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突き抜け5
 男が好きな女の子に言われて一番喜ぶ言葉は「おしっこが出るところと精子が出るところって同じなの? 」だという。なんで初っ端からこんな言及をしたのか自分でもわからないけれど、突き抜け派は文学フリマ派系サークルの雄として知られている。ちなみに雄とか言っておいて他の派系は破滅派と耽美派ROOMくらいしか鯨は知らない。「読んで楽しい」合同誌ではなく「読むのが楽しい」合同誌と言えるだろう。読んでいて分厚い鉄板が胸に蓋をする感覚を味わえる。だから、こういう合同誌があって良かったと思う。
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ドナルドダックとコーヒーをひのじ
 りょうこさん(さっそく平仮名にしてみましたよ)のコンプレックス描写が鮮明で、占いの読解とか魔法使いサリーちゃんごっことか「そうそう女の子ってそうなんだよね」とかつてダメダメ娘だった季節を思い返してしまう。本を読んで気分が沈むって、なんか悪いことのように聴えるけれど、そういう話が心地良いときもあるんだよね。ああ、なんか自分、気分沈んでいるなって。そう、音がぴきぴきとするくらいの。最後、二人の距離がぐっと縮まる描写が実体験と近くて個人的「イイネ!」ボタンを連打した。

チャモンしーなねこ
 何が起こったのか分からないけれど変だなあって、そう思う。

眠るのにいい時間イガラシイッセイ)
 境界線が曖昧。

時空のおっさんたかはしりょうた
 登場人物が無駄に豪華。
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by suikageiju | 2012-11-30 20:48 | 感想 | Trackback | Comments(0)
頑張って育てているキャラクターを下劣にねじ曲げられる作者の痛み
 文学フリマ、と仮にも「文学」の名を冠するイベントにサークル参加して文学作品を世に問う文学結社の一員である以上、記録として残しておくべき出来事があったのでここにブログ記事にさせていただいた。

 2012年11月18日、第十五回文学フリマで千円札を右手に握りしめた鯨は東京流通センターの2階、「絶対移動中」ブースの前に立っていた。ある密告者から「霜月みつかが上で『それでは、眠れない夜を』って言っているよ」と聴いたからだ。それは弊社が同人誌即売会で独自に使用する文句であり、一週間前から何時間も掛けて顔芸を鍛えてきた末に披露しているもので、素人が何の下積みなしにやっているなんて許せないと思ったのだ。その数分後、鯨は絶対移動中の新刊と眠る犬小屋さんの『後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む』を購入してエスカレーターを下りていた。

後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む

青砥 十 / 密林社


 11月27日、20時ごろに『後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む』を読み終わって楽しんだ鯨は、この本についても感想を書くべきかを考えた。必ずしも読んだ全ての文芸同人誌の感想を書いているわけではないからね。思考の末、書くことにした。そしてこの本をもてなすのに一番ふさわしいとたどり着いたのが二次創作風感想だった。ありきたりな感想なんて今さら誰も求めていないだろうし、渾身をこめて書いただろう作品のリアクションとして二次創作を書かれれば青砥十さんも喜ぶだろうと思ったからだ。己の欲する所を人に施せ、である。自分の作品の二次創作が出回る。文芸同人作家にとってこれほどの喜びがあるだろうか。
 そこで書いたのが「後輩書記とセンパイ会計、普通の体位に挑む」というブログ記事だ。ちょっぴりエロ風味になって書きあがったのは21時過ぎになった。青砥さんがこの記事を見つけて喜ばれる様を想像しているといてもたってもいられなくなるくらい嬉しくなる。それからしばらくAKBINGO!のこととかタトホンのこととか考えて時間を潰していた。そして午前0時前にTwitterを見るとその記事へのリンクを霜月みつかがRTしていたので公式RTした。ふと気付くとダイレクトメッセージが来ていた。立て続けに3通来ていた。
まったく笑えない冗談です。即刻削除していただけますでしょうか。よろしくお願いします。 @sleepdog

