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文学フリマ非公式ガイドブック第四版掲載作決定会議
 最高責任編集者と責任編集者2名が代々木のカフェ・ロリータに全員集ったのは30日の午後7時半になった。これは非公式ガイドブック第四版に載せる候補作を持ち寄って、その中から実際にどの本を載せるのか決めるための集会である。前の晩に下北沢の山角で山本清風と飲み食いをした鯨は懐疑的になっていた。果たして自分たち、就中鯨に「拒否権」を発動する資格があるのかどうか、と。
 文学フリマに参加する諸先生方は確かに心のなかで美しいもの、涙誘うもの、躍動感あふれるもの、大笑いさせるものを抱いている。それは鮮やかなイメージだ。そして、それぞれの書く技量を用いて心の中のイメージを文章という形で表現しようとしている。たいていはそれに成功している。でも技量の限界によって、その心の中の一大スペクタルを小説に投影しきれなかった作品を前にして、鯨は無慈悲に「拒否権」を発動できるのかどうか。これが懐疑である。そんなことをすれば逆に「なぜ彼らの心の中の映像を察することができなかったのか」と鯨が責められやしないか、と。だから鯨は懐疑を打ち砕くため「何を描くのか」ということ、つまり心の中のイメージには目を瞑った、と表明する。そんなもの、判じようがないからだ。そして「どうやって描くのか」という技量にだけ目を向けて判じることにした。それならば証拠が本という体裁で残されていて誰もそのことを否定しようがないからだ。
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 責任編集者3人の集いは、まず名古屋編集者から送られてきた本の査読から始まる。それぞれがそれぞれの方法で査読していった。一例をあげると山本清風は名古屋から来た本をカフェのトイレで読んでいた。それも彼なりの査読法なのだろう。
 査読が済むや否や今までに査読した候補作の中から3人で掲載作を判定していく。各責任編集者に理由と決断が要求された。その後、決められた掲載作を編集委員会のなかでどう処理するのか方針を定めるためにひたすら升目を埋めていった。升目が全て埋まる頃には時計は午後10時を回っていた。疲労と徒労感だけが残った。
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by suikageiju | 2013-08-30 22:35 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
廻天遊魚
 妹が可愛い。妹が可愛い。妹が可愛い。妹が可愛い。妹の声が可愛い。女子高生の娘さんが可愛い。妹が可愛い。妹の仕草が可愛い。
 アムリタの「廻天遊魚」を観た。前にもアムリタの劇を観た気がする。気のせいだ。今回は新宿眼科画廊の地下で観た。英文法を思い起こす。あるいはインド・ヨーロッパ語族のとある言語を。たいていの自動詞は思い悩まない、主語は私、そして動作、それだけで完結しているから。私は投函する、私は投函する、私は投函する。でも他動詞は思い悩む。他動詞は目的語に思い悩む。

 私はあなたを愛する。

 「あなた」とは誰だろう。もし、「あなた」が定まっているなら思い悩むことはない。でも、もし「私」と「あなた」の連絡路が受取拒絶により断ち切られたら、「あなた」が別の主語により奪われたら、「私」が「私」でなくなったら、たぶん思い悩むだろう。ただ、思い悩まない手段はある。それは目的語をぼやけさせること。「愛する」という述語、あるいは「私はXを愛する」という文に専念し目的語を代替可能なものにして、目的語が何であっても文が成立して、あるいはその他動詞「愛する」をまるで東アジアの弧状列島の孤立した言語のように他動詞でも自動詞でもない動詞として煉瓦のように固める。目的語もなく、ただ愛に愛して、束縛して、恋に恋して、そうしておけば、何も思い悩むことはない。ただそれは動詞や述語が強固となり全ての人が手段でしかなくなる世界、八百比丘尼が全ての人を内包する世界。それはとても悲しかったから、だから取り戻したいのは、主語が私で、目的語があなた、そして動詞は何にでも置き替えられる世界だったのだろう。あなたも私も誰かの手段ではなくて、誰かの目的である世界。すばらしいね。
 代替物とされてしまった悲しい女の子なんだね、君は。
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by suikageiju | 2013-08-25 22:16 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
20/20
 文学フリマで売られていたら絶対に「買い」の一冊。成人式のあとで催された高校のクラス会、そこで栗原花穂という語り部系女子がお母さんのお腹にいたときから身近で自殺した20人の物語をつむぎだす。20人が自殺して最後の自殺者は「嘉島ことり」なんだと分かっていると、ここまで安心して読めるのかと今、思い返している。良質な自殺エンターテインメント小説。

