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トニー滝谷と孤独
 服を余り持っていない女の子が好きだ。それはいつも同じ服を着ている自分と同じような女の子が好きだという同属愛の理由からではない。いつもと同じ服を着ていると安心するからという理由でいつも同じ服を着ているように、いつも同じ服を着ている女の子を見ているとなんだかこちらも安心するからだ。ただ、世の女性にとり幸運なことに鯨は服を余り覚えていない。たとえ今日と明日とで同じ服を着ていても違う服だったと記憶するだろうし、昨日と今日が違う服であったとしても同じ服を着ていたと覚えている。服は脱がせるものであって記憶するものではない。
 女性が服を選ぶとき、その服を男性がどのように脱がすのかと想像しながら試着していることだろう。もしそんな想像の楽しみが無ければ、女性は太古より裸身であったことは文化人類学者でなくても聖書学者でなくても容易に推定しうる。けれど女性の服が織り成すパズルは、智慧のある男にしか解けない。

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

村上 春樹 / 文藝春秋


 村上春樹は短篇の作家である。これは氏の長篇より氏の短篇の方が面白いからといった理由によるものではない。言葉の選び方から読み取れる志向が短篇的なのだ。
彼女はまるで遠い世界へと飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように、とても自然にとても優美に服をまとっていた。
「トニー滝谷」p.126

 『レキシントンの幽霊』に収録された「トニー滝谷」という短篇に注目したのは同名の映画をTSUTAYAで借りて観てからである。声、が印象に残る映画であった。実のところその映画を観るまでは村上春樹にそんな話があったかどうかさえ忘れていた。読み返してみると、改行の鍵括弧のない実に静かな小説であった。
 トニー滝谷は「機械の絵」「細部を克明に描くのが好きだった」とある。また美術大学のクラスメイトの描く「思想性のある絵」について「ただ未熟で醜く、不正確なだけだった」と評している。逆に「美術大学の教師たちは彼の描いた絵を見ると苦笑した」とある。
 孤独な人間がそうであるようにトニー滝谷は自分の心に耳目をそばだてない、そして誰かの心にも耳目をそばだてない。ここでの孤独な人間とは一人ぼっちを怖れるような偽物ではない。孤独が当然であり、それ以外の状態を想像することすらできない人間こそが孤独である。だから孤独な人間は「心の傷つき」を訴えはしない。そういう他人との関わりを訴える人間は孤独にはふさわしくない。そもそも本当に孤独な人間は心や感情というものが存在するなんて信じない。だから孤独を怖れることもできない。心や感情は言葉としては確かにあるのだろう、だが、もしそんなものが自分のどこかにあるのとすれば自分という存在がどうなってしまうのか、分からなくなってしまうのだ。
 トニー滝谷が妻と恋に落ちる理由は「娘の着こなし」である。心や感情ではない、「その娘が気持ちよさそうに服を着こなしている様子」を見て恋に落ちるのである。そして妻と結婚し、トニー滝谷の孤独は終わりを告げる。
孤独ではないということは、彼にとっていささか奇妙な状況であった。孤独でなくなったことによって、もう一度孤独になったらどうしようという恐怖につきまとわれることになったからだ。
「トニー滝谷」p.128

 そして妻は過剰なまでに服を買い続ける。服は「毎日二回着替えをしても、全部の服を着こなすのに二年近くかか」るような数になった。一度はトニー滝谷の忠告を受け入れて妻は服を買うのを控えるけれども、やがてまた服に強烈にとらわれて彼女は交通事故で死んでしまう。妻の葬儀の十日後、トニー滝谷は求人広告を出して、妻の体型に近い、妻が遺していった沢山の服を着られるような女性を募集する。やがてぴったりとサイズの合う女性が見つかるが、トニー滝谷は彼女をすぐに解雇してしまう。そして服は古着屋にすべて売り払う。妻の死から二年後にトニー滝谷の父親である滝谷省三郎も死ぬ。彼が遺した「古いジャズ・レコードの膨大なコレクション」も彼は全て売り払う。
 トニー滝谷の妻という存在には中身がない、心も感情もない。トニー滝谷の妻とは単純に服、それも沢山の服に置き換えられる。それは体型の採寸が同じであれば他の女性でも入替え可能な妻の影である。市川準監督の同名映画はその解釈に基づいて配役を決めていた。またトニー滝谷の父親も古いジャズ・レコードによって置き換えが可能な人物である。孤独な人間にとって他人とはそういう物質に置き換え可能な存在だ。他人とは、部屋のどうしようもない空白を物理的に埋めるような物質的存在である。自分に心や感情が存在してはならないように、他人も心や感情で揺れ動く不確かな存在であってはならない。トニー滝谷の描く実際的な絵のように世界は具象だけで成り立っていて、それだけでもうパーフェクトなのだ。それ以外は不要で、孤独なのだ。
レコードの山がすっかり消えてしまうと、トニー滝谷は今度こそ本当にひとりぼっちになった。
「トニー滝谷」p.145

