カテゴリ:ラテンアメリカ文学( 11 )
Invasión 侵入
 大雪のバレンタイン・デーに渋谷の小映画館アップリンクで、アルゼンチン映画「Invasión(侵入)」を観た。金属を引っ掻いたような耳障りな音が常に鳴っている映画だった。最後の場面で、南のレジスタンスたちに銃を渡し彼らを市街戦へと送り出したイレーネ(Irene)の顔のアップとともにまた奇妙な効果音が鳴ってこの映画が好きになった。というのは、映画の序盤は何が起こっているのか分からなかったけれど、観ていくうちに段々と何が起こっているのか理解できて、理解度に比例してこの映画に夢中になっていくからだ。だから最後でこの映画が好きになった。車から飛び出したような感覚になるカメラ回し、夜の場面では地面に水を撒かず光量を減らして黒を濃くするのが記憶に残った。
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侵入者v.s.ドン・ポルフィリオ派
 北東に海岸線を持つ、きっとラテン・アメリカのどこかにある都市国家アキレア(AQUILEA)。この街に白いトレンチコートの男たちがトラックに乗って侵入して来る。白いトレンチコートと言っても白黒映画だからそう見えるだけなので実際はどういう色だか分からない。一方でトレンチコートの侵入者からこの都市国家アキレアを守るべく戦うのは老人ドン・ポルフィリオ(Don Porfirio)率いるレジスタンスである。ドン・ポルフィリオは砂糖ぬきでマテ茶を飲み、家で黒猫ウェンセスラオ(Wenceslao)を飼っている。ドン・ポルフィリオは電話で指示を出す、時には嘘もまじえて。トレンチコートの侵入者はドン・ポルフィリオを殺さない。彼はいつだって孤立無援だから。それに、アキレア市民はドン・ポルフィリオをそんなに支持していないようだ。ドン・ポルフィリオとレジスタンスはアキレア市民のために戦うが市民はむしろトレンチコートの侵入を期待しているのかもしれない。
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エレラとイレーネ
 ドン・ポルフィリオの部下のエレラ(Herrera)は黒スーツを着てドン・ポルフィリオの命令に従い、トレンチコートの侵入者と戦う。ただエレラは「貨車置場へ行け、カフェには寄るな」と言われてもカフェに行ってわざと侵入者に捕まることもあり、それで小隊長格の殺害に成功していたりして、ここでドン・ポルフィリオの命令の虚実はわからなくなった。ドン・ポルフィリオはどこまで計略していたのか。侵入者がトラックでアキレア市内に持ってきた無線装置の破壊に成功したエレラが運悪くまた侵入者に捕らえられても、彼はレジスタンス組織の武器の隠し場所を決して明かさなかった。彼は2度も侵入者に捕縛されながらもその度に逃げ出した。そんなエレラの妻イレーネは夫が昼夜何をしているのか知らない。そしてエレラもイレーネが夜に出歩いていることを知っているが妻が何をしているのか知らない。観客である鯨は、最初イレーネは侵入者の間諜かと思っていた。たぶんエレラもそう疑っていたかもしれない。でもエレラの死後に違うのだと知らされる。
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トレンチコートの侵入者はすごい
 トラックで無線装置をアキレア市内に運んできたり、送信機をスタディアムに設置したり、侵入者の科学力はリボルバーで戦うのが精一杯のドン・ポルフィリオ派をはるかに凌駕している。侵入者はトレンチコートで服装が統一されているのに、レジスタンスは服装に費やす資金がないのか、それともレジスタンスだからかバラバラの私服を着ている。終盤では侵入者は無数の自動車、無数の飛行機、無数の上陸艇、無数のトラック隊(無線装置積載)でアキレア市に侵入する。相手は残ったドン・ポルフィリオとイレーネだけなのに。侵入者の科学力の象徴はそのアジトにあった白黒テレビと電気棒である。白黒テレビが何だかもの凄い未来のモニターのように見える。
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次々と殺されるドン・ポルフィリオの部下
 無線装置の破壊作戦で、「手の静脈を見る」と歌う口髭ギター弾きの死と引き換えに、アキレア市の北北東にある島に侵入者たちをおびき寄せ、ガソリンで彼らを焼き殺すことに成功したドン・ポルフィリオ。しかしトレンチコートの侵入者はその勢力衰えず、次々とドン・ポルフィリオの部下を殺して仕返ししていく。女好きなプレイボーイは女に欺かれても最期まで紳士であったし、「私は盲目だ」と言って銃に気付かず殺された男は脚本のホルヘ・ルイス・ボルヘスを連想させた。また、ドンパチ銃声音のあるウェスタン映画の上映が終わったあと観客が去った映画館で一人残った部下が銃殺されている場面は胸を打った。ドン・ポリフィリオの部下、一人一人の死が印象付けられていた。もちろんスタディアムへ送信機を破壊しに行き増殖するトレンチコートの侵入者たちにタコ殴りにされ芝生コートの上にうち捨てられたエレラの死も。こうして部下は殲滅されレジスタンス側で残ったのはドン・ポルフィリオただ一人となってしまった。と、そう思わせておいて実はエレラの妻イレーネもそしてイレーネとともにアキレア市内で不穏な活動をしていた男たちもドン・ポルフィリオの部下だったのだ。エレラは妻がレジスタンスの仲間であることを知らずに死んでいった。