20/20

木地雅映子 / 木地雅映子


誰が自殺するのか分からない
 栗原が昔話をしていくうちにひとつひとつのエピソードで自殺しそうな人間が複数人出てくる。でもそれは人物紹介じみた前説なので、章題になっているX人目の自殺者がどういう自殺をするのか最後まで明かされない。そのためエピソード中の複数人が自殺するのかもしれないし、最後の方で付け足し程度に出てくる人物があっけなく自殺してしまうのかもしれない。え、そんな理由であの人が自殺……、今までのエピソード何だったの? ということもある。誰が自殺をするのか推理をして、それが正解かどうか確かめる楽しさ。犯人が別の人を殺す推理小説は鯨怖くて読めないけれど、これは自殺だから何だかほのぼのとしているよ。

自分の範囲わきまえていないんじゃない?
 「わたしのまわりでは毎年1人は自殺しているの」という悩みを抱えている女の子はよくいる。でもたいてい「まわり」の人はその人とは関係のないところで自殺している。たとえばそれは地域性の問題であったり、通っている学校の問題であったり。でもそういう悩みをかかえている女の子は全部「もしかしたら自分のせい?」→「きっと私のせいだあ」と思ってしまう。自分がどこの範囲まで制御できるのか、ちゃんと境界を設けていない。だから自分ではとうてい制御できない範囲までも自分の範囲内だと思ってしまう。でもそれって、君の範囲外なんじゃないのかな。そう、そこが境界石だよ。こっちに勝手に入ってこないでね。

 あまちゃんを演じる能年玲奈さんに是非この木地雅映子作『20/20』を読んで貰いたい。
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by suikageiju | 2013-08-25 10:05 | 感想 | Trackback | Comments(0)
宛名学派と文面学派
 手紙は誰に届けられるべきだろうか? もし君がA君宛に恋文を出したとする。もちろん通常の郵便制度であればその恋文はA君の住所へ届けられる。しかし人道的に考えて、君が恋文を出すべき相手はA君ではなくB君であるとすれば、そのA君宛の恋文はA君の宛名が書かれたままB君の住所に届けられるのかもしれない。
 差し出された手紙は宛名として書かれた人物のところへ届けるべきという宛名学派と、差し出された手紙の文面を第三者機関が熟読した上で宛名にたとえ何と書いてあったとしてもその手紙を届けるべき人物へ届けるべきという文面学派が、常にこの論点では対峙してきた。ただ、後者は事務簡便化のために宛名として書かれた人物へ届けるという便宜上の措置を容認しており、この譲歩は、宛名学派の場合も文面学派の場合もどちらにしても手紙が届けられる人物は一致する確率が高いと云う社会実験の結果に由来する。
 だが、文面学派の主流派はたとえ実際の配達では便宜上の措置をとったとしても手紙の文面を第三者機関が熟読すべきだと主張している。その提案は検閲にもつながり、採用される確率は現在とても低いものになっている。また文面学派のうち過激派はどの手紙の文面を読んでも誰にも届けるわけにはいかないと主張する。彼らは多寡が人間の文章力では誰かに届くような文面を執筆するのは不可能という前提でこの説を立てている。彼らの意見だと、あらゆる差し出された手紙はその文面の未熟さによって誰にも届けるわけにはいかず、郵便網を永遠にさまようことになる。もちろん紙が郵送による摩擦によって磨り減らされ朽ちるまで。
 きっと文面学派の過激派はそんなさまよう手紙を蒐集してどこか図書館のような場所で蓄積しておきたいだけだ。そうすると文面学派による未来では手紙は誰かに届けられるために差し出すものではなく、どこかに蓄積されるために差し出すものになるのかもしれない。
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by suikageiju | 2013-08-24 18:37 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
誤配、受取拒絶
 手紙は誰に届けられるべきか。ガルシアへの手紙は本当にキューバの山奥へ届けられるべきだったのか。決して「ガルシア将軍はどこにいるのか」とは尋ねなかった配達人のローワン君。君は本当はキューバへではなくカリフォルニアへ行かなければならなかったのではないか。
 あとこんなことも訊いてみたい。確かにマッキンリー大統領は手紙を差出した。そしてローワンは配達した。確実に届けた。でもガルシアは本当にその手紙を受け取ったのだろうか。

  〒
 くろやぎさんはしろやぎさんからのおてがみを受け取った。受取拒絶はしなかった。でも読まずに食べた。くろやぎさんはおてがみを受け取って、ただ読む前に紛失してしまっただけだ。
 しろやぎさんはくろやぎさんからのおてがみを受け取った。受取拒絶はしなかった。でも読まずに食べた。しろやぎさんはおてがみを受け取って、ただ読む前に紛失してしまっただけだ。
 その証拠に彼らは次のような文面の手紙を返している。
さっきの おてがみ
ごようじ なあに