 「同」という漢字の心地よさ。

トニー滝谷 プレミアム・エディション [DVD]

ジェネオン エンタテインメント


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by suikageiju | 2013-05-31 06:59 | 感想 | Trackback | Comments(0)
アラビア語の双数形について
 単数形と複数形はよく知られているけれど、世界の言語のなかには名詞が2つのものを表わす場合にとる形を持つ言語がある。その形を双数形あるいは両数形と呼ぶ。この双数形がある言語はスロヴェニア語やソルブ語やギリシア語アッティカ方言やサンスクリット語やアラビア語などがあげられる。
 双数形の存在を鯨が知ったのは大学2年生のとき、アラビア語初級の授業を受けていたときだった。鯨は講師が何を言っているのか理解できず、その日は残りの講義をすべて自主休講して高田馬場駅近くの居酒屋で泣いた。一晩中泣いてやっと理解できたのは、この世界には「一」と「多」だけではなく「双」という概念で事物をとらえる人たちがいること、そして鯨はどうしようもなく一人だということだった。

 アラビア語の双数形は名詞が主格のときは「-aan(i)」を接尾して、名詞が属格や対格のときは「-ayn(i)」を接尾する。ただしこれは正則アラビア語(フスハー)の場合であり、俗アラビア語(アーンミーヤ)ではすべての格で「-ayn」を接尾する。具体例で説明する。

バーレーン王国
 ペルシア湾に浮ぶ小さな島国で、サッカーやガルフ・エアで知られる国。この国名の「バーレーン」はアラビア語で発音すると「バフライン」(Bahrayn)であり「バフル」(Bahr)=海の双数形属格である。「二つの海の王国」が国名だけれどこの二つの海が何を指すのかには諸説ある。

・『バイナル・カスライン
 ノーベル文学賞作家ナギーブ・マフーズの代表作『バイナル・カスライン』(Bayn-al Qasrayn)。「Bayn」は前置詞「~の間」であり、「al」は定冠詞、そして「Qasr」は宮殿の意で、つまりバイナル・カスラインとは「2つの宮殿の間」の意。エジプトの首府カイロにはファーティマ朝時代に建てられた2つの宮殿がかつて存在し、その2つの宮殿の間にある大通りがバイナル・カスライン(Bayn-al Qasrayn)と呼ばれた。前置詞に続く名詞は属格に活用する。

イスカンダル・ズルカルナイン
 マケドニア王アレクサンドロス3世(大王)。イスラーム圏ではイスカンダル双角王(Iskandar Dhu-l-Qarnayn)と呼ばれる。「Dhu」が前置詞「~とともに」であり、「-l-」は定冠詞al、「Qarn」は角であり「Dhu-l-Qarnayn」は「双角つきの」。双角のイスカンダル。前置詞に続く名詞は属格に活用する。

ハラマイン
 アラビア半島のヒジャーズ地方にはマッカとマディーナというイスラームの二大聖都がある。聖地あるいは聖都(Haraam)が近接して2つあるのでこれらをまとめて「二聖都」(Haraamayn)と呼ぶ。アーンミーヤである。ハラマイン高速鉄道がやがてこの2つの聖都と巡礼者たちが使う海港や空港のあるジッダを結ぶ予定だ。