あなたはキャラクターを何だと思っていますか?今後二度と関わることはないと思います。せめて罪悪感があるのなら、とにかく即刻削除をお願いします。 @sleepdog

今日はインターネットにはまだ接続されませんか?不快きわまりなく、また絵師にも大変失礼で申し訳ないので、早く削除してください。エキサイトにも問い合わせてみます。ご自身の良識を疑ってください。よろしくお願いします。 @sleepdog

青砥さんだ!と思って嬉し恥ずかし感謝メッセージと期待して読んだら「ええええっ!」と驚くような文面だった。それは二次創作風感想「後輩書記とセンパイ会計、普通の体位に挑む」に対する『後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む』作者・青砥十さんからの削除依頼だったのだ。鯨は
キャラクターはコンテンツとは思っています。敬意こそあれ、罪悪感は特にありません。削除を希望されるのであれば削除いたします。 @murekujira

とダイレクトメッセージを返した。そして記事を削除して公式RTとTweetを削除した。基本的に鯨は削除依頼があればその記事を掲載し続ける確固たる理由がないかぎり応じることにしている。今回も掲載し続ける理由がないのですぐに応じた。また青砥さんからダイレクトメッセージがあった。
そうですか。意味がわかりませんが、とにかく削除してください。それだけで結構です。よろしくお願いします。 @sleepdog

削除を確認しました。ご対応ありがとうございます。m(_ _)m
拙作のご購入とお読みいただいたことは感謝いたします。ただ、頑張って育てているキャラクターを下劣にねじ曲げられる作者の痛みをどうか覚えておいてください。
なお、エキサイトの問い合わせはまだでした。さようなら @sleepdog

この返信は送れなかった。ブロックからのブロック解除である。
 注目すべきは青砥さんのキャラクターへのこだわりについて、である。きっと何作品にも後輩書記のふみちゃんや数井センパイのキャラクターを登場させてその人物背景やら隠されたストーリーやらを練り込んで今に至るのだろう。しかし、その努力がたった一本のブログ記事で「下劣にねじ曲げられる」と考えるのは鯨への過信であり、そしてご自身の力量への過小評価である。キャラクターはコンテンツに過ぎない。単に消費して時には浪費するだけの情報に過ぎない。もしあの記事が仮にキャラクターを「下劣にねじ曲げられる」ような情報と力を秘めていたとしても、本編作者であるならば更にそれを凌駕する情報と力で覆せばいいだけなのに。そういえば、あの記事については「本編より面白い」とコメントを寄せてくれた人もいた。鯨も作者に感謝の意味をこめて本編より面白くなるよう丹念に書いた。だからこそだろう、「頑張って育てているキャラクターを下劣にねじ曲げられる作者の痛み」は理解できないけれど「頑張って育てているキャラクターを下劣にねじ曲げられる作者の弱さ」はなんとなく分かる。
 そして文学フリマ出展作品の感想の在り方である。もちろんネットにあがってくる感想については作者が期待していたものではないことなんて多々ある。だがそれについていちいち削除を要請するのは文学に携わる者としては恥ずべき行為だと鯨は思う。正当な論拠があるけれど気に入らない感想であればさらに良い作品を提出すればいいだけだし、弱点だらけで気に入らなければその感想を文章で批判すればいいだけだ。筆執る者でありながら、相手の口を封じて平穏を手にしようとするなら右手の筆は錆び付くだけ。

 最後に、西瓜鯨油社の刊行物については二次創作は大歓迎なのでどんどんやってね。コルキータも澤田彩香も、子宮をえぐってもいいし、船員全員で輪姦してもいいし、痴漢の餌食にさせちゃってもいいよ。それで一定のレベルを超えたら西瓜鯨油社から出版する。原稿料は払わないけどね!
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by suikageiju | 2012-11-28 07:00 | 自己愛な人 | Trackback | Comments(0)
後輩書記とセンパイ会計、普通の体位に挑む
 開枷中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば、遊郭吉原の遊女ながら六代目高尾太夫のように大名家に身請けされ、性技を尽くして奉仕していたかもしれない。ふみちゃんは小学校時代、同じクラスの男子十五人と四十代後半の先生をみんな一分以内で射精させてしまった上級者だったらしい。もちろん口とか手だけではなく、江戸四十八手と女の子なところを駆使して致したという。そんなふみちゃんが仰向けに寝ている上でなんとか余ったところをふみちゃんの足りないところに挿し入れようと努力している一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの童貞で、数学が得意な理屈屋で、女の子とは小学校の修学旅行でマイムマイムを踊りながら手を繋いだ思い出しかない。
 十一月二十七日、ふみちゃんの生理が終わった日である。思えば二日前、なんとなくそんな雰囲気になった僕とふみちゃん。やっぱり男らしく自分から行こうと生徒会室から離れた渡り廊下にさしかかったところでふみ
ちゃんを誘った僕だったけれど、ふみちゃんは「数井センパイ、ごめんなさい」ときっぱり断ってくる。えええ、鼻毛とか出てた?