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文明の侵入
 この映画はドン・ポルフィリオのレジスタンス活動が一敗地に塗れたあとも終わらないことを示して幕切られる。ではアキレア市に侵入するトレンチコートの侵入者とは何なんだろう。きっと侵入者のトレンチコートで画一化された男たちも飛行機の編隊も船舶群もトラックと自動車の隊列も、文化を侵食する巨大な科学文明(とくに北アメリカ大陸のアメリカ合衆国の)を象徴しているのだ。ドン・ポルフィリオのレジスタンス活動はそんなアメリカ合衆国の科学文明に押し潰されそうになりながらもこれに対するアルゼンチンならびにラテン・アメリカ諸国文化の抵抗を描いたのだろう。だから、ドン・ポルフィリオが最後に送り出した、イレーネが動かしていたレジスタンスたちは「南」の人々なのだ。アメリカ合衆国に対してラテン・アメリカが「南」であるように。ドン・ポルフィリオがスタディアムで死んだエレラの遺体に会いに行くとき自宅の鏡に向かい「歳をとりすぎた」と呟く。 そして歳をとりすぎていない、それほど頑固でもないラテン・アメリカの人々はアメリカ合衆国という侵入者を警戒せずに歓迎している向きもある。アキレア市民がそうであるように。だからこそアメリカ合衆国という科学文明の訪れは歳をとりすぎて変われない人や頑固な人にとり「侵入」なのだ。この映画は1960年代のアルゼンチンをとりまく文化情勢と知識人層の焦燥を描いたおとぎ話で、アキレア市は最後まで守ろうとした文化で、戦いはまだ終わっていない。
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Invasión(侵入)
監督:Hugo Santiago Muchnick
脚本:Jorge Luis Borges, Adolfo Bioy Casares, Hugo Santiago Muchnick
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by suikageiju | 2014-02-15 01:40 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
ハープと影
古書ビビビで入手したカルペンティエールの『ハープと影』。ラテンアメリカ文学の魔術リアリズムは征服者コロンブスがカトリック両王へ送った偽りに満ちた報告書に端を発するのかもしれない。
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ジャンヌ・ダルクは1431年に異端審問にかけられ焚刑に処された死後、1456年に異端無効化裁判を経て1909年には列福、1920年には列聖された。19歳で死んだ彼女は4つもの宗教裁判を経てフランス、そしてカトリックを代表する聖人となった。また、大西洋を渡り新大陸へと到達したクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)も19世紀末に列聖されようとしていた。この本は3部構成からなり第1部の「ハープ」は教皇ピウス9世がコロンブスの列聖調査誓願書に署名するに至るまでの躊躇いを描き、第2部の「手」では聖人ならざるコロンブスが死を前に「インド」への航海前とその最中で犯した自身の罪を悔悛し、第3部「影」はコロンブス死後400年を経てシスティナ礼拝堂で執り行われた彼を列聖するための裁判の模様である。しかし、彼の列聖は「悪魔の代弁者」(ヨハネ・パウロ2世により廃止された役)の弁論により退けられる。ラテン・アメリカの作家であるアレッホ・カルペンティエールがコロンブスの列聖調査審問を描く、ただそれだけで本書は読むに値する。なぜなら、現在のラテン・アメリカ文化はコロンブスがいたからこそ存在しているからだ。コロンブスが列聖されようがしまいがラテン・アメリカは否応なく存在させられている。コロンブスの聖性は否定できるが、それでもなお彼の存在は否定できない。全てのラテン・アメリカ作家にとり、偽りに満ちたコロンブスは、そうだからこそ父親のような人物なのだ。この本はそんなどうしようもない父親を受け入れるための生温い目線である。
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by suikageiju | 2014-01-02 12:41 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
グアテマラ伝説集