【間違った双数形の例】
ターリバーン
 このアフガニスタンにおけるイスラーム武装勢力を「ターリブ」(taalib、学生)のアラビア語における双数形(taalibaan)と考えている人がいるけれど、実際は「ターリブ」(taalib、学生)のパシュトゥー語における複数形(taalibaan)である。
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by suikageiju | 2013-05-27 06:46 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
春の演習アムリタ×水道航路
 数多あるアマゾン・レビューのうち最低なレビューは「おもしろかった」「つまらなかった」「わからなかった」など自分のことについてしか書いていないレビューである。そういったレビューを書いてしまう人はその商品やその周辺の商品についての見識を持ち合わせていない。ゆえに自分がその商品によってどんな感情を抱いたかという実にどうでも良いレビューしか書けない。

 牟礼鯨は積極的に演劇を観に行かない。今まで観た演劇は中高時代の後輩である海野広雄氏と非公式ガイドブックの盟友である屋代秀樹氏のかかわっている演劇を、時間が空いたときに行くくらいである。基本的に「その仕事の結果で誰かに1円でも支払わせている人はプロ」と考えているので彼らのことは演劇のプロだと思っているけれど、彼らの演劇を観に行っているのは「知り合いだから」という理由であり「昨今の演劇の実態を知りたい」とか「今輝いている演劇人を知りたい」とか「知り合いの劇団をすこしでも励ましたい」などといった積極的に「演劇とかかわろう」という動機からではない。そして今回「春の演習アムリタ×水道航路」を観にいったのもほとんど「知り合いだから」に近い理由である。そのように演劇について無知で無関心な鯨は演劇界周辺の事情をほとんど知らないので、前述のような最低なレビューしか書けない。
 演目は三島由紀夫の『近代能楽集』から引いており水道航路が「熊野」を、アムリタが「葵上」を担当している。観に行った劇場がほとんどそうであったように座席が小さくてずっと体を折り曲げていなければならず軽い嘔吐感と戦っていたけれど、それでも充分に女優の脚と鎖骨を楽しめた。また、演劇を演出と脚本とに分けてとらえるという発想を最近持てるようになり、小説執筆を「何を描くか」と「どのように描くか」と分けるのと同様に演出が「どのように描くか」に、脚本が「何を描くか」に相当するのではという考えに至っている。そしてこの演劇を観て、小説執筆と同じように演劇の構成要素のなかで重要なのは演出=「どのように描くか」なのではないかと推測している。
 まず水道航路による「熊野」である。宗盛役の口調が鯨もこういう風に話せたらなという落ち着きを払ったダンディな感じで、その口調を是非習得したい、と思った。そしてユヤの体幹筋をギリギリまで酷使した演技はその腕と脚とをへし折りたいという観衆の欲望をうながす。それは、秘書役の女が持つ南洋風のそれでいて形而上と形而下の間のいじらしいほどの煩悶を差し向けるような眼差しとは対照的である。後者はむしろ、へし折られたい。また、ユヤの声の細さが気になった。それは、果たして、正しかったのかと。
 次にアムリタによる「葵上」である。まず、看護婦が5人出てくる。どちらかと云えば背の低い方の看護婦2人が気になって白タイツや白衣でも隠せない胸の膨らみを凝視していた。もし5人の看護婦がナースキャップだけを被ったまま全裸で鯨の下宿先にあらわれたとしたら、その2人への恩寵を優先させると約束しよう。そして六条康子が怪演だった。ドラマや映画を観てもどんな演技が良いのか判断する基準を鯨は持たない。それは他の人も同じだと思う。けれどAVを観ていて「これはまんま演技だな」と「これはもう生身だな」をハッキリ分けることができるように、真田広之の演技があからさまで下手だということが分かるように、動物としての本能が危険を訴える演技を観ると逃げ出したくなる。六条康子の髪を振り乱して「紅唇お化け」のようになった有様や汗でべったりと粘り気を持つ鎖骨のあたりを見て、何度か逃げ出したくなった。もし鯨がアドルフ・ヒットラーであれば国家社会主義を後退させるという理由で、六条康子の四肢を壁に釘で打って固定しただろう。しかしそれでも彼女は演じ続けようとするのである。アドルフ・ヒットラー扮する鯨は彼女の眼球を潰し、舌を耳を鼻を削ぎ落とす。それでも彼女は演じ続けようとして、鯨はやがて最も醜い銃殺刑を命じるのだ。
 銃声さえ、彼女は演じた。
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by suikageiju | 2013-05-25 18:18 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
表象文化としての「売り子」論を福岡ポエイチで
 「鯨さんの作品には校正が必要です」と書かれたメールを読んだとき、他人の本になんてことを言うのだとメールを送った人に対して怒りを覚えた。それと同時に自分自身に対しても怒りを覚えた。というのは鯨もそのメールと同意見だったからだ。