「そうじゃないんですけど、ちょっとわたし、女の子の日なんです」
「それって、どうとでもなるもんじゃないの?」
 そんなことをなんかのエロ本で読んだような気がする。
「数井センパイ、違います。生理中の女性は穢れと呼ばれて鳥居をくぐることもできないんですよ。だからダメです。」
 ピシャリと言い渡されてしまった。鳥居と言えば、ふみちゃんは家が神社だった。でも今どき穢れって、どうなのだろう。でも嫌がる女の子を無理矢理押し倒したら、きっと生徒会にはいられないと思う。それに自分の欲望に負けてそんなことをしたら二度とふみちゃんの顔を見られないだろう。そんなのは嫌だ。

 そして立ったりしゃがんだり座ったり起きたり寝たり立ったり座ったりした二日間、やっとやってきた放課後。待ちに待ったふみちゃんとの体育館用具倉庫である。バレーボール部の練習が終わって誰もいない隙を見て倉庫に入り込んだ僕は着ていた服を脱ぐとふみちゃんのスカートも脱がせて小さな体を体操マットの上にゆっくり横たえさせた。マットの上に、いつもの白いリボンでくくられた、つやつやな髪の束が広がる。鼻腔にふみちゃんの髪のいい匂いが漂ってくる。その匂いに意識が飛びそうになった僕は焦ってふみちゃんのシャツを上におしあげた。水色のブラジャーに飾られた小ぶりな乳房の形が露わになる。
「かわいいね」
 と僕が言うと、ふみちゃんの仔猫のように小さい顔がぱあっと赤くなった。僕の男の子なところは我慢できなくなって幾度となく腹鼓を打っている。
「じゃあ、いくよ」
 そう言ってふみちゃんのパンツを脱がせた。でも全部脱がせられなくて片方の足首にかけたままになってしまう。もうしかたがない。心臓が口から飛び出そうで、ふみちゃんの女の子なところはとても見ていられなかった。もう頭がぼわっと沸騰して、気ばかり焦り、そのまま腰を沈ませようとした僕、でも
「センパイ、待って下さい」
 と止めるふみちゃん。
「どうしたの」
 と訊く。まだ濡れていないとか、そういうこと?動きを止めた僕。僕の動きを止めたふみちゃんは、おおいかぶさる僕ではなく僕の肩越しに何か別のものを見ている。
「数井センパイ、センパイの背中に乗っている子は気にしないで下さいね」
「え、背中って」
「センパイ、重くないんですか」
 特に背中には何も感じない。でもふみちゃんはやっぱり僕の肩越しに何かを見ている。
「背中に誰かいるの」
「はい」
 そこから噴き出す状況説明は雑だった。おじいちゃんみたいな顔をした子供が藁で編まれたレインコートを着て僕の背中につかまっているらしい。困った。これはやばい。楽しみにしていたふみちゃんとのアレコレはまだ始まってもいない。それなのにふみちゃんは普通から逸脱しかけている。そんなことを思っていると上背を支える僕の両腕がだるくなってきた。
「あ、重い」
 そして急に背中が重くなる。何だろう、背中に漬け物石を置かれたように重いんだけれど。正体不明の重さに押されるように自然と腰が沈む。
「あっ」
「あっ」
 うるんだふみちゃんのつぶらな瞳と目があった。僕の余ったところがふみちゃんのよく濡れた足りないところにスッとうまい具合に入った。ふみちゃんが細い両腕を、誰かがつかまっているという僕の背中に回してくる。二人のお腹がぴったりとくっついて気持ちいい。ふみちゃんの肌はつるつるしていて綺麗だ。目の前の景色が反転しそう。でもついさっきまで童貞だった僕はこれからどうしたらいいのか分からない。だから、あとはふみちゃんの腰の動きに身を委ねるだけだ。