グアテマラ伝説集 (岩波文庫 赤 795-1)

ミゲル・アンヘル・アストゥリアス/ 岩波書店


 ノーベル文学賞作家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスの『グアテマラ伝説集』という「魔術的リアリズム」の父祖的著作の存在を聞いたことはあったけれど、オラシオ・カステジャーノス・モヤさんの発表会で改めてその名を耳にし、「語りの祖」と聞いて気になっていた。それから一週間も経たない今日、ぶらりと出かけた隣駅の書店で偶然これを発見した。
 「痙攣する文体」という表現を鯨は使う。これは巧みな魔術的リアリズムの文章に出会ったときに読者が味わう身体感覚をあらわした言葉だ。物語の論評に文学史的位置や社会的意義などのくだらない言葉を並べる評論家という輩がいる。なんと虚しい営みだろう。物語よりも虚しい営みだ。物語の鑑賞にはそんな空虚な言葉は必要ない。「身震いした」「勃起した」「鳥肌がたった」「頬に氷が走った」など、物語が身体に与えた感覚をそのまま口にすればよいのだ。
 『グアテマラ伝説集』にはまさに身悶えするような表現が羅列する。これはまさにグアテマラの大地から引き出された隠喩の百科全書である。「恩寵の甲状腺腫をわずらっている」「満月の下で断崖警備人が歌う 」「水と蜜の夜明け、家畜の白い息 」「惑溺の夜。樹々の梢で狼の心が歌っている。ある男神が、次々に花の処女を犯してゆく。風の舌が刺草を嘗めまわしている。星もなく、空も道もない。巴旦杏の愛の下で、泥が肉の匂いを発している」「惑溺の夜。樹々の梢で狼の心が歌っている。ある男神が、次々に花の処女を犯してゆく。風の舌が刺草を嘗めまわしている。星もなく、空も道もない。巴旦杏の愛の下で、泥が肉の匂いを発している」「大地の静脈血である焼けつくような溶岩」「金剛鸚哥、もしくは熱帯の法悦」「護符、雨乞いのための鹿の眼球、嵐から身を護る羽毛、そして妙なる幻覚を呼ぶマリファナ」「植物の通貨であるカカオ」「巨大な蟇蛙の吐く赤い唾」「魚たちの向こう側で、海は孤独であった。根たちは、すでに血を失ってしまった無辺の広野で、彗星たちの埋葬に参列した後、疲れて眠ることもできないでいた」「また、すでに熱によって腸を焼かれてしまった爬虫類は、チョコレートの匂いを発するココアの樹の根に捕らわれていた」「魚の内臓に隣接した、林檎と薔薇の壁の間における一種の夢」「硫黄の匂いと松脂の冷ややかな輝きのなかで、爬虫類の夢を秘めた樹液が緑、赤、黒、青、そして黄色に枯渇し始めたのである」
 読者諸君。これを読み、震撼せよ。
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by suikageiju | 2009-12-21 20:51 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
アウラ・純な魂

フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)