 4月29日深夜、新宿の珈琲西武で鯨は分離派の久保田氏(三重県)に「君は福岡ポエイチへ行くべきだ」と言った。当然のことだけれど、久保田氏は肯んじた。たぶん鯨はそのとき調子にのっていたのだろう。隣でだまって珈琲を飲んでいた高村暦女史にも「君も福岡ポエイチへ行くべきだ。早稲田なんだから暇だろう」と勧めた。すると女史は眉を顰めながら「旅費を大阪で使い果たしてしまいまして、もし旅費を出してくれるなら行きます」と返す。もしかしたら鯨は酔っていたのかもしれない。女史のがめつさを気にとめることなく「旅費を出せば行くんだな」と再び訊いた。
 超文学フリマを終えて「鯨暦譜」の印刷代などを精算するに際し、高村女史は請求書をPDFで送りつけて来て、それに記されていた金額は¥30,600円だった。「鯨暦譜」はそんなに枚数を刷っていなかったはずで印刷代にしてはやや高額だと感じる。きっと本来の数字ではないのだろう。ならば、いったい何の数字なのかと振り返り、忘れかけていた珈琲西武での会話を思い出した。5月1日、鯨は職場の帰りに小田急線に乗り、登戸駅で降りて徒歩5分、建てられて半世紀は経っているだろうビルの錆び付いた外付け階段を昇る。そして踊り場で両足を揃え、黄色地の紙に赤字で「臓器高価買取」と大書されたポスターが貼られた扉を開けた。「いらっしゃい」、ねばっこい声色をした店主が満面の笑みで迎える。「何かお困りですか?」
 コミティア104閉幕後に訪れた神保町のろしあ亭で、鯨は中身の入った黄緑色の銀行封筒に「鯨暦譜印刷代」と墨書したものを女史に手渡しながら
「これをどうするのか君はわかっているんだろう?」
 と問うと女史は「はい」と肯んじた。女史が鞄に封筒をしまうと
「これ食べなよ」
 と鯨はピロシキを半分に切って女史の皿に置く。
「食欲ないんですか?」
「ほら、お昼インドカレー食べ過ぎて」
 そう言いながら鯨は、アルコールで熱を帯びて疼く脇腹の手術痕をさすった。

