サークル閉鎖。
by 鯨
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【朗読工第四回】「盤」
 第四回の朗読工は西瓜鯨油社ではなく別のサークルの作品を朗読しようと決めていた。そう決めたのは昨日の朝である。いくつか条件をあげてみて、合致するサークルに頼もうと考えた。1,西瓜鯨油社に傾向が近い。2,朗読するのは掌編で2分から3分の間で完結する話。3,映像あるいは画像を入手しやすい。当てはまるサークルなんて笑半紙さんくらいしか思いつかなかった。それに夢日記を主に書いているサークルさんなのでその作品は朗読に向いている。夢は唐突に、何の脈絡もなく終わる。朗読は突然終わるようなものであればあるほど良い、なぜなら聴く人に不満足感を残せるからだ。
 今朝、太田さんの承諾を受けた。鯨が映像化のために選んだのは「盤」である。中央線・井の頭線沿いに住む笑半紙フリークたちは「なぜそれを選んだのか? 」と疑問に思うかも知れない。「もっといい作品があるだろう」 確かにそうだと思う。ただ映像・画像をつけるとなると「盤」が一番面白い。あとは鯨の思い過ごしである。最初期、寝ぼけていて「盤」をボンと発音していた。「ボンのせいで頭がぼんやりして」なんて太田さん面白いなと思っていたけれど、よくよく思い返したら読みはバンだった。
 いくつもの思い過ごしを越えて【朗読工第四回】「盤」は完成した。笑半紙さんの第十四回文学フリマ配置番号はア-18だ。


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by suikageiju | 2012-04-30 19:51 | 朗読工 | Trackback | Comments(0)
【朗読工第三回】「市民プールの人魚」
 聖アウグスティヌスの『告白(上)』(服部英次郎訳、岩波文庫)の第六巻第三章に朗読工としては興味深い、有名な文がある。弁論術教師としてミラノに赴いたアウグスティヌスがマニ教からカトリックに改宗するきっかけとなった師、ミラノ司教アンブロシウスの黙読風景について書かれた部分である。
しかしながら、かれが書を読んでいたとき、その眼は紙面の上を馳せ、心は意味をさぐっていたが、声も立てず、舌も動かさなかった(sed cum legebat, oculi ducebantur per paginas et cor intellectum rimabatur, vox autem et lingua quiescebant.)。しばしば、わたしたちがかれのもとにいたとき――だれでもはいって差支えなく、来客を取り次ぐ習わしでなかったので――かれはいつもそのように黙読していて、そうしていないのを見たことは一度もなかった

 アウグスティヌスにとってアンブロシウスの黙読は珍しいものだったのだろう。アンブロシウスがなぜ黙読をしていたかには理由がある。アンブロシウスは多忙で読書に割ける時間が少なく、音読をすると「ここにアンブロシウスあり」と知らせているようなものだ。そうすると人が寄ってきて「今の部分がよくわからなかった」などと質問から入っての議論などがはじまってしまい、たたでさえ少ない読書の時間が削られてしまう。そのため自分の存在を周囲に知られないように黙読をしていた。だがアウグスティヌスは別の理由もあげている。
もっとも、彼の声はしわがれがちであったので、声を大事にすることもまた、そしてその方が黙読のほんとうの理由であったのかもしれない。(quamquam et causa servandae vocis, quae illi facillime obtundebatur, poterat esse iustior tacite legendi.)

