな映画なのだろう。
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by suikageiju | 2014-04-09 23:00 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
淑女と髭
 勝手にフランス語を訳す企画をはじめる。手近なところにあるフランス語の文章を読んで勝手に訳し勝手に想像をめぐらす、というものだ。まずは「シネマテーク・フランセーズ」の映画紹介文をやっつけていこう。
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 LA DAME ET LES BARBESという映画の紹介文。邦題は「淑女と髭」だろうか。小津安二郎という映画監督の作品らしい。フランス人も小津作品を観るのか。小津作品といえば「東京物語」などを早稲田松竹で観たことがあるけれど、この作品は観たことがない。さっそく訳してみよう。
キイチはある大学の剣道部の主将で身なりに構わず、特に髭を生やしっぱなしにしている。ある若い娘が彼に剃るようにお願いする。彼は見違えるようにまた美しくなって、大学キャンパスの全ての少女達を魅了するほどである。

 文法的にはsi~que~の呼応表現と代名動詞の多さくらい。なかなか面白そうな内容である。キイチは大学キャンパスの少女達を魅了して、「ある若い娘」がそんなモテモテのキイチに嫉妬して、みたいな展開が想像できる。それで、「ある若い娘」がやっぱり髭面のキイチがいい、みたいなことを言ってキイチはその言葉でハタと我にかえりもとの無精髭のむさぐるしい剣道男に戻って、なんて結末が用意されているのだろうか。現代だと眼鏡姿でパッとしない女の子を男がプロデュースしたらめんこくなって急にモテモテになってしまいプロデュースした男が嫉妬して……、みたいな展開がライトノベル的で王道だろう。
 それにしても「淑女と髭」、どんな映画なのだろう。
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by suikageiju | 2014-04-08 23:43 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
ヤシャル・ケマルがゲジ公園について書いた
Yaşar Kemal, Gezi Parkı üzerine yazdıEdebiyat Haber(トルコ語、文学情報サイト)からの意訳

ヤシャル・ケマルはLa Repubblica紙に、ゲジ公園ではじまったことと全トルコに広まった反抗について書いた。
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「いつも私が声に出して支持しているように世界はひとつの文化庭園である。そこで数千もの花が育ち、全ての花にそれぞれの色と香りがある。私たちの世界はこの千種類もの花々であって、とても美しい。文化はこれらの花ととともに更に美しくなる。しかし一つも花が無いのだとすると、その時には色も香りも世界で果ててしまう。

文化の消滅と同時に、私たちの人間性もまた消滅するのだ。しかし知られる必要がある、そのときに社会の健全さ、能力と正義といったものの耐久力が明らかになるのだと。もし弾圧に遭ったとしたら、そのときは(私たちは)同情心を失い、弱体化して創造性を失うだろう。

人種差別も重篤な病である。財産を失うと憎悪の種子が人々の心の中で育まれ人種差別が生まれる。

そして表現の自由と民主主義に対してつくられた憎悪は、私たちの世代の悲惨な事件のために、大きな役割を演じていて決して許容できない。今日私たちに必要なのは民主主義体制であり、常に非人間的な圧迫とともにあってはならない。

ほんとうの民主主義の秩序を据える必要がある。なぜなら民主主義は必要なものだからで、それが均衡のための要素だからだ。体制もすべての人自身の名誉のもので、そして主要な基本的人権を保護しなければならない。私たちの自尊心、私たちのパンと豊かな私たちの文化を取り戻すことが私たちには急務だ。みな団結し、調和のとれた民主主義のために手と手をとりあって私たちの心、私たちの知性を高めていこう。」

2013年6月5日
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by suikageiju | 2013-09-03 21:31 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
死ぬまで私はノーベル賞候補者のままだろう
Hürriyet紙2006年12月15日からの意訳

作家ヤシャル・ケマル(Yaşar Kemal)は自身がノーベル文学賞候補者になった「最初のトルコ人」であることを明らかにし「1973年からノーベル賞候補者となった。死ぬまで候補者のままだろう」と言った。講演の最後の方で自身に向けて「何のために書くのか」と問いかけ声に出したヤシャル・ケマル、「長年にわたり書かないよう努めた、しかしできなかった。まだ書いている」と話した。
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ヤシャル・ケマルはカドゥキョイ地区のジャッデボスタン文化センターで企画された本祭りの開会式に妻のアイシェ・ババンとともに「名誉賓客」として参加した。
ヤシャル・ケマルは、本や本の著者は以前はもっと興味を示されていたと注意を引き「くだらない社会でわれわれは生きている、そんななか、この社会にいる作家たちの一人として本当に残念に思っている。私は四十冊の本を書いた、四十冊がこの国に何をもたらしたのかはとてもじゃないが分からない」と話した。