 昨夜、Gmailが来ていた。高村女史からである。メールには簡潔に「福岡へのチケットを取りました」とだけ書いてあった。
「バカだこいつ」
 と鯨はひとり呟き、同時に高村女史が先日手渡した3万円を例の柏ホストに貢がなかったことに感心した。自分の欲求よりも文学を優先した人間が少なくとも一人はいたのだ。鯨は「では売り子をお願いします」とだけ打ってメールを返信した。これで等価交換である。
 6月8日、9日と福岡県福岡市中洲川端駅近く冷泉荘にて第2回福岡ポエイチが開催される。西瓜鯨油社は両日参加し、新刊『昔鯨類』を頒布。それとともに鯨暦譜企画を再起動する。
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by suikageiju | 2013-05-19 18:21 | 福岡 | Trackback | Comments(0)
南武枝線
 第十五回文学フリマで新刊として頒布し、第十六回文学フリマで完売した痴漢・ストーカー小説『南武枝線』が電子書籍となってKindleストアにて刊行された。かつて貰った感想などはこちら
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 子供は自分の好きなモノを善とみなし、自分の嫌いなモノを悪とみなす。好嫌の境界と善悪の境界とが一致する度合いが低くなればなるほど、その人は大人になったと云えるだろう。この社会には、自分が好きなのに悪いことが存在して、そして自分が嫌いな善人もいる。自分が嫌いだからといってそれが悪いこととは限らないし、自分が好きだからといってその人が善い人かどうかは分からない。たったそれだけのことが分からない人もいるのだけれど、たったそれだけのことを認めたくない人の純粋さを、鯨は愛したいと思う。
 善悪の境界は、時代の移り変わりや人々の考えの展開によって徐々に変化していく。だからかつては悪い事象と見なされ犯罪とされていても、現代ではそんなに悪くない事象と見なされる例もある。たとえば重婚、自己堕胎、単純賭博、猥褻物頒布、麻薬所持、売春などの「被害者なき犯罪」は従来は犯罪だったけれど、今のこの時代では犯罪ではないものとみなしていこうと云う「非犯罪化」議論の対象となっている。善と悪の間に横たわる境界線はいつも揺らいでいる。このことを短く「善悪は相対的だ」と云う。釘打ちされて固定された絶対的な基準なんてなくて、善と悪の基準はいつも揺れ動いているからだ。
 相対的だから何が善で何が悪なのかについてはその度々に立ち止まって自分の頭で考えなければならない。今までの自分の考えに固執してはいけない、「誰かが言ったから」を理由に自分で考えることを諦めてはいけない、「それは犯罪だから」と考えを停止してもいけない。物語作家がひとつひとつの言葉の前で踏みとどまるように、君はひとつひとつの出来事の前で踏みとどまらなければならない。「悪いことは悪い」ではない、「悪いことはもしかしたら悪くないのかもしれない」。
 この小説『南武枝線』は痴漢やストーカーについて描かれている。痴漢やストーカーは今の時代では悪いこと、少なくとも気持ち悪いことと捉えられる場合の方が多いじゃないだろうか。でも、いつの時代かそれらは「非犯罪化」されて、芸術とか勇気とか人が持つことのできる心の最も美しい部分とか、そういった麗辞とともに語られる「善いこと」になるんじゃないかなと鯨は考えている。確信なんてないけれど、だって、それらは一生懸命に生きようとする人間が見せる一瞬の輝きなのだから。
 この本を読むことで、どうかみじめで報われなかったあなたの人生が輝きますように。

▼『ダイレクト文藝マガジン vol.11
 牟礼鯨の短篇「青姦する女子高生もやがて母」が巻頭に掲載されています。
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by suikageiju | 2013-05-18 11:29 | kindle | Trackback | Comments(0)
メテオラシャワー問題から創作文芸サークルは何を学べるか
 2013年4月、電子書籍を作成している作家たちの間でちょっとしたトラブルが起きたらしい。現在ネット上に残っている資料から読み取れるのは、メテオラシャワー氏が公募企画「第一回日本法螺小説大賞」に作品を応募したところ、その作品を他の応募作とともに電子書籍にまとめられて「勝手に売られてた」という。
参照: このホラ吹きがすごい!2013:文芸サイト・てきすとぽいがブラックすぎてむしろ秀逸になってる件w

 第一回日本法螺小説大賞の募集記事には下記のような【注意事項】が書かれている。
【注意事項】
 投稿作は電子書籍としてまとめるかも知れません。
 掲載されると困る方は、コメント欄かどこかに書いておいてくれれば、
 予め除外します。
 なお、電子書籍の売上は賞品などに利用される予定です。

 応募者のメテオラシャワー氏は応募期間中である3月20日に下のようなコメントを残している。これ以外のコメントは見当たらない。
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電子書籍として掲載される場合はツイッターにてご一報くださいm(__)m

 そして、第一回日本法螺小説大賞の主催者である山田佳江女史は投稿作品をまとめて電子書籍で販売する際に下記のようにtweetしている。

 このtweetを発端としてメテオラシャワー氏がトラブルを起こした。その結果かどうかは分からないけれど山田佳江女史は活動休止を宣言した。コメントのやりとりでお互いに意志疎通しきれていなかった点を除くとして、山田佳江女史は1つだけ誤ちを犯したと考えられる。それは
投稿作をどうするかを未定のまま不特定多数の人から作品を募った。