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by suikageiju | 2012-11-27 21:10 | 感想 | Trackback | Comments(0)
甘いものは別冊1
激甘な3人によるチョコレート・アンソロジー。チョコレート・アンソロジーというと、毎年最初のコミティアがたいてい2月開催になっていて偶然バレンタインデーと重なったり(たとえば2010年のCOMITIA91)、前後になったり(2011年のCOMITIA95)するとチョコレート・アンソロジーを企画して結局企画倒れになるサークルが多いと思う。弊社もCOMITIA91にて勘違いも甚だしいチョコレート・アンソロジーを企てて『Ĉokolado』を刊行している。その中の一篇を電子書籍化したのが『ペレイッラとカカオの森』である。さて、今回のチョコレート・アンソロジーに各人の字数制限はあったのだろうか。

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ちょこあ~んぱんまでスリーマイルⅠ(今村友紀)
企業体描写が細かくて読み応えあり。続編に期待。

ゴッド・ブレス・ガルボ(渋澤怜)
もっと話をスリムにして、N「実はアルフォート、あれは僕のうんこなんです」とオチをつけちゃうと星新一になっちゃうから、この作品を渋澤怜たらしめるためにはこうするしかなかったのだろうか。でもそれが「渋澤怜らしさ」だとしたら単なる自己矮小化だ。無理をして奇異を追いかけることはない。

きっと負ける(吉永動機)
140頁をあけて2行目にさしかかった途端、コメダ珈琲三軒茶屋店中に響き渡る声で「どっかーん!」と叫んだ。この本に収録された三作品で「どれか選べ」と野条御大に命じられたら消去法でなくてもこれを選ぶ。長さと話とで過不足のない作品。作話能力に定評あり、としていいのだろうか。諸賢の御批判を待ちたい。
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by suikageiju | 2012-11-27 16:21 | 感想 | Trackback | Comments(0)
エヴァンゲリオン的なものとの戦い
 先週の火曜日、錦糸町で新劇場版ヱヴァンゲリヲンQを鑑賞した。そして10年以上続いたエヴァンゲリオン的なものとの長く冷たい戦争を思い返した。

