カテゴリ:雑記( 117 )
先従隗始
 事を始めるならまず給料払え。

 経営者の好きな故事成語に「先従隗始」がある。書き下すと「先ず隗より始めよ」である。辞書的な意味は「遠大な事をするには,手近なことから始めよ。転じて,事を始めるには,まず自分自身が着手せよ。」(大辞林)だ。
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 自己啓発ビジネスの世界ではこの「隗より始めよ」という成語は「ものごとを始めるとき、自分の考えどおりの行動を部下に求めるのであれば、まず自分から率先して着手しなさいということです。」(故事百選)という教訓とともに語られることが多い。
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 また、この「隗より始めよ」は「率先垂範」(日系BizGate)という言葉とともにも語られる。悪名高き『職場の教養』にも以下のように書かれている。
この言葉は、「大きな事業を始めるには、まず手近なことから手をつけよ」という意味の他に、「事を始める時には、まず言い出した人から実行せよ」という意味のたとえとしても使われています。(『職場の教養』2014年7月14日分)

 自分の勤務している会社の社長が朝礼などでこの「隗より始めよ」という言葉を使い「さあ俺の背中を見るんだ」と一人悦に入っているようだったら、目を背けるだけではいけない。文学の出番である。文学は言葉の前で踏みとどまることを怠った者を揶揄できる力を持つ。

 まず「隗より始めよ」を「手近なことから」「率先垂範」という意味で使うことは決して誤用ではない。慣用された使い方なので正しい。
 しかし創業者型のワンマン社長が「隗より始めよ」をのたまい“大事業”とやらに自ら着手して、社長命令で一般社員をその“大事業”に引き込み、通常業務をずたずたに切り裂き社内をゴタゴタにして、社員は残業に残業を重ね、その上36協定で残業代は定額だとかフザケたことをぬかし出したら、文学的態度を以てこう言ってあげるべきである。

「社長のおっしゃっていた『隗より始めよ』、実は裏があるんですよ」

 この故事成語「先従隗始」は、昔から人気で『戦国策』「燕策」に由来するのだけれど、『十八史略』にも引用されている。機転の効いた弁舌であることも理由のひとつだが、樂毅を描く上でどうしても欠かせないエピソードだからでもある。
燕昭王收破燕後即位燕昭王收破燕後即位,卑身厚幣,以招賢者,欲將以報讎。故往見郭隈先生曰:「齊因孤國之亂,而襲破燕。孤極知燕小力少,不足以報。然得賢士與共國,以雪先王之恥,孤之愿也。敢問以國報讎者奈何?」郭隈先生對曰:「帝者與師處,王者與友處,霸者與臣處,亡國與役處。詘指而事者,北面而受學,則百己者至。先趨而後息,先問而後嘿,則什己者至。人趨己趨,則若己者至。馮幾據杖,眄視指使,則廝役之人至。若恣睢奮擊,呴籍叱哆咄,則徒隸之人至矣。此古服道致士之法也。王誠博選國中之賢者,而朝其門下,天下聞王朝其賢臣,天下之士必趨於燕矣。」昭王曰:「寡人將誰朝而可?」郭隗先生曰:「臣聞古之君人,有以千金求千里馬者,三年不能得。涓人言於君曰:『請求之。』君遣之。三月得千里馬,馬已死。買其首五百金,反以報君。君大怒曰:『所求者生馬,安事死馬而捐五百金?』涓人對曰:『死馬且買之五百金,況生馬乎?天下必以王為能市馬,馬今至矣。』於是不能期年,千里之馬至者三。今王誠欲致士,先從隗始;隗且見事,況賢於隗者乎?豈遠千里哉?於是昭王為隗筑宮而師之」


(あらまし)即位したばかりの燕昭王、自分の燕国をめちゃくちゃにした斉国へ復讐するため、郭隗にどんな人材を登用すべきか訊いたところ、郭隗は故事を引いた。昔の君主に千金で千里馬を求める人がいました。雑役夫(涓人)に金を持たせたところ、死んだ馬の首を五百金で買ってきます。その君主は激怒。すると雑役夫は「死んだ馬に五百金を出すなら、生きた馬ならどれくらい高値で買ってくれることだろう、と多くの良馬が集まりますよ」と返しました。案の上すぐに千里馬が三頭集まったのです。この故事のように王様がもし人材を求めるならまずこの郭隗を重用してください。そうすれば郭隗より賢い人材は千里を遠いとも思わず集まるでしょう。それを聞いた昭王は郭隗のために家を築いた。すると噂を聞きつけた名将・樂毅らが諸国から燕国へ仕官を希望して訪れ、彼らの功績により宿敵・斉国を滅亡寸前にまで追い込むことに成功する。