 である。

 限定した作家を対象に、あるいは仲間内だけで作品を募るのであれば募集要項は未定あるいは曖昧なままで構わないしトラブルが起きる確率は低いけれど、不特定多数から作品を募るときは必ず募集要項や作品の取扱い方針は決定しておかなければならない。そうしなければ大抵トラブルが起こる。
 上で「山田佳江女史は1つだけ誤りを犯したと考えられる」と書いた。けれど細目では2つの誤りを犯したとも考えられる。その2つとは「投稿作をどうするか未定のまま作品を募ったこと」と「不特定多数の人から作品を募ったこと」であり、今回の事例はこの2つが組み合わさってトラブルが発生したため1つだけの誤りと数えた。ただ、トラブルの発生の原因はほとんど2つのうちの後者「不特定多数の人から作品を募ったこと」である。というのは前述の通り、募集要項が曖昧でも特定の人から作品を募ればトラブルは起きる確率は低いが、募集要項がしっかり決定されていても不特定多数から作品を募るとトラブルが起きる確率が高いからだ。この事例では同じような応募要項を読んだはずの、メテオラシャワー氏以外の応募者は観測しうる限りトラブルを起こしていない。つまり前者「投稿作をどうするか未定のまま作品を募ったこと」という状況はトラブルの原因ではない。
 トラブルはトラブルを起こしたい人が起こす。トラブルを起こしたい人とは「心の傷つきや痛みを訴える人」「数値化されない被害を訴える人」など自分のことしか考えない人たちのことだ。状況はトラブルを起こさない。状況はトラブル発生の理由にされることはあるけれど、社会的動物ではないのでトラブルを起こせない。文学フリマのとある合同誌では作品の掲載順だけでトラブルを起こす人がいた。或いは別の合同誌では段組の違いだけでトラブルを起こす人がいた。選考から漏れただけで午前3時に脅迫電話をかける人もいる。トラブルを起こしたい人にとり状況はなんでも構わないのだ。たとえ合理性に欠けていても理由っぽければ、それで拳をあげてしまえる。
 不特定多数から作品を募集するということはトラブルを起こしたい人を招き寄せることである。彼らに門戸を開放することである。だから、たとえトラブルが発生しても不特定多数から作品を募集したいのであれば何が起こってもそれに耐えうる主催者の覚悟が必要とされる。もしその覚悟がなければ不特定多数から作品を募集してはいけない。
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by suikageiju | 2013-05-15 09:09 | 自己愛な人 | Trackback | Comments(0)
第2回福岡ポエイチで『昔鯨類』を
 いつぞやのコミティアでぼんやりとブースに座っていると、中学生か高校生くらいの女の子がブースの前にやってきて『掌編集』と『一つの愛とその他の狂気について』を買い求めた。どこで西瓜鯨油社を知ったのだろうかと当時の鯨は不思議がり本を渡しながら訊いてみた、なんで西瓜鯨油社のことを知ってしまったんですかと。
「ブログを読んでいます。断片で泣いてしまって、ケータイの壁紙にしています」
 その娘はケータイの形が変わるくらい充電池がパンパンに膨れあがった携帯電話の画面を見せてくれた。そこにはこんな断片が表示されていた。
もし僕が心から愛する女性がいるとすれば、1000人の男に抱かれた14歳。

 こんな感じの断片や散文の切れ端や詩のなり損ないを集めて、陸から海にくり出したムカシクジラ亜目たちにあやかり『昔鯨類』(むかしくぢらるい)と題して第2回福岡ポエイチに持って行く。この本は俳句でも短歌でも詩でも戯曲でも小説でもない文芸ジャンル「昔鯨類」を提唱する。

 牟礼鯨以外の作家が著わした昔鯨類には以下のようなものがある。それは昔鯨類そのままだったり、その萌芽だったり。
Le trop grand empressement qu'on a de s'acquitter d'une obligation est une espèce d'ingratitude.
『ラ・ロシュフコー箴言集』