 1997年4月中学生になった途端にエヴァ・ブームのまっただ中に放り込まれた。それまで世田谷区西部の田舎小学校に通っていたので、級友は誰もエヴァの話をしなかった。少なくとも小学校でエヴァについて話した記憶がない。なので鯨はエヴァも「疾風!アイアンリーガー」のようにマイナーなロボットアニメの一つなのだと思っていた。でも中学校では「エヴァ」が共通語だった。鯨は知らなかったけれど、まだ小学生だった3月に劇場版「シト新生」DEATH編が封切られていたのだ。夏休みの学校では床にエヴァのカップラーメンが捨てられ、教卓の上にはプルタブの開いたエヴァ缶が並び、机の上には作りかけのタミヤ・ウォーターラインの駆逐艦《綾波》が飾ってある状態。その年の7月に劇場版「Air/まごころを、君に」が封切られた。1997年はエヴァの年だった。その当時中学生だった者にとっては当然のことだけれど、鯨はエヴァ全26話のセリフを一人で再現することができた。エヴァの世界には彩りがあった。誰もがエヴァを知っていた。アスカもレイも魅力的だったし、シンジは長年の友人のようであったし、バルディエルとゼルエルとタブリスのストーリーは思い返すだけで涙がこぼれたし、本や雑誌やネットを漁れば次々と情報は出てきたし、同人誌も次々と刊行された。何度 「最低だ、俺って」と呟いたことだろう。常にエヴァの世界は動いていた。その話題をすれば誰かが食いついた。そこにいるだけで寂しさを感じることはなかった。
 同時に中学生時代と言えば『春秋左氏伝』だった。岩波文庫の『春秋左氏伝』を何度も読み返し、必要があれば明治書院の新釈漢文体系をあたって原文や関連書を確認する中学生時代を送っていた。そして麇国滅亡後の漢水流域における秦楚蜀の勢力争いや淮水流域における鄭斉晋楚の勢力遍歴、邑の統治機構、諸侯間や夷狄間の儀礼、南方諸侯文化について調べていた。情報は図書館にいけば見つけることができたけれど、ネット上ではまだそんなに情報が転がっているわけではないし、友人に「夔邑が蜀楚外交そして江水流域情勢に与えた影響について語り合おうか」と持ちかけても、「それって杞憂の杞のことか」と問い返されるだけで、それならと「斉の近くには杞の他にも紀という国があった」という話題に転換しても「なんだそれは」と不思議がられるだけ。エヴァと違い『春秋左氏伝』では誰とも話ができないし、色彩はと言えば紙の白とインクの黒と緑青に覆われた青銅器だけだ。しかし決して面白くないわけではない。春秋は簡潔な数語の漢字だけで倫理を示し、大義を掲げ、国の命運を変える。決して饒舌ではないが、注釈書を読めば分かるように幾つかの選択肢からたった一つの語を選択する行為によって百語を費やしたかのような文意を相手に伝えることができる。簡素な言葉で錯綜する歴史を描写している知の力に鯨は涙した。このように『春秋左氏伝』の世界は寂しいけれど、冷徹で静かな感動がある。当時の鯨は気付かなかったけれど、その感動は優れた古典文学ならたいてい埋め込まれている純文学の古典的原型であった。
 エヴァをはじめとするアニメーションやライトノベルの豊かな語彙とストーリー展開などによる娯楽性、そして『春秋左氏伝』や古典文学作品のように言葉だけで胸を締め付ける純文学の芸術性、鯨の中学高校時代はこれらサブカルチャー(=エンターテインメント)と純文学という文化の両極を行ったり来たりする日々だった。もちろんサブカル(=エンタメ)の根底にあったのは芸術性であることは明白であったし、純文学に必要不可欠な要素はエンターテインメント性だった。どちらも一方だけでは存在し得ず、根源は同じで、唇亡歯寒の関係である。だがある時点で鯨は決めた。人生において、純文学を主体とし、サブカル(=エンタメ)を誘惑と見なす、と。それからは戦いの日々だった。エヴァ・ブームが去ってもアニメを観る誘惑からは決して逃れることはできなかったし、いくらアニメ鑑賞とエロゲーに費やした時間を「非文学的な時間」と軽蔑しても、その罪業は皮膚にこびりついて洗い落とせない。きっとその誘惑と欲望の渾然一体は多くの人がサブカル(=エンタメ)に浸る理由と同じように愛の希求行為だったのだろう。断ち切れぬライトノベルや月姫への誘惑を異物と見なしながら、なぜか観てしまう涼宮ハルヒ。苦悶と暗闘の日々を過ごすうち、サブカル(=エンタメ)がとうとう膝を屈した。あれほど面白かった西尾維新を読んでもつまらなく思い、アニメへの関心が失せ、まどかマギカも楽しめない。それを寂しいと思う反面、とうとうこの局面を迎えたのかと喜んだ。それは鯨の創作が一つの段階を這い上がった瞬間である。エヴァンゲリオン的なものとの長い戦いがやっと終わったのだ。