 これが故事成語「先従隗始」のあらましである。「手近なことから」も正しいし「率先垂範」も正しい。でもそれだけだと郭隗にも燕昭王にも足りない。では何が足りないのか? 手近なことから、率先垂範して、何をすべきとこの故事成語は教えてくれるのか? それは給料である。社員への給料を手厚くすることである。社員に見せるのはがんばっている社長の背中なんかじゃない。そんなのどうでもいい。社員が見たいのは横にしても立つくらい分厚い給料袋なのだ。

「だから社長、給料泥棒であるこの私のボーナスをアップすることからまず始めましょう。隗より始めよ、です」
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by suikageiju | 2014-07-11 21:05 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
謝罪文
 牟礼鯨は謝罪する。2009年に牟礼鯨と名乗り文学活動をはじめて以降、牟礼鯨は多くの人を対面で、SNSで、webで、文書で言葉により「傷」つけてきた。未だにその「傷」を抱えている人がいるだろう。その「傷」によりなお牟礼鯨を怨んでいる人もいることだろう。時はその「傷」を癒さない、言い訳はなんて許されない、許してくれなんて言わない。許されるだなんて思わない。しかし、だから、牟礼鯨はここに謝罪する。牟礼鯨が「傷」つけてきた人たちよ、申し訳なかったと。
 「傷」ついた人のうち多くは小説を書いて同人誌即売会で本を売っている人だろう。ある程度のまとまった文章を発表しているなら、その文章を読めば書いた人の弱点が心のどこにあるのかを把握できる。小説をたしなみ程度でもやっている人なら誰でもできるこの力を不用意に行使してしまった。自分もまとまった文章を公表しているからおあいこでしょ、という勝手な理屈で多くの人を「傷」つけてきた。ムルソーばりに社会のコードを読めていなかった。文章を書く人の間ではそれはやってはいけない禁忌だったらしい。なぜなら牟礼鯨以外にそんなことを楽しんでいる人はいないから。その証拠に牟礼鯨は「傷」つけられたことがない。こんなにも周囲の人は優しさに溢れていたのに、牟礼鯨はまるで玩具を与えられたばかりの子供のように「傷」つけ遊戯を楽しんでしまった。だから謝罪する。
 解釈優位のこの社会だ。された方が「傷」つけばセクハラとなる社会だ。読む人が有害だと言ったら児童ポルノとなる社会だ。悪気がなかった、そんなつもりじゃなかった、は許されない。だから謝罪する。「傷」つけたのは牟礼鯨だと、主張する。解釈優位の社会だからって、解釈者に自分を「傷」つける権利なんて与えない。あなたに自分勝手に自分で自分を「傷」つける力があるなんて認めない。あなたを「傷」つけたのは牟礼鯨。だから謝罪する。
 いいか、よく読め。おまえを「傷」つけたのはこの牟礼鯨だ、分かったな? 謝罪する。何度も謝罪する。ごめんなさい。よく覚えておけ。
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by suikageiju | 2014-07-02 01:05 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
卒塔婆百夜
 化野の卒塔婆語りの夜はふけて水子も踊る日境越えよ。さて兎角毒苺團女主人伊織さんよりこの企画へと招かれたのはいつであったのか。「それは確か」と振り返ること第十八回文学フリマ。訪れたブース、「鯨さんもどうですか?」そう訊かれ不覚にも見下したるは超巨乳。乳のデカさは心の寛さ。そんなこと、知ってか知らずか「やりましょう」返事したのが運の尽き。ここにこうして怖い話を書く羽目に。子供のころに流行っていた怪談話思い出す。夜の学校、トイレの花子、ハニワ太郎に風呂場の影と、トイレに行けぬ夜を重ね、怖い話は葬りましたよあの丘に。
 ひと様を怖がらすより楽します、そう心がけ生きてきた。だから怖さの心理解析おぼつかず。見よう見まねで書き出した。怖いのか怖くないのか分からずも、夜めいた想像力は何物も恐怖へ変える効能があり。カタカタと揺れるPC、鳴る鍵盤の子守歌。
 この企画、百夜続くと人は言う。百夜目は大阪の文学フリマにあたるという。さて最終夜どうなりますかお楽しみ。