 箴言や警句といったエピグラムも昔鯨類に属するかもしれない。あまりにも熱心に恩返ししようとする人は一種の恩知らずである。ときに昔鯨類を知ることによって人との接し方や生き方が変わることもある。実生活で活用できる、これも昔鯨類だ。
Und wenn ich Allahs Namenhundert nenne,
Mit jedem klingt ein Name nach für dich.
『西東詩集』

 なぜゲーテがアッラーフか、というと1814年に独訳されたペルシア詩人ハーフェズの影響であるという。そして私がアッラーフの百美名を唱えるとき、それぞれの音にともなってあなたの名が響く。60代のゲーテが30代のマリアンヌに寄せた詩とされる。他国の宗教に老醜とも云える恋心を込めた、禁忌をも怖れぬ変態性。詩句が昔鯨類でもいいじゃないか。
「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
『ノルウェイの森(下)』

 村上春樹については『海辺のカフカ』より前の作品群を高く評価している。だが、永沢さんのこの言葉を書いた時点ですでに彼は世界文学になったのだと鯨は考えている。この部分だけ永沢さんは優しいのだ。
Que me mataron, niña Wene.
『予告された殺人の記録』

 「僕は殺されたんだ、ウェネ」。「どうしたの」(Qué te pasa!)という現在形の質問に過去形で答えている。しかもその状態を過去形で語ることは本来不可能である。流行の評で言うなれば「骨折している」。
What though the field be lost? All is not lost;
『失楽園』

 たとえ一敗地に塗れてもそれが何だ? 全ては失われていない。これを普通の人間が言ったとしたらつまらない。だが、もし唯一神の怒りの雷霆によって叩きのめされた堕天使の首領が、打ちのめされた堕天使の群に吐いた言葉だとしたらそれは昔鯨類。
桓子不知所為、鼓於軍中、曰「先濟者有賞」中軍下軍爭舟、舟中之指可掬也。
『春秋左氏伝』

 紀元前6世紀初頭、中国。長江中流域にある楚はその勢力を淮河および黄河へと拡げていた。周王の使者に鼎の軽重を問い、覇権を手にしつつある楚荘王は鄭邑を攻め、これを陥落させる。鄭の君主であり周王朝の王族でもある鄭襄公は上半身裸で羊をつれた料理人の扮装で楚荘王を出迎えた(鄭伯肉袒牽羊以逆)。鄭の救援に乗り出したのがかつて覇権国家であった晋である。晋の三軍は黄河を渡り晋楚両軍は邲で干戈を交える。敗れた晋は黄河を渡って撤退する、その場面である。桓子(晋の総司令官、荀林父)はどうしていいか分からず軍中で太鼓を打ち鳴して「先に渡河した者には褒美をとらす」と命令した。三軍のうち中軍と下軍は争うように舟に群がり(舟が沈まぬよう先に乗った兵が後から乗り込もうとした兵の指を斬り落としたため)、舟の中に転がっている指は両手で掬うほどになった。舟中の指掬すべし、文章芸術の極限。
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by suikageiju | 2013-05-12 19:54 | 福岡 | Trackback | Comments(0)
コミティア104報告
 もちろん巷間で流行している言葉は「じぇじぇ」だけれど、電子巷間で流行しているのは忍殺語と聴く。『ニンジャスレイヤー』という書物があり、そこで使われている特徴のある文体が忍殺語とも聴いた。
 5月5日ふらりと立ち寄ったコミティアで、毒々しい色に染められたカーテン生地の洋服をお召しになった伊織さん(兎角毒苺團)が知識雑学研究所のブースに座っていたので、『ブンガクスレイヤー』で読んだだけの半端な知識で忍殺語を試みた。
「アイエエ! イオリ=サン! スゴイデカイチチ!? スゴイデカイチチ、ナンデ!?」
 険のある逆三角の目でギロリと鯨を睨み「すごいむかつく」と伊織さんはつぶやいた。気迫におされ転がるようにコミティア会場の外に出て、初夏の陽をあびながら、抜けるような青空を仰ぐネオ・ウァリウァケ。でも「抜ける」ような青空っていつか語義が変わると思うんだ。