 必要にせまられての黙読であったが、黙読をしていたからこそアンブロシウスは「文字は殺し、霊は生かす」(Littera occidit, spiritus autem vivificat)というように、書かれている内容を正確に解釈することができた、あるいはしようとした。朗読・音読は何かを習得するには向いているのかもしれない。だが、朗読によって人は正しい理解を妨げられ、正しい解釈から遠ざけられている。朗読工は文学活動ではない、単なる娯楽と酔狂である。

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by suikageiju | 2012-04-30 10:25 | 朗読工 | Trackback | Comments(0)
【朗読工第二回】「自転車売春」
 朗読は、西瓜鯨油社における文学活動の本来の意図に反する。なぜなら声に出して読むことで物語の解釈が固定化されてしまうからだ。「一つの愛とその他の狂気について」は「―そのたのきょうき―」と読んでもいいし「―そのほかのきょうき―」と読んでも良かった。でも作者自身が朗読することで漢字や抑揚などの読み方が固定されてしまい、それに准じて解釈も固定されてしまう怖れがある。この文は心の声なのか、実際の声なのか、それともその話の筋に関係のない第三者の声なのか? ぼかされていた部品が抑揚によって意味を明示されてしまう。物語は抽出者である作者の手を離れたら最早作者とは無関係なのに、朗読によっていつまでも物語が作者の手から離れていかなくなる。そうやって朗読は鯨自身の意図に抗い続けるのだ。

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by suikageiju | 2012-04-28 18:09 | 朗読工 | Trackback | Comments(0)
【朗読工第一回】「風の吹かない平原」
 文学フリマなどの同人誌即売会や古書ビビビさんなどの自費出版も扱うような書店さんで本を頒布する以外に個人の文学サークルが何をできるか? あるいは文学フリマを盛り上げるために何ができるのか? と考え、西瓜鯨油社は今流行りの朗読を試みることにした。ひとつの懸念として、鯨は滑舌が悪い。その証拠に「きゃりーぱみゅぱみゅ」もうまく発音できない。それでも朗読することで何かを伝えればいいと考える。
 この朗読企画を「朗読工」rodok'ko と名付けた。朗読にいそしむ一人の勤務工、そんな意識をもって朗読に取り組んでいきたい。

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by suikageiju | 2012-04-28 16:36 | 朗読工 | Trackback | Comments(0)
耽溺
 第十二回文学フリマに向けて牟礼鯨、鳥久保咲人霜月みつかというまったく系統の異なる三人が一つのテーマで小説を書き、一冊の本を創った。その本が『3P』であり、第十二回文学フリマ開幕の瞬間に嫐形文藝unit「鯨鳥三日」whalebird; a 3rd dayが華々しく結成された。だが、結束力のあまりない鯨鳥三日は第十二回文学フリマ閉会から一年間、地下で潜伏していた。そして今回、鯨鳥三日は復活する。配置番号E-35のブースを取得し、各人の得意分野を生かして本を創り、その本の題名は『耽溺』と名付けられた。前述のように三人は系統を異にする。唯一共通するのは、各人とも「この文章、この話を書いたのはこの人しかいないだろう」と言われる程に文体に各人なりの個性があることだ。文学フリマでは珍しい文体派という一点でのみ、三人は一致を見ている。あとは性格の不一致で空中分解寸前だ。
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 霜月みつかの著作は「キスフレ」である。舞台は女子校であり、題名のキスフレとはきっと******の略語であり、登場人物はたいてい女子高生である。そして書いたのは霜月みつかだ。こうなったら、もうあれしかない、あれしか起こりえない。女子の園に放り込まれた鯨は、ただショウジョウバエの遺伝子について思いをめぐらせている。チャイムの音は、いったい何をかき消したのか。少女未満、そして少女以上にとって必読の一章。