卒塔婆Carnival
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by suikageiju | 2014-06-21 23:59 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
三文会
 目覚まし時計を使わず午前5時に起きた。ぼんやりとした頭をかかえて小田急線と大江戸線に揺られ東京大学本郷キャンパス正門前の喫茶店モンテベルデへ赴き、三文会という朝会に参加した。午前7時半の開店直後に3~4人が集い、午前7時50分に会がはじまったときには9人、途中で来られた方を含めて11人の前で、「文学を手段として少女とつきあう方法」と題して個人文芸について、文学フリマについて、福岡ポエイチや本の杜やText Revolutionsや密林社について、プロットについて、小説と物語について1時間強話した。
三文会への参加ははじめてです。2013年9月28日に千駄木のカフェ・ブーサンゴで隣席に座っていた吉立さんと知り合い、第十八回文学フリマで彼と再会したことでこの会に招かれました。あるいは勝手にそうだと考えています。

 と三文会のブログで書いたように三文会への参加は全くはじめてだ。よくは知らない、そして同じ経験と知識を共有しない人の前で話すのはとても緊張する。それは内輪の会合などでは得られない感覚だ。でも福岡ポエイチで会った森井さんが福岡ポエトリーでのオープンマイクの経験を根拠に「人前で話すことで自分に緊張と試練を与えるのは大事だ」みたいなことを言っていたので、その言葉を守り札として緊張を楽しめた。そして勉強になった。参加者のうち文学フリマを知っている人は11人中5人、そして半分くらいが東大理系の学生さんだった。
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 まず一分間スピーチということで「もしあなたが25歳男性で童貞だとしたら、女の子とつき合うためにどのような戦略をたてるか?」というテーマで参加者に話してもらった。身だしなみや誘うために店を調べるといった戦術論、本当につき合いたいのか、つきあってどうなるのかを考える、あきらめる。自我を捨てる、文学作品を読みロマンチックな言葉を習得する、自分に自信をつける。所属するコミュニティを変えるなどの意見が出たなかで女性からの「逆に25歳童貞はアピールになる」という意見は勉強になった人も多いと思う。鯨も勉強させていただいた。あとで聴いたら25歳で童貞だった男性と結婚された女性もいた。この世界に希望を持てた。
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 それからはA3資料と西瓜鯨油社宣言をまわして下のスライドを流しながら話していった。
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 過去動画を見ると結構頻繁に質問が出ていたのだけれど、今回は少なかった。やや早口で話したこと、60分の発表なのに読込みが甘くスライドを約60枚も用意したこと、そしてテーマを詰め込み過ぎたことが原因だろう。実はこの話をいただいたのは6月2日であり、6月11日まで9日間。そのうち3日間は福岡ポエイチに費やしたので実質6日しか準備期間がなかった。しかしそれは言い訳にはならないので今回の経験を次に生かしたい。内容よりも、言葉を区切ってゆっくり話すの大事。
 この三文会のように、イベントの宣伝とか内輪向けだけではなく、個人文芸作家たちが文学フリマなどイベントの枠を越えて話す機会が増えれば良いと思う。朝食のお膳もおいしかった。
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過去動画
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by suikageiju | 2014-06-11 11:39 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
町中の当代詩人
 町中をぶらぶら歩いているときに強烈に惹きつけられた言葉群を「当代詩」と呼び、それを編み出した詩人を「当代詩人」と呼んで紹介する。現代詩ではない理由はお察し下さい。

笑顔で譲り合ひ smaill and HAPPY
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(世田谷区宮坂) 梶山と名乗る当代詩人の作品。「顔」や「譲り合ひ」という旧字旧仮名と小文字大文字が混在した英文とがよく調和している。「smaill」は「smile」のことだろうか。学校英語が泣いている。なんとなく終戦直後の匂いもある。駐車場御利用申込受付の上にこんなハイセンス標語を掲げる地主・梶山氏は何者なのか? 現在鋭意調査中である。