 久しぶりにコミティアへ電車で赴いた。前回の訪問時は原付を使いその楽さに体が慣れてしまったのだけれど、原付を使わずに新宿からりんかい線直通SSラインで行けば『何故?第二章零号-衝動-』を読めることに気付く。大崎を過ぎたあたり、森井御大の掲載作「君はフィクション」を読んで顎が下がったまま戻らなくなった。
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 15時前に会場に到着。ティアマガジンを買ったものの創作文芸島の緯度経度だけを確かめるとそれを閉じて、ひたすら創作文芸島をぶらぶらと彷徨うこととした。あの幸福だった一般参加者時代を思い返しながら黒居四季『在庫少女』や日野裕太郎『いずれ早瀬もじくじくと』、ヒロセアリサ『鉄道少女2』、冷亜暦『-A07』、みすてー『トランスポーターラブレター』、解凍みかん☆『かみまち』などを購入した。また、クロフネ3世のところで生原稿オークションをやっていたので面白い試みだと思い記念に入札する。改めて一般参加してみて、サークル参加のままでは分からなかったことが分かるようになると思っていたけれど、そんなことはなかった。お客様気分のまま、楽しい時間だけを過ごした。

 会終了後、鯨暦譜の打ち上げをした。超文学フリマ後に「鯨鳥三日と冷亜暦で合同打ち上げをすれば一挙両得じゃないか」と提案したけれど両領袖に却下されたためにできなかった鯨暦譜企画の精算をするためだ。文章を書いた以外は鯨の人は何もせずほとんどの作業を暦の人におしつけたため、その作業費及び材料代を鯨が「酒で購う」との取り決めを果たすためでもある。だが神保町のろしあ亭で高村暦さんがウォッカをストレートで呷ってはおかわりを繰り返すので鯨は顔面蒼白になった。おまけに「ちっちゃな水」然としたフラグマンを鯨に勧めてくる。鯨は食道の形を明らかにしながらそれを呷った。
 地理に暗い高村暦さんを千代田線お茶の水駅まで案内した記憶まではある。だが、脈絡も経緯も知らないまま、目覚めると鯨は上野不忍池のベンチに腰かけていた。ポケットにねじ込まれた、買ったばかりのhtcj butterflyのタッチパネルにはヒビが入っている。財布はちゃんと鞄に入っていたので上野浮浪者の礼儀正しさに感動した。
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by suikageiju | 2013-05-07 08:26 | COMITIA | Trackback | Comments(0)
枯片吟
作者は片岸正雄氏。
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見ての通り飾り気のない表紙、そして書かれた内容もひたすらに描写、描写、心理描写である。特に読んでいて楽しいとか、面白いとか、そういう感慨は起きない。でも流しの銀面にこびりついた錆、風鈴とパソコンのファンが共鳴する低周波の響き、四十を超えた女性の手の血管、ボックスのタバコしか買わない習慣、腹筋の角度の浅さ、執拗なまでの赤い部屋のなかの描写、サイダーと喩えられた演奏会など細部にまでいきとどいた、変態的なまでの叙述は、読みに深い味わいをもたらす。渋みのある読むべき一冊。
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by suikageiju | 2013-05-04 21:25 | 感想 | Trackback | Comments(0)
LOL 第十六号

LOL第16号

石橋 英明 / LOL


胸が苦しくなるくらいに木嶋章夫さんの小説が好きなので大阪文学フリマで買えば良かったのに荷物になるから超文学フリマで買えば良いだろうと思っていたらLOLは参加していなかった。

 ご尤も!

傘がない、うっぷす
 豹変した女の気持ち悪さにうっぷす。
碧いうさぎ紅いうさぎ、木嶋章夫
 作家辞書を是非100人希望!
金色の砂漠、木嶋章夫
 山本先生と小林さんのやりとりで自分のなかの羞恥心が爆発。
石橋英明
 写真とかいろいろひどい。
新美南吉の日記1931-1935、奥村拓
 「ごんぎつね」の新美南吉という印象がすっかり変わってしまう傑作。この戯曲で演じられた劇を観たいと思うのと同時にもう一度、自意識過剰と被害妄想の病に冒された児童文学作家としての新美南吉作品を読み返したい。
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by suikageiju | 2013-05-04 19:52 | 感想 | Trackback | Comments(0)