ムスタファ・ケマルはそのままだ
ヤシャル・ケマルは講演が終了した後で、聴衆のうちから3人だけに自身への質問の許可を与えた。
「オルハン・パムクが獲得したノーベル文学賞は政治的なものですか、違いますか」と質問されたヤシャル・ケマルは笑いながら「この質問は私にしちゃだめだよ。私はノーベル文学賞候補になった『最初のトルコ人』だ。1973年からずっと候補者で、死ぬまで候補者のままだろう。彼のためにも私にはその質問をしてはならない」と言った。
ヤシャル・ケマルは「政治的反動は私たちを降伏させるだろうか?」といった形式の質問に「私はそう考えていない。何をしてきてもムスタファ・ケマルはそのままだ。最後までそのままだ」というふうに返事をした。
ヤシャル・ケマルが「私は嘘は言わないよ」と口を開いてから出た言葉は次のように進んだ。「もう一度、社会に出るならトラクター運転手になったろうね。なぜなら私は若い頃にトラクター運転手をやっていて人生でもっとも幸福な時代はその頃だったからだ」
シュメール学者のMuazzez İlmiye Çığも参加した開会式でカドゥキョイ地区長Selami Öztürkはヤシャル・ケマルに金属の盾を贈った。
Öztürk地区長は盾を授与する際に「結婚式も私は惜しまないだろう」と言ってヤシャル・ケマルの妻アイシェ・ババンを来客たちに紹介した。ジャッデボスタン文化センターは12月17日まで続く本祭りでいろいろな種類の随筆やパネルや署名を用意する。
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by suikageiju | 2013-09-01 22:53 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
サンフランシスコの天気
 曇り空の午後、イタリア人の肉屋がとても年老いた婦人に肉1听を売る。でもそんな年とった婦人が肉1听をいったい何に使うんだろうね。
 彼女はそんな大量の肉には見合わないお年寄りだった。たぶん彼女はその肉を蜂の巣箱へやるのだろう。500匹もの蜂が家で肉を待っていて、その蜂たちの体はきっと蜂蜜でべとべとだ。
「今日はどの肉にしますか」と肉屋は訊いた。
「いい挽肉があるんすよ。赤身の肉でね」
「知らないね」と彼女は言う。「挽肉はいらないね」
「ああ、赤身ですよ。俺が挽いたんだ。赤身をいっぱい使ってる」
「挽肉はよろしくないねえ」と彼女は言う。
「ああ」と肉屋は言う。「今日は挽肉にもってこいの日だよ。外を見てみな。曇ってる。雲の中には雨を含んでいる奴もいるだろうな。俺だったら挽肉だね」と彼は言う。
「いいや」と彼女は言った。「挽肉はいらないね。それに雨は降らないんじゃないかな。すぐにお日様が出てきて、晴れ渡るだろうね。だから肝臓を1听頂戴な」
肉屋は鼻白んだ。彼は老婆に肝臓なんて売りたくないんだ。老婆に肝臓を売るってことは何だか彼をしょげさせる。彼はもう彼女に何も言いたくなくなった。
 彼は嫌々ながらも、大きな赤い肉の塊から1听の肝臓を切り分けて、それを白い紙で包み、茶色の袋にいれた。それは不快な経験なんだ。
 彼はお金を受け取って、老婆にお釣りを返すと、家禽肉の棚に戻って、しょげた心を和らげる。
 船の帆のような骨を張って、老婆は通りに出た。彼女は勾配の急な丘のふもとまで、勝ち誇ったように肝臓を運んだよ。
 彼女は丘を登ったんだけれど、とても老いていたから、けっこうきつかった。疲れるから頂きにたどり着くまでに何度も小休止をとったよ。
 丘の頂きには老婆の家がある。曇り空を映す張り出し窓のある、のっぽなサンフランシスコ風の家だ。
 彼女は小さな秋の野原のような鞄をあけて、老いた林檎樹の落ち小枝のそばに家の鍵を見つける。
 彼女は扉をあけた。扉は愛しくて信頼できる友達だ。彼女は扉に会釈すると家に入り、長い廊下を抜けて、蜂の飛び交う部屋に入った。
 部屋のいたるところに蜂がいた。椅子の上に蜂。彼女の死んだ両親の写真の上に蜂。カーテンの上に蜂。1930年代の曲を流していた古ぼけたラヂオの上に蜂。櫛と刷毛の上に蜂。
 蜂たちは彼女のところに飛んできて、彼女のまわりを愛情たっぷりに飛びまわる。彼女は肝臓を取り出すとそれを曇った銀皿の上におく。すぐに皿の上は晴れ渡った。