汚文字漢字多数案内ですが色々困ってして一緒に働きましょう。
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(渋谷区神山町) 渋谷Bunkamuraから代々木公園の方へ伸びる道沿いにあるコンビニエンスストア・ローソンの求人広告。たぶん店長が漢字圏出身のバイト君こと当代詩人に書かせたのだろう謎文句が並ぶ。「汚文字漢字」の「汚」が「文字漢字」を修飾しているとしたら「文字」とは何を指すのか、興味深い。そして一番上の「求人深夜勤務希望集う」が前向きで好ましい。非母語話者による日本語使用の一例でもある。

調整中調整中調整中調整中調整中調整中
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(飯田橋駅) 超大手企業内当代詩人の登場である。一瞬どこかの中学校の応援幕かと思った。もちろん消費税増税に際して「間違い」となってしまった運賃表を隠すという実用のためのデザインであるが、一種の狂気さえも孕む。「作業中」や「工事中」ではなく「調整中」という文言を選んだセンスが当代詩にふさわしい。実直さゆえの狂気とでも言えばおさまりがつくか。

圏外活動
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(千代田区神田神保町) きっとどこかのよくわからない集団が貼っているステッカーのひとつ。町の隅っこ、物陰にある死角、多くの人が見ているはずなのに意識に留めないあたり、記憶と想像力の盲点、そこに暗号めいたものを嗅ぎ取って足をとめてしまい、読んだり撮ったりする。そしてこの町と違う町で同じステッカーを見つけたとすると、何かその尻尾をつかんだような、気になる。その誘い水が当代詩となって。

この男は三浦春馬の偽物で変質狂人ストーカー犯罪死刑囚の修正しまくったバケモノが本当の姿です。
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(文京区向丘) 町中を歩いていると掲示板やアパートの門や家の塀にびっしりと文字の書き込まれた貼紙を見ることがある。その貼紙にびっしりと書き込まれた文字はたいてい何事かを訴えかけようとしている。何も訴えようとしていない人はそんな貼紙は出さない。まず何か訴えるものがある、それだけでもうその人は当代詩人と言える。そこに書かれている内容がいかに狂気に充ちていて、根拠も論理もなくて、どうしようもない便所のチリ紙程度の内容であったとしても訴えかけようとする意志だけでその文章は当代詩だ。当代詩人は歓迎しないけれど当代詩だけは歓迎だ。

そんな執念に充ちた当代詩をもうひとつ。

私は六年前に狭心症と大動脈瘤の手
術を同時に受けた八十六歳の一人暮らしの老
人です。厚生年金を頼よりに細々と生活
して居るのです。それが一寸したスキを狙れ
て葬式代の足しにと一生懸命に貯めた
大切な金を盗まれた。クヤシクてクヤシクて夜
も仲々眠れない。犯人はだいたい分かっている
が手元も見ないので捕らえる事が出来ず
に居る。だから犯人が早く姿を消す
ことだけを神佛に祈りつづけている

人間て!!正直なもんだ
犯人の奴も事件の前と今
では毎日の生活態度が
一変して居る。被害者の俺より
後悟の気持で苦しんでいる
ようだ 大馬鹿野郎!!

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(世田谷区千歳台) 「人間て!!正直なもんだ」という八十六歳老人の快哉が天まで届けと木霊する。呪詛で貫かれた内容、そして最後の「大馬鹿野郎!!」が気持ち良い。この古アパートの木戸に貼られた2枚1組の貼紙は当代詩の傑作と言える。一年のうち何度も画像を取り出して読んでしまう。この老人の心持ちだけは忘れてはならない。その心持ちが当代詩を生む。
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by suikageiju | 2014-05-26 22:25 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
棍棒の王
 ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説『愛その他の悪霊について』に、狂犬病の侯爵令嬢を診察した医師アブレヌンシオを描写する文章がある。アブレヌンシオ描写のなかで特に印象に残る一文だ。日本語では下記のようになる。
その姿はまるでスペイン式トランプの棍棒(クラブ)のキングそっくりだった。 (29頁、旦敬介訳、新潮社、2007)

 この文章から、なんとなくアブレヌンシオが堂々とした体躯をしているように読み取れる。けれど、どのような姿かまでは分からない。原文のスペイン語ではこうである。
Era idéntico al rey de bastos. (p.27, Debolisillo, 2013)