 その一方で鳥久保咲人の著作は「あの青い空に溺れて」である。鳥久保咲人初期三部作を思い起こさせる「幻想を現実の片隅において、僕はただ戸惑うのだ」系だ。そして読む者はある秘密を知ることになり、読み終わったとき、てらてらに輝く自らの腸をあらわにしていることだろう。「わたしは完璧に納得して逝けるのです。これほど幸福なことがありますか」諦念に諦念を重ねて、君はどこへ行く? 失った遠い記憶がよみがえる。そして明日を生きていく。
 最後に鯨が書いたのは「ローラ」である。気づいたら鯨だけ学園モノじゃなかった。これら3作がどう並べられているかは霜月みつかしか知らない。
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by suikageiju | 2012-04-27 22:49 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
第十四回文学フリマ&COMITIA100宣伝動画
 第十四回文学フリマとCOMITIA100に向けての宣伝動画。BGMはベートーヴェンの交響曲第7番。


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by suikageiju | 2012-04-27 22:01 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
個人サークルはこんなことを考えている
10時
 初っ端から差をつけられてしまった。こんなんじゃダメだ。右隣のサークルは白い布で机を覆って、透明プラスチック衝立で本を立てている。なるほど通行人から見やすい工夫である。科学文明の力だ。ブースの人間は男と女。若い男と若い女が狭いブースで椅子を並べて隣り合って座っている。今にも接吻とかしてしまいそうで不謹慎である。さっき女のほうが「今日はよろしくお願いします」と俺に声をかけてきた。驚いたので「うへええす」とわけのわからない声をあげてしまった。みっともない。俺に何がよろしくなのか、わけがわからない。でも女はその右隣のサークルの眼鏡をかけた出っ歯の女にもよろしく挨拶してやがる。出っ歯女はきょどって同じ種族であるはずの女にへこへこ何度も挨拶している。みっともない。なるほど文学フリマではこういうふうに隣の人に挨拶をする慣行があるのか。礼儀正しいお子様たちだ。そして俺のブースの上には装飾は見事になにもない。昨日印刷してホッチキス止めしたコピー本がベニヤ板の上で十冊あるだけ。一冊百円だ。値札も宣伝のための紙もない。そんなもの考えたことはなかった。左隣のブースに女が来た。太った女だ。「よろしくお願いします」そう声をかけられた。「あ、うん」そう返した。こういうことがあるだろうと思っていたし、前の女のとき程はきょどらなかった。何でだろう。なんとなく右隣を見てはいけないと思ったので顔を左に向けて左隣の太った女が本を並べるのを観察していた。変な原色の布を敷いてピンク色っぽい本を横置きしている。値札もちゃんとあるし、立てかけ看板もある。こいつ、経験者か。太った女は支度が済むと立ってどっかへ行き、戻ってきた。なんだ、トイレか。

11時
 会場のスピーカーから声が流れてきた。周囲の雑音とまざって何を言っているのかわからなかった。文学フリマがはじまるようだ。拍手が鳴り響く。なんだろう。こういうときには拍手をするものなのだろうか。右隣の男女が拍手をしている。左隣の太った女も拍手をしている。自分もしなければと思って膝の上に置いていた手を出したら拍手が終わった。ポンとひとつ柏手をうつ。俺の人生はこんなふうにいまひとつ間に合わない。それからはじっとパイプ椅子に座っていた。ブースの前を人が通り過ぎていく。俺のブースには誰も見向きもしない。右隣の男女サークルにはその男女のおしゃれさに見合うようなこぎれいな女が来ている。男と女と、何やら楽しげな、俺とは異次元な話をして、本を買って去った。その女の次にも河童みたいな髪型のひょろ長い男が来て本を買っていった。大盛況じゃないか。なんだか自分のサークルのちっぽけさを思い知らされた。本当に俺のサークルと隣の太った女のサークルには誰も来ない。太った女はずっと自分の携帯電話を眺めてボタンをいじっている。やる気あるのか、こいつ。ここは戦場なんだぞ。また右隣にはお客さんが来ている。俺の『紫露草』は誰からも見向きもされない。そして左隣の太った女も誰からも省みられることはない。2つのブースで1つの机。これはお似合いカップル誕生の兆しか。