カルロス フエンテス / 岩波書店


 幽玄美という奴が嫌いである、怖いからだ。この本の最後に収められた「アウラ」はリョレンテ夫人の結界を言葉だけで読者の頭に完璧に投影する。その情景は幽玄という他ない。映画「雨月物語」の影響を受けていると訳者の木村榮一氏は書く。ル・クレジオも「雨月物語」に触れていた。海外で観ることができた日本映画がそれくらいしかなかったのだろう。「おしん」みたいなものだ。ともかくこの話はおかしい。新聞の募集広告「若い歴史家求む。(略)フランス語の知識要。(略)月三千ペソ。食事付。(略)」ならまだわかる。でも「君はその広告に目を通し、最後の一行が四千ペソに変わっていることに気がつくだろう」もうこの時点で気付くべきだった、この勤め先はブラックだと。
 「女王人形」は超自然的な魅力があって良かったけれど、「生命線」や「純な魂」の人間的な魅力も良かった。「純な魂」の手紙って何のことかと思ったけれど、読み返してその手紙の意味がわかったとき、うへぇ、となった。
 カルロス・フエンテスはメキシコの作家である。作品はどれも流麗で良かったのだけれど、もう一歩だけ人間の方角へ踏み込んでも良かった、と思う。
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by suikageiju | 2009-12-18 19:09 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
オラシオ・カステジャーノス・モヤ
 オラシオ・カステジャーノス・モヤ(Horacio Castellanos Moya)は1959年ホンジュラスは首都テグシガルパ産まれのエルサルバドル人作家。たぶん世界地図を広げてみないとエルサルバドルの位置なんてわからないだろうから、彼はイスパノアメリカ人だ。それでいい。昨晩はセルバンテス文化センター東京へオラシオさんの『崩壊』の日本語訳本出版発表会があった。聞き手は訳者の寺尾隆吉准教授。
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 まず『崩壊』という本は3部構成で、第1部は1963年11月22日ケネディ暗殺の日を描く。娘の結婚を呪う“狂気”の母親が式に出ようとする夫をトイレに閉じ込めるシーンを描くことで国家的な争いと家庭の争いを対比している。第2部はサッカー戦争を描いている。エルサルバドルとホンジュラスの国家紛争を娘と母の争いと対比している。そして父の死と夫の死を描き、エルサルバドルのクーデターが不正選挙によって市民戦争となった「崩壊」の過程を描く。第3部は歴史状況における崩壊と家庭の崩壊を描いている。オラシオ氏はこの作品で世代間の確執(保守的な母と自立的な娘の対立)を描いた。一族の歴史と国家の歴史を対比させるのはラテンアメリカ文学の一つの要素かもしれない。またオラシオ氏は「いかにして戦争が人々の頭の中ではじまるのか?」を描こうとしたという。サッカー戦争(第2部)はすでに6年前、つまり1963年(ケネディ暗殺の年、第1部)にすでに人々の頭の中で始まっていたのだ。
 オラシオ氏は第1部をスイスのバーゼルで第2部をドイツのフランクフルトで描いた。エルサルバドルから距離をおいて書いていた。また69年11歳のときにサルバドル市内で空襲の怖さを知り、72年14歳のときにはパーティーの帰りにサイレンの音とともにクーデター勃発を経験し、興奮と冒険心を覚えたという。そしてアルコール中毒更生会の内輪もめはオラシオ氏によるフィクションかと思ったら史実だという。それらの経験を彼は直線的に(つまりは網羅的に)描くこともできた。しかしオラシオ氏は「簡単に飽きてしまう」人で、直感的に選んだ文体にチャレンジするという。第1部は劇のような対話形式で、第2部は昔の貴婦人のような書簡体で書いたのもそれによる。
 オラシオ氏の作品は大きく2つに分類され1つ目は市民戦争後の「民主主義は政治ゲームにすぎない」ことが露呈したあとのスパイ小説てきなもの、2つ目は家族史である。『崩壊』は後者に属する。
 ラテンアメリカの文学市場は分断されている。メキシコの本はアルゼンチンで紹介されないし、コロンビアの本はメキシコで紹介されない。その中でラテンアメリカの文学を世界に広めたいと言っていた。たとえばニカラグアのエルネスト・カルデナル、グアテマラのミゲル・アンヘル・アストゥリアス。そのほか、エルサルバドル作家としてレイロッラ、ラファルメ、エスクードスなどの名があがっていた。エルサルバドルは文学的基盤が弱いという。
 最後に鯨は2つ質問した。オラシオ氏の書く動機と鷲の岩山と神話とのつながりについて。それはいいとして、別の人の質問の返答で、グアテマラ内戦についてはいろいろな小説があり市場もあるのに、エルサルバドル市民戦争にはそれがないと言っていた。文学にはいろいろな側面がある。歴史上の事件を一市民の視点から語る。それも文学である。
 最後にサインをもらった。
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オラシオ・カステジャーノス モヤ
現代企画室
発売日:2009-12


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by suikageiju | 2009-12-17 09:33 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
崩壊