 逐語訳では「(彼は)棍棒の王と同じだった」である。棍棒(クラブ)のキングではなく棍棒(バスト=ワンド)のキングであった。それと「スペイン式トランプ」という文言は訳者の旦敬介氏が説明のために付け加えたのだろう。しかも日本語版では原文には書いていないこの「スペイン式トランプ」という言葉にご丁寧にも注解が付されている。
金(オロ)、聖杯(コパ)、剣(エスパダ)、棍棒(バスト)の四種の絵柄ごとに、1から9までの数字の札と、10がソタ(男の子の絵)、11がカバリョ(馬の絵)、12がレイ(王の絵)で13がない、計四十八枚の札を使って遊ぶカード・ゲーム。(190頁)

 ラテン・アメリカ文学に出てくるトランプはたいていこのスペイン式トランプ、ナイペスやバラハと呼ばれるデッキだ。原文に書いていない注釈的文言に注解とは滑稽ではあるが、いきなり「棍棒の王」と書かれていてもイギリス式トランプに慣れている日本人の読者には分からないので必要な注解であるのは確かだ。
 しかしなぜ「棍棒の王」なのだろうか。他の王ではダメだったのか。考える材料のために、その「スペイン式トランプ」ことナイペスの4枚の王(レイ)を並べてみた。上からフランスGrimaud社のナイペス、スペインFournier社のナイペス、そして一番下は参考のための日本の任天堂のイギリス式トランプ、いわゆるナップである。
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 スペイン式トランプの3枚の王は右を向いているのに、一番右に並べた棍棒の王は左を向いていることに気付いた。Grimaud社の棍棒の王は他の王よりも顔が少しふっくらとしていて唯一左を向いている。Fournier社の棍棒の王は他の王と違って右半顔だけこちらに向けていて、足の位置から他の王と違い臍も唯一左を向いている。任天堂の諸王にそれほど違いはないが、ダイヤの王の顔の向きがむしろ際立っている。弊社所蔵のナイペスでは棍棒の王だけ「向き」の点で他の王と少し違っていた。
 向きが違うのは分かった。しかしナイペスの棍棒の王からアブレヌンシオの姿を類推するのは難しい。原文とほとんど同じ意味の日本語版の文章を引用するとアブレヌンシオは「子供のような肥満した体格」をしているという。上の画像だけではその肥満っぷりはうかがい知ることはできない。でも、実際のカードから離れて考えると、剣や貨幣や聖杯を持っている王よりも棍棒を持っている王の方が筋肉質で肥満しているイメージはつく。ただそれだけだ。
 その他、タロットにおける小アルカナの「棍棒の王」の含意や脚韻の可能性についても考えてみたけれど結局、なぜ棍棒の王なのかについて自分で自分を納得させられなかった。しかし比喩とはそういうものなのかもしれない。それにこれはマジックレアリズムである。