 ヱヴァQを観終わって、楽しんで体力をすっかり奪い去られたけれど、興奮はしていない自分を見つけ、鯨はひとり笑みを浮かべた。その平穏は10年の成果だ。では次の10年の課題とは何か? それは一度打ち克ったエヴァンゲリオン的なものを受け入れる作業である。
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by suikageiju | 2012-11-26 21:33 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
文学的存在について銀河系最強が語る
秋山真琴さんが第15回文学フリマで出会った本について語るときに自分の語ることにおいて次の同人誌の感想に行く前に鯨について、文学的存在について語った。
ところで、次の同人誌の感想に行く前に、脈絡なく牟礼鯨さんについて語りたいと思います。あるいは文学的な存在について。秋山にとって、文学というのは、新奇さの別称です。読み手の中には、文学という概念は、非常に古臭く、小難しく、やたら高尚かつ迂遠な表現を多用する、面倒で煩雑な読み物だと判じている方も見受けられますが、秋山の評価は、完全に逆です。実際に読んでみると全然、高尚でない。ときに乱暴だし、ときに適当だし、むしろ、そういうリズムが心地良い。さておき、文学というのは、ある種、禁忌を犯す勢いで、新奇さ、斬新さを追求している領域だなあと考えています。平易な表現をすると、ロック。一応は、上品な言葉で飾っていたり、あるいは飾っていなかったりしますが、本質にあるのは破壊であり、創造であり、それがセックスだとかバイオレンスだとかディスコミュニケーションだとか、まあ、そういう形を装って表現されています。実際、この手の表現は疲弊を伴います。自分で自分を切りつけて、吹き出た血を絵の具代わりにして絵を描くような行為。そういう自傷的な行為を自覚的なり、無自覚的なり取っているひとを、文学的な人と呼んだりしています、なんとなく。自己顕示欲が強く、他者を自分の物語に落とし込まないと納得できず、破滅的で自滅的で、そして何よりも貪欲。そういったひとを見ているとね、諸君、我が家の猫を思い出しますね。猫と一緒に暮らしているのですが、普段は、実にぶっきらぼうなんですよ。撫でてあげようと近づくと逃げるし、抱きかかえると嫌がります。それでいて、こちらが疲れきって布団に倒れこんだときに限って、近づいてきて顔の前で丸くなったり、上に乗っかってきたりするんですよ。この傍迷惑さ、なんとかならないのでしょうか。ツンデレ属性持ちには快感なのかもしれませんが、正直なところ面倒なだけです。