12時
 太った女がビニル袋のなかに入った唐揚げを包み紙をちぎって食べている。商品名はたぶんファミチキだ。香辛料のにおいが鼻につく。そんな脂っこいものを食べているから太っているのだ。太った女のブースの上に並んだピンク色の本をそっと見やる。なんとなく題名がBLっぽい。太った女がファミチキを食べ終わる。紙袋がビニル袋にしまわれる。急に腹が減ってきた。そのとき独りのおばさんがブースの前に立った。男女のブースの前かと思ったら俺のブースの前だった。俺はそのおばさんを睨んだ。何をしにきたのだ。「立ち読みしてもいいですか」とおばさんは訊いてきた。俺は黙って一番上にあったコピー本をおばさんに差し出した。おばさんは手渡されたそれを読んだ。嫌な汗をかく。「一冊ください」とおばさんは言う「いくらですか」
「百円です」
と俺は答えた。おばさんは百円硬貨を机の上に置いて、そのコピー本を持って立ち去った。やっと一冊売れた。これでここに来たという面目が立つというものだ。
「売れましたね」
という声がした。誰かと思ったら左隣の太った女だった。「ああ」とだけ返しておいた。なんだ、いつからそんな仲間意識が俺とおまえの間に芽生えたのだ。男と女のサークルにはまた客がいる。本当にこいつらは。いいや、隣の芝生は青い。一冊売れたのだから、もう帰ろう。なんだか躯がだるくなってきた。俺の脳は火花を散らしている。だから脳が人よりも栄養をくって疲れやすいらしい。これは致し方のないことだと医者も言っている。そんな俺がこんなところに何も食わずに2時間もいたんだ。もう充分だろう。

13時
 会場を離れた。帰り支度をし始めたら男女がこちらを見てなにやらひそひそ話をはじめる。左隣の太った女が「もうお帰りですか」と訊いてきたので「ああ」とだけ答えておいた。見ればわかるだろ、もう帰るんだ。用は果たした。鞄に残りのコピー本九冊を詰め込んで後片付けは終わりだ。椅子をそのままにしてブースから立ち去る。左隣の太った女は「おつかれさまです」と俺の背中に声をかけた。俺はその挨拶を無視してその場を足早に立ち去った。会場の外、風が頬にあたる。どちらへ行こうか、まずは駅へ。次回はちゃんと準備をして来よう。
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by suikageiju | 2012-04-22 23:32 | 文学フリマ | Trackback | Comments(1)
文学フリマという麻薬
 望月代表に騙されているのではないのか? と文学フリマ前の沈鬱な休日に考えるときがある。来月五月六日日曜日に第十四回文学フリマが開催される。参加するからには「なぜ参加するのか?」と考えざるをえない、そして自分自身を納得させ一定の理由を与え奮い立たせなければとてもそんな場へは参入できない。人見知りではない、行ってはまた帰ってくる者だ。古代都市に入る城門を視界にちらつかせながら、カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』を読む。だが大理石の柱廊が邪魔をして文字を追えない。文学フリマに出展する作品のどれかが古典となることはあるのだろうか? まずないだろう。もしどれか一作品でもそのデータが恒星間宇宙船の図書室端末に日本語古典として列せられたとしよう。するとその他の万を越す作品は「その古典は文学フリマで売られていた」の一文に集約される。情報の収斂、それこそが宇宙時代の幕開けだ。話を人間が地球上を這いずり回っていた時代に戻す。文学フリマがなくてもモノは書けるのだから牟礼鯨としてはもちろん、西瓜鯨油社としてもやっていける。文学フリマに参加せずにちょっとした本のイベントにこまめに参加していく、そういう道もあるはずで、その道でも「体験者」(「読者」とか云う囲い込み文句はみっともない)と出会えるだろう。