愛その他の悪霊について

ガブリエル ガルシア=マルケス / 新潮社

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by suikageiju | 2014-03-26 22:40 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
モジノオト
 きっと3月8日は本の杜5だろうと思い込み、快天の下で川崎産業振興会館へ赴くと入口横の「本日の予定」に「本の杜」の文字列は見当たらなかった。ヤバい匂いがプンプンした。受付のオヤジに尋ねると本の杜5は翌3月9日開催との返事である。あまりにも残念で空はこんなにも青いので、堀之内で泡踊りなどをしたあとアートギャルリ谷中ふらここで開催されているというモジノオトへ出掛けた。
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 モジノオトの事前情報といえば非公式ガイドの推薦作会議で秋山真琴氏からもらったチラシくらいである。それによればモジノオトは第2回目で、絶対移動中および雲上回廊の共同開催みたいな形で運営されているらしい。そして主な題目は朗読劇とのこと。絶対移動中と雲上回廊といえば美麗な表紙や挿し絵によってその名を創作文芸界に轟かしているサークル群である。西日暮里駅から不忍通りの方へ下りていき、よみせ通りを左に折れて少し歩くと見知った顔がのっぺり立っている。最高責任編集者の高村暦女史である。「朗読劇は期待できるのですか」と尋ねると「場所を借りてやるのだから当然でしょう」と女史。そんな女史の立つところが谷中ふらここであった。
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 狭い階段をあがると「絶対移動中」と墨書された和紙が新興宗教のお題目のようにびっしりと垂れ下がって二階である。廊下を踏み越え、10人も入れば一杯になるだろう和室風の会場奥には祭壇のような低机が設えてあって中央に置かれたタブレットからは動画が流れ、その両脇には漫画風のイラストが飾られていた。また会場の壁には至るところに、たぶん文芸誌「絶対移動中」から抜き出した台詞が書かれているのだろう丸紙が貼られていた。階段の上、会場から廊下を隔てた対面には物販スペースが設けられ同人誌が頒布されている。
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 入場料として500円払い冊子やパンフレットを貰う。朗読劇は16時から始まった。三幅対の下、中央には秋山真琴氏、その右手には宵町めめさん、左手にはさつき女史が腰かけていた。3人ともスーツ姿である。満員の会場へ最後に入室したため、鯨は秋山氏とさつき女史のすぐ前に座らされ、45㎝あるやなしやの距離に鯨然とした鯨の顔を迎えさせ秋山氏を苦笑させてしまったことは済まなく思う。それにしても朗読中は目のやり場に困った。秋山氏の股間ばかりを見ているわけにもいかず、朗読者らの頭上に飾られた三幅対などを見たりさつき女史の彫刻めいたくっきりとした目鼻立ちを鑑賞したりしていた。朗読劇は秋山真琴氏の著作における世界観をもとにした書き下ろし台本を交互に読むという内容で、最初の四十分間は「これ大丈夫だろうか」と不安に思いながら聴いていたけれど最後の十分間で魅き込まれた。人の声を聞くだけでも朗読劇は心地よいものだ。ただ、練習不足と台本が朗読向きでないという感想だけは隠せなかった。でもこれはこういう形の朗読劇でありこういう会なのだから、鯨は充分なくらいモジノオトを堪能したのである。
 帰り道、外にいた伊藤鳥子女史に挨拶をし、西日暮里駅へ向かう道中で高村暦女史が、ウーンウーンと反芻する牛のように唸っていてまるですぐにでも呼吸するように批判めいた文言を口に出しそうだったので鯨は制止した。「Ustreamも非公開制だし、お客さんもどうやら内輪のようだ。つまりモジノオトは何から何までともだち会である。もし批判めいたことを口にするなら君はおともだちではなかった。ゆえにここにくるべきではなかった」、「入場料の500円だって本の代金という名目でとっているはずだ」しかし反論が帰ってきた。「なら最初から入場料ではなく本の代金と書くべきです」。確かにそうだと鯨は屈服した。そんな高村女史から聴いたのが青波零也氏が本格的に朗読教室に通っているという情報である。そして、どうやら今聴いたのは第2部でその青波氏が登壇した第1部は既に終わっていたらしい。
 その後、秋葉原の伍戒○すべてへ行き永田希氏の『モダン・ラブ』を購入した。
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by suikageiju | 2014-03-09 00:25 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
パリ書店めぐり
 フランスのパリに行ったことのない人はたいてい「パリなんてどうせ大したことはない」と思っているけれど、行ったことのある人は好きになったにせよ嫌いになったにせよ、従来の過小評価を覆される。ノーベル文学賞作家のアーネスト・ヘミングウェイは友人に
もし君が幸運にもパリで若者として暮らせたなら、その経験はずっと君の人生につきまとうだろう。なぜならパリは移動祝祭日だから。