文学的存在は他者としてしか認識できないので、「牟礼鯨」コンテンツは鯨にとって「ありきたりなもの」でしかないし、判断しうる対象ではない。ちなみに現在生存している文学的コンテンツとして鯨が堪能させてもらっているのは森井聖大(何故?)さんである。
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by suikageiju | 2012-11-26 12:55 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
領域
「痴漢はお好きですか?」
犬尾春陽さんが『月夜』と『領域』を以て鯨の本と交換しようと持ちかけてくれたとき、鯨はこう尋ねた。これは間違いだった。同性愛や少女性愛のように、痴漢は誰の隣であろうといつの間にか佇んでいて、優しく微笑んでいる存在だ。その属性に好きか嫌いかもない、あるのはその個人特有の人間性が好きか嫌いかだけだ。あたかも同性愛者や少女性愛者が他者や社会の反応によっては規定されないように。交換劇からしばらくして高村暦が弊社ブースにおとなった後で「さきほどお渡しした『領域』には唖の少女が出てきます」と犬尾春陽さんは笑顔で教えてくれた。暦が犬尾さんを楽しませることができたのであれば僥倖と言えよう。
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 7頁に「この子、どうせ喋れないんだもの。わたしが何を言ったって一緒よ」という台詞がある。これ、すごい。自分が何も「傷つく」ようなことを言われないのなら、自分は誰かを「傷つける」ような言葉を吐いてもいいのだという発話者の傲慢さをたった一言で巧みに表現している。そして「お金のことは大丈夫」なのに「どこの家も他人の娘を育てるような余裕はない」という一瞬矛盾のように読める箇所は読者を立ち返させる表現だ。こういう場合、一般にはお金だけ預かって例えば寝る前の虫歯予防の蜂蜜水を単なる砂糖水にすり変えるインチキをしてでも費用を浮かせて私腹を肥やし、その娘が虫歯になるのも構わず放っておく。そんな一般性〈里子〉理論を打ち破るほど、少女はこの一族に疎まれていることがこの文から浮かび上がる。なかなかの技巧派である。犬尾春陽、抜きん出た語り部だ。
 どういうキッカケになるのかは人ぞれぞれなので分からないけれど、男性は一生で一度だけこの作中のような少女を抱えることになる。不幸そうで、誰からも愛されていなさそうな、可哀想に見える少女を。だから彼女には自分が必要なのだと男は勝手に思いこみ、一生に一度だけの本気でその少女を愛する成り行きになる。しかしその少女を愛する人は他にちゃんといて、そして少女が在るべき場所もちゃんと別に用意されてあって、そして男はやがてすべてを奪われ絞り尽くされた後で手痛く裏切られる。ドストエフスキーの"Белые ночи"やフランス映画の「Quatre nuits d'un rêveur」を思わせる後味の悪さにもう一人の鯨は泣いたと聴く。
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by suikageiju | 2012-11-25 19:17 | 感想 | Trackback | Comments(0)
山のモノ
「突然!鬼との共同生活」のライトノベルというと、今流行りの学園&同棲ライトノベルなのかと思うかもしれないが、断じてそんな甘いものではない。みすてーさんの女房役と言えば聞こえは良いだろうMildさんのとれたて怪奇ライトノベル『山のモノ』。
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これは正統派怪奇物と思いきや、まさかのエロ展開。「逸物は正直じゃぞ」で(ち、父上……母上っ……!!)はのけぞった。これ、どんな顔をして書いたんだろう? しかし古事記と桃太郎伝説の故事を融合させての対魔戦術考証がしっかりとなされた鬼退治、そして思わず天を仰ぐ結末。何だ、さらっと読めて楽しめる。あっぱれ「柊草子」、めでたしめでたし。
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by suikageiju | 2012-11-25 17:25 | 感想 | Trackback | Comments(0)
ゆらし、
なんとなく晩夏の平日、昼下がりに書かれたものだと思った。詩に添えられた写真の色合いが安っぽいけれど鮮明で、あの夏の日の立ちくらみを思い出す。セカンドインパクト後のいつ終わるとも知れぬ夏のような。なんとなく晩夏の平日、昼下がりに書かれたものだと思った。強烈な日射しから逃れ、扇風機をつけたけれどまだうだるように暑い畳の部屋で、二人の熟女が全裸で過ごしていて、くたびれた肌を汗で濡らしている。そして気がついたように短い舌で互いの汗を舐めとりながら、口から言葉を放つ。蚊取り線香と食べ残しの西瓜のまざった匂い。時折ずんぐりした方が白痴のようにカメラを片手に縁側から外に出て、ゆらゆら揺れる指でシャッターを切る。
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 「長野まゆみの『夏至南風』は読んだことがある? 」
そう訊かれた。
 「読んだことない」
そう応えた。
 問いかけたのは恣意セシル? いいえ、泉由良、西の魔女。
「では東の魔女は誰なの?」
 秘密。蝉も鳴かない夏に。
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by suikageiju | 2012-11-25 08:58 | 感想 | Trackback(1) | Comments(0)
月夜
 遅れて10時30分ごろに自分のブースへ行ったとき、すでに犬尾春陽さんのブース設営は終わっていたと記憶している。横目で見たとき和装の麗人だな、と思ったら洋装だった。もし頒布されているすべての本の表紙が、犬尾さんを斜に構えさせ写したブロマイドに題字を添えたものであったとしたらとても売れたことだろう。しかしきっとそうはなさらないだろうし、そうしないだけの矜恃を支えるに足る自信がきっとおありだと思う。ちなみに和装だったのは犬尾さんではなく犬尾さんのブースを訪れていた松尾憂雪さんだった。過去と未来、男と女を錯誤したのだ。
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実は夏目漱石の顔を思い浮かべながら先生の「アナベルの夢」のくだりを読んでいた。そして、冷徹な筆致でありながら夢と現との境を徐々に曖昧にぼかしていく語りに魅了される。現で読んでいたかと思ったら、いつの間にか夢の中で続きを読んでいた。夢日記を書けばわかるけれど、夢で出会った少女というのはそれが誰であれ、そして誰でもなくても、特異な存在である。それは夢日記仲間の作中人物・茶倉遊女で例示するまでもなく、そうなのだ。その特異点に因ってその夢を去りがたくなり、ずっと夢に浸っていたいと思うくらいに。もう二十三時になった。鯨もあの娘に会いにいくとしようか。「それではあなたの望む夢だけを」この本を手渡されたとき、そう呪われたような気がしてならない。
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by suikageiju | 2012-11-23 23:05 | 感想 | Trackback | Comments(0)