こうやって暇そうにブログ記事を書いていることからもわかるように鯨は文学フリマやイベントにあわせて物語データを制作していない。だから、イベントへの中毒性は他のサークルに比べて低いし、きっと大丈夫だ。そう思うこともある。でも、第十五回文学フリマへも申し込むのは分かり切っている。第十二回文学フリマあたりから「俺、午前に喫っていないからニコチン中毒じゃないから」と言いながら喫煙している隠れ中毒者のようにして文学フリマにサークル参加している。躯がもう年に2回の文学フリマなしではたちゆかなくなっているのだ。たぶん申し込みをしなかったら鯨は禁断症状にのたうちまわるだろう、事務局の申込フォームが更新されるたびにそんな妄想がわき上がり、禁断症状への恐怖そのものよりもその妄想に突き動かされた強迫観念によって紹介文と3つのキーワードを入力し、結構早い時期に毎回登録している。もうこれは精神の病であって、治療には執筆道具も書物も無しで一年間の禁固刑が必要だ。なんでこんな躯にされてしまったのだろうか。まず文学フリマの名称である。「非公式文学フリマガイドブック」の名前が出たとき理性上では「非公式」だから大した問題じゃない、と思いつつも動物としての本能が「文学フリマ」なんて名前を冠するなんて大それたことをしやがると危惧していた。同じように「文学フリマ」という普通名詞っぽい固有名詞があたかもこのイベントが創作文芸系同人即売会を、そして創作文芸界隈全体を代表するかのような印象を与える。もちろんこれは鯨の妄想であり、「文学フリマ」というのは単に文字列にすぎず、それそのものにそんな意志はないのだが、読みとる鯨の脳が「このイベントに参加しなければおまえは存在として抹消されるのだ」そんな強迫観念を与えている。あくまでもこれは事実ではない、単なる中毒者、強迫観念者の戯言そして妄想だと思ってくれればいい。存在を消されるという根拠のない強迫観念がまた次回も申込フォームを立ち上げさせる。次に参加当日である。名前も顔も知らない人たちがうろうろ徘徊する会場で「なにかを獲られるだろう」そんな夢を見てしまう。笑半紙がミスタージーンズに定着させた夢ではない。根拠と責任なき希望としての夢だ。それはたった一度の成功に味をしめ賽子の一擲ごとに大金を際限なくつぎ込むできそこないギャンブラーと同じ心境である。「今回はだめでもまだ次があるはずだ。次にはきっとなにかを獲られるだろう」とその「なにか」が何なのか分からないまま或いは決められないままただ回を重ねるのである。そして老境に達してすっかり禿あがり残った髪も白くなった鯨がお隣サークルの若い売り子さんに語りかける、すべてを悟りきったかのように、重苦しい口調で「やっぱり同人誌が売れるには表紙を工夫しないとね」なんて半世紀前から言われ続けていることを。文書データ移送機の不具合をなおしながら若い売り子さんは眉間に皺を寄せ「何を言っているんれすか、やっぱり内容れすよ」と答えるだろう。鯨は東京コスモヴィラの天井を見上げる。そうか、あれからもう50年がたったのか、鯨も老いるわけだ。第百十四文学フリマ会場の片隅でそんなことを思いながら鯨は文学フリマとともに生きた50年間を振り返る。いろいろなことがあった。何かに憑かれたように中毒になったかのように参加していた。結局何もえられなかったし、何も成長しなかった。会社からはリストラされた。今では空港のトイレを掃除して日銭を稼いでいる。子はいない。けれど、まあいいじゃないか。所詮、現実に希望なんてなかったんだから。頬を涙が伝う。いろんな人の顔があらわれては消えていく。あのとき、と鯨は2012年4月22日を思い返す。あのとき、自分の病に気づいてその治療に専念していたら文学フリマへの参加を数年でいい、やめていたら、そして思い切って文学フリマから身をひいたとしたらどうだっただろう? どんな人生だったのだろう。そのとき開場の挨拶音声が流れはじめ、望月第一書記のホログラムが会場を圧するように映し出される。養老宇宙船で銀河の彼方へと旅立ってしまった初代と同じように脂ぎった無性生殖の三代目が宇宙時代の文学フリマについて弁を垂れる。そして会場には拍手の電子音が鳴り響く。もう若い人の掌の皮膚が薄くなりすぎて生拍手をすると皮膚が爛れるのだ。年季の入った自らの掌の音を骨伝導で聞きながら鯨は自分の回想にケリをつける。そうだ、たとえ文学フリマに参加しなくなったとしても鯨は鯨である。きっと似たり寄ったりの人生を送っていたことだろう。だからこれで良かったのだ。文学フリマという麻薬に浸りきった人生で良かったのだ。拍手が鳴り止む、一般入場が開始される。それにしても、百回以上聞いてもこの開場時の拍手はいいね。胸が安堵感で満たされる。文書データ移送機をやっと直し終わった隣の売り子さんが鯨に声をかける。