と言った。パリについて考えるとき、この言葉、そして移動祝祭日という言葉は常につきまとう。ただの都市であるパリはただの人間を芸術家に変える。通りの吸殻だらけの片隅に、市場から見上げたアパルトメンの欄干に、美術館の階段下の暗がりに、チーズのむせかえるような匂いただよう地下鉄に、旅人はきっと祝祭的な機微が隠されているように思わされその機微を見いだそうとする。そうさせるのはパリが移動祝祭日だから。
 パリ滞在中、ポンピドゥ・センターヨーロッパ写真美術館とrue du Cinémaにあるフランソワ・トリュフォー映画図書館へ行った他はセーヌ川左岸、ラテン地区(quartier latin)にある書店(librairie)を巡った。街歩きの最中に見つけた書店もあれば、人に教わった書店もある。
 ヘミングウェイがパリ時代に通ったShakespeare and Company(37 Rue de la Bucherie)はパリの名物書店で、英語書籍を専門としている。戦間期にはジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』を出版した書店としても知られる。
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中は英語の本が所狭しと並べられている。
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2階は読書スペースやメッセージペーパー掲示板があり、単に書店としてよりも作家や読書家の交流スペースとして活用されている。
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 シテ島の南、サン・ミッシェル橋からラテン街へ渡っての左右に、黄色地に黒い男の顔の看板が目立つ書店Gibert Jeuneがある。この手の少し大きいパリの書店によくあることなのだが、専門によって店舗が分かれている。写真は文学書、美術書、写真集、バンドデシネ、パリ案内書や文房具のある、シテ島から見て左手の店舗だ。日本では考えられないフランスの書店の特徴として、古書と新刊書が一緒の棚に並んでいる。同じタイトルが古書と新刊書ともに並べて置いてあることもある。
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 Boulinier(20 Boulevard Saint-Michel)は店頭で古書が0.2ユーロで投げ売りされている。何でもいいからフランス語の本を買いたい人はここに立ち寄ると安く何かを買える。バンドデシネも充実。
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 Librairie Compagnie(58 Rue des Ecoles)は人文学系の専門書店である。店の奥には文学書や美術書がある他、地下には政治経済、社会科学、哲学系の本が置いてある。
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 Rue des Ecolesには書店が多く、専門書店が数軒ある。なかにはアフリカ専門の書店もある。
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 美術書専門古書店の店頭はフランス語を読めなくても楽しめる。
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 Les Autodidactes(53 Rue du Cardinal Lemoine)は「独学者たち」と気取った店名を名乗る、白髭の老爺が経営している雰囲気抜群の書店。シュールレアリスムやダダイスム、前衛などの美術書に強い専門古書店らしい。
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 Le Pont Traversé(62 rue de Vaugirard)はリュクサンブール公園北辺の通りを西に進んだ右手にある書店。19世紀~20世紀半ばまでの書籍が多い。いわゆる水彩画で思い描いたようなパリの古書店。
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 Gibertなどのチェーン店でなければ、書店同士のネットワークも強い。もし欲しい本があればどこかの書店員に声をかけるのが最適解だろう。その書店になくても他の書店にあれば教えてくれる。おそらく書店員はMarelibreなどの検索サイトを使っているので声をかける前に自分で調べてから書店を訪問するのも手だ。
 ルーブル、オルセー、シャンゼリゼ通り、オペラ座といった典型的な観光地では飽きたらぬ人は、ラテン街を書店めぐりという目的を持って散策してはどうだろうか。パリに新たな影が加わるだろう。
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by suikageiju | 2014-03-03 01:45 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
ジョアン・フォンクベルタのカモフラージュ展
 パリ4区にあるヨーロッパ写真館でカタルーニャ人のシュールレアリスト、ジョアン・フォンクベルタ(ホアン・フォンクベルタ、Joan Fontcuberta)のカモフラージュ(Camouflages、偽装、擬態)展を見た。まず地下階へ行き、その階段横に並んでいる本やHERBARIUMの展示室を見ても、その意図に気付かなかった。FAUNEの展示室における、トリケラトプスのような背鰭のついた鰐や二本脚の生えた貝の偽剥製を見て、それらとケンタウルスのように下半身が四足動物であるチンパンジーについての写真を見て鳴き声を聴いて、ただ鼻行類めいた癖のある衒学趣味だけを連想していた。しかし階段を昇り、人魚の化石発見のドキュメンタリー風映像を見て、そこにジョアン・フォンクベルタ自身が神父の服を着て立ち現れて、展示された写真機や絵具や顕微鏡、そして階段に並べられた本や奇妙な植物写真の意図に気付いた。
 それらは中世や近代の権威的博物学、あるいは共産主義的なプロパガンダ、アメリカ帝国主義による映像操作へのカモフラージュ・オマージュであり、揶揄である。そして更に一歩進んで新たな自己の創造である。
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 ジョアン・フォンクベルタは芸術家を、現実を、真実を偽装するために別の世界と別の自分自身を写真と展示品によって創造していたのである。そしてピカソやミロやダリの偽写真を見て森村泰昌を連想し、「スプートニク」でジョアン・フォンクベルタが宇宙服を着てニッコリ笑っている写真を見て、自然と声を出して笑った。シリアだかパレスチナだかの街を背景にジョアン・フォンクベルタがアラブの服を着て座っている写真を見て、彼ならば何にでもなりたい職業に就けるのだし、なりたい人物になれるのだと考えた。これらを国家的虚構へのオマージュとだけ捉えるのはつまらない。これらは「自分」という可能性への挑戦である。
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 小説家があらゆる職業を疑似体験できるように、ジョアン・フォンクベルタはその作品によってあらゆる職業を僭称できる。その僭称は宇宙を夢見た子供の頃の落描きや写真やスケッチ、それから新聞などによって補強され現実味を帯びる。真実かどうかはどうでも良い。
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 思い出には実際の経験なんて必要なく、思い出を喚起する写真や記念品だけあれば思い出は構成され、記憶という名の印画紙に焼き付けられる。だから写真や記念品は偽造されたものでも構わず、思い出も色褪せない。「これが真実なのだ」そう言って、実際にそう思い込んで写真や記念品を差し出せばシュールレアリスム的にはそれはもう真実なのだ。
 ジョアン・フォンクベルタの作り込みの本気さにビビった。
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by suikageiju | 2014-03-01 00:17 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
建国記念の日にアルゼンチン映画を観る
 早稲田にあるカフェ・ゴトー脇に備え付けられた黒い金属製の階段を軋ませながらすべらないようにして降りると、その左手に開けた雪の残る空地に武装した警官が二人いた。彼らの頬は白く、皮膚の下に朱を散らしたような血の色が見えた。一人の警官が制服で隠すように赤いワンダの缶珈琲を同僚に手渡して、同僚もまた人の目から隠すように掌で缶を覆って回しぬくもりで指をあたためるとポケットにしまって早稲田通りに出て、早稲田駅前交差点を封鎖している所属の分隊に合流した。鯨はその受け渡しの一部始終を階段の上から見てしまった。
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 駅前交差点は警視庁がバリケードで封鎖している。右翼の街宣車が鶴巻町方面から来て封鎖線を突破しようとしていて拡声器で「警察は何を守っているのか。極左の奴らを守ってどうするのか」とガナリ立てる。機動隊のとある一個分隊十人ほどが分隊長に続いて走って配置場所に移動する。交差点がざわつき、緊張が走った。しかし数分後、突破を諦めた街宣車は神楽坂方面へ帰って行った。バリケードは収納され再び自動車が交差点を横断していく。鯨は交差点をあとにして、右も左もない、この国というか共同体にはあの若い警官が手渡していた缶珈琲のぬくもりがあるだけだと思い、短歌をつくった。
缶珈琲をかくして渡す警官のかじかむ手にぞ国は建つなり