The Weather in San Francisco, 作:リチャード・ブローティガン, 訳:牟礼鯨
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by suikageiju | 2010-03-19 16:51 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
美しいオフィス
 最初にそこを通ったとき、それはデスクとタイプライターとファイル棚と鳴り響く電話のある普通のオフィスだった。6人のOLがそこにはいて、アメリカ中にいる他の幾百万のOLたちと見分けがつかなかったし、誰一人としてかわいくなかった。
 オフィスにいる男はみんな中年で彼らは、若い頃にかっこよかったり、青年時代に何か活発だったりというような様子を見せなかった。名前を覚えられないくらい彼らはよく似ていた。
 彼らはオフィスでしなくちゃいけないことをしていた。窓にも扉にもそのオフィスが何のオフィスなのかを説明するものはなかったし、そこの人が何をしているのか僕は知らなかった。たぶん別の土地にある大企業の支店だったのだろう。
 その人たちは自分が何をすべきかを知っていたから、僕は仕事の往復で一日2回その前を通過しながら、そのままにしておいた。
 1年くらいたってもそのオフィスはそのままだった。人は変わらなかったし、決まった量の仕事をしていた。それは宇宙の中にあるほんのちっぽけな空間にすぎなかった。
 ある日、道中にそのオフィスの前を通過すると、そこで働いていた平凡なOLはすべていなくなっていた、消滅した、まるで空気そのものが彼女たちに新しい職を与えたかのように。
 オフィスには彼女達の痕跡さえなく、彼女たちの後釜にはとってもかわいい6人のOLがいた。ブロンドちゃんやブルネットちゃんとかいろいろで、いろんなかわいい顔といい体をしていて、魅力的な女らしさがあって、体にぴったり合ったスーツを着ていた。
 親しみのある大きなおっぱいに気持ちのいい小さなおっぱい、そして誘惑されてしまうお尻たち。そのオフィスのなかで僕が見た全ての場所に、女の形で現れた心地よいものがあった。
 何があったんだ?他の女性はどこに行ったんだ?この女性たちはどこから来たんだ?彼女たちはサンフランシスコにまだ慣れていなさそうだ。これは誰のアイデアなんだ?これはフランケンシュタインの究極の意図なのか?ああ、僕たちは誤解していたんだ。
 1年たって、週5日そこの前を通り過ぎて夢中で窓の中を見て、これらのかわいらしい肉体がそこでしていることを何でも理解しようとした。
 僕は思う。誰が社長か、どの男が社長か、は知らないが、社長の妻が死んでこれは長年の単調さへの復讐なのだ、これでとんとんなのだ。あるいは夕刻にテレビを観るのに飽きただけだ。
 長いブロンドの女の子が電話に答えている。かわいいブルネットちゃんが何かをファイル棚にしまった。完璧な歯並びをしたチアリーダーっぽい娘は何かを消している。ちっちゃいけれどおっぱいの大きなミステリアスな女の子はタイプライターに紙を巻いている。完璧な口をして大きなお尻を持つ背の高い女の子は封筒に切手を捺している。
 美しいオフィス。


The Pretty Office, 作:リチャード・ブローティガン, 訳:牟礼鯨
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by suikageiju | 2010-03-18 19:57 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
35ミリフィルム無限供給
 どうして彼が彼女と一緒にいるのか、他の人にはわからない。彼らには理解できないよ。彼はかっこ良くて、彼女は不細工だ。「彼は彼女の中に何を見ているんだ?」彼らは自身に尋ね、お互いに訊き合う。彼らはそれが料理ではないことを知っている、というのは彼女は料理が下手だからだ。彼女ができるたった一つの料理と云えば中途半端な出来のミートローフ。彼女はそれを毎週火曜日の晩に作るから、彼の水曜日のお昼はいつもミートローフのサンドウィッチだ。彼らは友だちが離婚しても一緒にいる。
 答えへの足がかりは、よくありがちなことだが、2人が愛を交わすベッドの上にある。彼女が映画館になって、彼はそこでポルノ映画を観るんだ。彼女の肉体は生きている映画館にある座席のやわらかなる並びで、それは彼が姦りたい女どもと一瞬の水銀映画のように交わるために用意された想像力の生温かいスクリーンである膣へと導く。だけど彼女はそんなことは知らない。
 彼女が知っていることは彼をとっても愛していることと彼がいつも悦ばせてくれていい気持ちにさせることだけ。彼の仕事が5時あがりなので、4時になると彼女は興奮してくるんだ。
 彼は彼女の内側で何百もの違う女どもと交わってきた。彼に触れ、彼のことを考えるだけの満足した映画館のようにそこに横たわって、彼女は彼の夢をかなえてくれる。
 「彼は彼女の中に何を見ているんだ?」人々は自身に尋ね、お互いに訊き合う。彼らは知るべきだよ。答えはとっても簡単。すべては彼の頭の中にある。


The Unlimited Supply of 35 Millimeter Film, 作:リチャード・ブローティガン, 訳:牟礼鯨
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by suikageiju | 2010-03-18 19:51 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)