「何回目の参加なんれすか?」
 鯨は「だいたい百回だ」と答える。
「すごいれすね」と売り子さんは目をしばたたかせる。
「次回はコミティアと同日れすけど次回も参加されるんれすか」
「もちろん参加する」
 と鯨は言ったあと売り子さんの返事を待たずに語をつないだ。
「何回でも参加してやるさ」
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by suikageiju | 2012-04-22 18:18 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
それでは、眠れない夜を
 第十四回文学フリマ出店サークル一覧が公表された。休日につらつらと全サークルを眺めていると面白い。バルセロナ便を待つ空港の待合室を連想させる。【E36 西瓜鯨油社】の紹介文には“「本というモノに対価を払う人」よりも「読書体験に対価を払う人」向きの文学結社”と書いてある。紹介文を書いたときの心境はあまり覚えていないけれど、きっと購入者に「それでは、眠れない夜を」という言葉を投げつける宣言だろう。
 弊社の本は『物語群』や『ガリア女』をはじめとして装丁もパッとしないし、かわいらしさなんてひとかけらもない。他サークルさんの表紙は本当に美麗だと思う。装丁など見栄えも含めて本だ、そういう意識の高さを感じる。弊社の場合は昔「こういう表紙の方がシンプルでいいですね」と褒められたのもあるけれど、本という道具に文章を運搬する機能しか期待していない。だから、西瓜鯨油社が同人誌即売会に出たときに「本を売っている」などとはとても言えない。本を期待して弊社ブースに来た人をがっかりさせて帰すことになるからだ。ましてや文章なんて売っていない。文章そのものは価値のあるものではないからだ。そうすると弊社は同人誌即売会で「読書体験を売っている」としか言えない。
 紹介文は弊社の欠点を暴露する苦肉計である。だから購入者には「ありがとう」などといった感謝の意は示さない。彼らは装飾品としての本を買ったのではなく、ただ読書体験のために対価を支払い自分自身の未来における数時間の精神状態を操作しようとしたのである。だから購入者には「それでは、眠れない夜を」、そんな言葉を投げつける。その顔に、その背中に。
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by suikageiju | 2012-04-21 21:18 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
『物語群』増補改訂版入稿、根津メトロ文庫にて
 増補改訂版となる『物語群』第二版を昨日入稿した。第一版は500頁だったけれど、今版は568頁になる。「それだけは言わないで」「浄められた花嫁の告白」など数篇が新しく収録されている。ちなみに『物語群』に収録された「浄められた花嫁の告白」は、『浄められた花嫁の告白』に収録された「浄められた花嫁の告白」とはまったく違う内容になっている。比べて読むと共通点を見つけられるかもしれない。