崩壊

オラシオ・カステジャーノス モヤ / 現代企画室


 2010年南アフリカW杯でホンジュラスが7大会ぶり2回目の出場を果たした。奇しくも組み合わせはチリやスペインと同じH組に入る。ヨーロッパ予選、南米予選、北中米カリブ海予選からのスペイン語圏の国が一堂に会することに、スペイン語とその文学の広がりを感じる。
 40年前の1969年、ホンジュラスとエルサルバドルの中米の隣国は移民問題や国境問題を原因に、そしてメキシコW杯への出場権を巡り、対立状態になった。最終試合前、エルサルバドルが国交断絶をほのめかし、3対2で敗れたホンジュラスが断交する。そしてエルサルバドル空軍の空襲により両国は交戦状態に入った。これが100時間戦争とも、エルサルバドル・ホンジュラス戦争とも、一般には「サッカー戦争」と呼ばれる戦争である。この戦争を境に度重なるクーデターが勃発しエルサルバドルは没落した。
 オラシオ・カステジャーノス・モヤはホンジュラス生まれのエルサルバドル人である。この『崩壊』はサッカー戦争を背景にホンジュラスの名門ミラ・ブロサ一族を主人公にした物語だ。第1部は国民党幹部エラスモ・ミラ・ブロサと神経症の妻レナ夫人のやりとりを中心に、娘エステル(テティ)とエルサルバドル人のクレメンテ・アラゴンの結婚を描く。そして第2部はサッカー戦争勃発を前にして緊迫した情勢のなかでのホンジュラスのエラスモとエルサルバドルにいる娘エステルとの手紙のやりとり。そして第3部はエステルとクレメンテの子供たち、エラスモの孫の代の物語になる。構成がわかりやすく、何より読みやすい。ロシア文学の熟練の読み手さえラテンアメリカ文学にはてこずるのだが、これなら簡単に読めるだろう。それでいてアル中更生会のクーデターとかトイレのドア越しの夫婦喧嘩とか「ラテンアメリカだよね」という笑いの要素もふんだんに盛り込まれている。16日にはセルバンテス文化センター東京で講演会も開催されるので、『崩壊』出版を機に中米の世界に足を踏み入れてはどうだろう。
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by suikageiju | 2009-12-13 15:48 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
続審問

続審問 (alta inkvizicio)

J.L. ボルヘス / 岩波書店



 気に入らない研修や退屈な会議で束の間の休憩時間に読むとしたら、ボルヘスに限る。それは彼の本には文章ではなく、宇宙が眠っているから。我々は英文学の評論を読もうとして、ついつい宇宙を読んでしまっている。

 西瓜鯨油社の創作理念は、今のところ「世界図書館の有能な司書」と「発掘作業である推敲」である。孫引きだがポール・ヴァレリーはこれらの理念をより詳しく書いている。
 文学の歴史は作家たちの歴史であったり、彼らの生涯や作品の経歴における偶発的事件の歴史であってはならない、むしろ文学の生産者もしくは消費者としての《精神》の歴史ではくてはならない。(中略)このような歴史は作家の名前など持出さなくても書くことができるだろう。

これも孫引きだがシェリーは『詩の弁護』でこう書いている。
 過去・現在・未来のすべての詩篇は、この世のすべての詩人によって書かれた一篇の無限詩の挿話ないし断片である。

 シェリーの言葉を具体的にするためには夢という道具を使わなければならない。1797年、エクスムア近くの農家に滞在していた詩人コウルリッジは、鎮痛剤による眠りのなかで三百行からなる詩を「受け取った」。覚醒後すぐさま受け取った詩行を紙に書き写しはじめた。しかし全てを写し終える前に不意の訪問客があり、中断された仕事は忘却の彼方に打ち捨てられてしまった。遺されたのは五十余行の「クブラ・カーン」だけである。ボルヘスはこのコウルリッジの逸話を証明するために1816年にはじめて西洋語に翻訳されたラシード・ウッディーンの『世界総合史』の一文を引用している。
 ボルヘスの緻密な文献学的研究によって、世界図書館の存在は証明されているのである。

「この世界において、全ての〈創作〉は〈抽出〉と同義である。」
                 「世界図書館」『掌編集』西瓜鯨油社、より

Kubla Khan
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by suikageiju | 2009-09-17 11:04 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
通話

通話 (EXLIBRIS)

ロベルト ボラーニョ / 白水社

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 「センシニ」が好きだった、「雪」もいいな。しかしこれは何度も読まないとわからないな。そういう作品だな。
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by suikageiju | 2009-06-25 10:19 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
砂の本

砂の本 (La libro de sablo)

ボルヘス / 集英社

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 ボルヘスは私の物語作家≒物語収集家としての師匠である。「学問の厳密さについて」は掌編の傑作で、物語らしい筋もがあるわけではないが、その独自性と発想は群を抜いている。「汚辱の世界史」のなかではエトセトラを除けば「仮面の染物師メルヴのハキム」が私の好みだ。「他者」はいつ読んでもいいし、「会議」や「砂の本」も「鏡と仮面」も磨かれた宝石のような掌編だ。
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by suikageiju | 2009-06-13 17:45 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)
百年の孤独

百年の孤独 (Cent jaroj da soleco)

ガブリエル ガルシア=マルケス / 新潮社

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 私が知っているだけでこの物語の単行本は3つ出ていて、最初の版は2度、次の版は4度、3番目の版は2度読んだ。この物語に私は圧倒され続けている。人類がこの物語を超えることを、私は期待している。そのためには一年に一回はこの物語を読みたい。
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by suikageiju | 2009-05-30 17:30 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)