 西早稲田駅から副都心線で移動して渋谷の映画館アップリンクへ行きアルゼンチン映画「闘鶏師の恋」を観た。60年代の古い映画だ。エンタメやら大衆小説を名乗る下手な小説のように男と女が見つめ合うと突然恋に落ちてベッドシーンに変わり、決まり切ったように男が銃で撃たれて死ぬ映画だった。予定調和のうちに展開し、顔のドアップと陰影の濃い静止画でほとんどを占められた映画だった。でも、それでも構わないと思った。どんなに下手な作家の小説でも読んでやろうと試みる人がいて、どんなにつまらない映画の興行でもこうやって金を払って観てやろうという人がいる。そういった人がこの国というか共同体を成り立たせている。
 2月11日は建国記念の日である。この祝日は神話じみた史書を典拠に思想だけで突き固められた国家概念の制度化である。千代田の森の奥深くで平成時代を三十年も続けないうちに死に瀕するだろう老人とその一家が消滅したら吹き飛んでしまうような、そんな国の記念日である。でもあの一家が消滅したからといって、早稲田で同僚に缶珈琲を手渡していた警官が、硬貨を握って自動販売機に走らずに、ただ黙って隣の同僚を射殺するだろうか。あるいは千代田城の跡地に誰も住まなくなったからといって、決まり切ったパターンだけを踏襲する古き良き映画を誰も観に行かなくなるだろうか。そんなことにはならない、そう信じたい。だからこそ建国記念の日には右も左もない。この日は手渡される缶珈琲のぬくもりを讃える日であり、つまらない映画を観に行く人を賞讃する日なのだ。そうでないのであれば、国なんていらない。
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by suikageiju | 2014-02-11 22:54 | 雑記 | Trackback | Comments(0)