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 高校生・大学生だった鯨は「究極の一冊」を探していた。長期間の鉄道旅行でこの一冊だけ鞄に忍ばせておけば事足りる或いは救われる、そんな聖書のような一冊を追い求めていた。その一冊はきっと読む度に毎回違う感覚に浸ることができるだろう、きっと自分の成長とともに毛並みを変えていく本になるだろう。きっと無人島に持って行きたい一冊になるだろう。そんな書物との出会いを想像してひとり興奮していた。でもなかなか出会えるものではない。ボルヘスの『伝奇集』かなと思ったときもあった。でも違った。サド侯爵の『美徳の栄え』かなと思ったけれど分冊だったので北沢書店でGrove PressのAustryn Wainhouse訳Julietteを買った。でも違った。いつしか「究極の一冊」を追い求めることを諦めていた頃もあった。King James版のBible、これなのかなと改宗の準備をすすめていた。だが、そんなある日、気づくのである。既存の出版社や作家が「究極の一冊」をつくらない/つくれないのであれば自分で「究極の一冊」をつくればいいのだと。そして西瓜鯨油社が設立された。その文学結社で「究極の一冊」のために試作されたのが『掌編集』『複雑系』であり、道を外れたのが『コルキータ』であり、そして究極を志して制作されたのが『物語群』である。西瓜鯨油社の本は基本的に文庫サイズだ。表紙は目立たないようにそして読者自身で装丁できるように地味、気が散りやすい鉄道旅行で読みやすいように掌編や短篇を多数収録している。今回の増補改訂でもこれらの意志は継承されている。『物語群』が「究極の一冊」なのかどうかは読者の判断に委ねるが、鉄道旅行者あるいは旅人のための一冊となっているのは確かだ
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 また、『物語群』には通勤通学で電車を利用する職業人や学生生徒が電車のなかでボロボロになっても読み続けられる、再読・再々読に堪えうる耐久性がある。おまけに職場や学校で「人間」としての姿を求められてうんざりした人が帰路に痴漢をして盗撮をして強姦をして法で裁かれたとしても、文学的に自己正当化できるような内容にも仕上がっている。『物語群』は旅人のためだけの本ではない、自分の運命に抗いきれない職業人や学生生徒のための本にもなっている。そこで鯨は今日、千代田線根津駅は根津メトロ文庫へ行き、『物語群』第一版を置いてきた。この本が泣きながら通勤通学する誰かを救うことになればいい、そんな願いをこめて。こんなふうに、もうすぐ次の版を出そうかというとき、古い版を国会図書館に納品するのもいいけど根津メトロ文庫に在庫の数冊を置いておくと面白いかも。文芸同人誌の集まる地下鉄文庫として話題になればなお良し。改札を出なくていいので千代田線に乗ったときにぶらりと立ち寄るといい。
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 『物語群』収録の掌編のほとんどは鯨自身が読み返してもとても自分が書いたとは思えない。冒頭の「都市」という掌編は2006年11月に「街」という題で書かれた掌編がもとになっている。

 すさんだ心で、灰色の排煙でくぐもった街を歩いていると、なぜだろう、頬を蒼い涙がつたう。硝酸の雨が人々の肌を傷つけ、硫黄性の大気が肺を浸していく。道ばたで若い女性が強姦されていても道行く人は振り向きもせず、黒色の外套の襟に皺だらけの顔を深く沈めて通り過ぎる。老婆が四頭馬車にはねられて腐敗した肉片が通りを赤く染めても、誰も足を止めたりはしない。ただ機械と化した人の動きだけが無機的にそこにはある。そんな街のなかで、かすかでも人の心のあたたかさに触れると、人はどこか優しい気持ちになれる。


こんな文章は今の鯨には書けない、他人が書いたとしか考えられない。その思いは数ヶ月毎に読み返す度に更新されていく。そういった意味で、少なくとも鯨にとって『物語群』は「究極の一冊」なのである。鯨の例のようにすべての人にとって『物語群』がすぐに「究極の一冊」になることはないだろう。だが研鑽と修練とを積み、波長を合わせていくことできっと『物語群』はあなたの枕頭の書になるはずだ。その枕が刑務所の枕ではないことだけを鯨は祈る。
 『物語群』はCOMITIA100(ひ14b)と第十四回文学フリマ(E-36)で頒布する。
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by suikageiju | 2012-04-15 17:26 | 文学フリマ | Trackback | Comments(1)