 しろやぎさんもくろやぎさんもお互いに相手の文面は読んでいない。でも受取拒絶はせず、ただ紛失してしまっただけだ。しかもお手紙を互いに贈与しているので、彼らの関係は永続される。
 彼らに文面なんて必要なかったのかもしれない。

  〒
 そこは誰もいない郵便局だった。なぜ自分がこんなところにいるのか、理由は知らなかった。知らなかったのは理由ではなくここに至るまでの道筋だろうか。局内にはカウンターがあって窓口が三つある。右は保険係、真ん中は貯金係、そして左は郵便係である。でも笑顔で迎えてくれるような郵便局員はいない。この郵便局にいるのは僕だけだ。なぜならここは誰もいない郵便局だから。扉の上部にあいた窓から外を覗くと見渡す限り草原が広がっていて、丘が地平線に膨らみを与えている。遊牧民が羊を放牧していてもおかしくはない土地だ。どこか北海道の道東じみていた。
 この郵便局では何をする必要もないし何をすることもできない。宛名の無い手紙も投函されないし、差出人の書かれていない手紙を配達する必要もない。暇なので振込用紙に架空の振替口座と誰でもない加入者名を記入したり、贈与品のパンフレットを片っ端から読んだりした。「水菓子入りのゼリーがおいしそうだ」とパンフレットの端にメモ書きさえした。もしかしたら数百年後にこの誰もいない郵便局を訪れた人が僕が書いたこのメモを読むかもしれないと考えた。もちろんそのメモは誰にも読まれず、この郵便局が朽ちるのと同じように腐蝕して分解されて消えてしまうのかもしれないけれど。それは誰もない郵便局でも誰かがいる郵便局でも同じことなのかもしれない。書かれた葉書や手紙は決して誰かに読まれると保証されているわけではない。それらはただ書かれただけで、もしかしたら否きっと誰にも読まれずに誤配されて消えて無くなってしまうのだ。
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by suikageiju | 2013-08-24 14:08 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
コミティア105
 映画の上映時間まで東京高速道路の下にあるカフェで非公式ガイドブックの仕事を片付けようと本を片手にコレクトの情報カード無地に記入していたら急に「これはコミティアへ行かねばならない」と思い立ち席を蹴って有楽町線で豊洲駅に向かった。豊洲駅から東京モノレールに乗り換えて国際展示場正門駅に着くとやたらと幼児が多かった。ポケモンのイベントが同日開催だったらしい。本当は別の同日開催イベント、鉄道模型コンベンションへ行きたかったのだけれど入場料2000円を見て踵を返し、コミティア会場へと向かった。するとコミティアの出口付近でカップルのうち女の方がティアズマガジンをゴミ箱に投げ捨てようとしたので鯨は開口部に入る前にそれを右手で掴んだ。
「っください」
 女と男は目を見合わせたあと「いいですよ」と言って去っていった。複製とは云えカタログは一次創作家たちの作品が載っている。そこだけ考えるとカタログは同人誌と同じである。それをあたかもゴミのように捨てるなんて。鯨は捨て犬のような目をしたティアズマガジンを掌でさっさっと撫でたあとそれを高く掲げてコミティア会場に入場した。
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 入場後はティアズマガジンを鞄にしまい創作文芸嶋だけをまわった。立ち止まったり立ち読みしていくなかで恋愛ものです、とかアクションがたくさんあります、といった売り文句を多く聞いた。これは個人の趣向によるかもしれないけれど「何について書いてあるか」はもうどうでもいいことで「どのように書いてあるか」が大事なんだよ。ただ「何について」は簡単に言えるけれど「どのように」は説明が難しいかもしれない。でも端的には言えないものがもしあるならそれを言い淀みながら教えて欲しかったと願う。ただコミティアの創作文芸嶋の全ブースの前を少なくとも通過し、あるいは立ち止まって看板などを見て、幾つかのサークルでは立ち読みしたり話しかけたり話しかけられたりしていたところ、ほぼ75%近くが「何について書くか」に注意するあまり「これ漫画で描いたほうがいいんじゃない?」と言いたくなるような本になっていた。(この75%はもし誰かが「そんなことないよ」と怒って来たときに「ああ、あなたは残りの25%ですよ」と言うための平和主義的数字である)つまり、漫画を描きたいのに絵を描けない人が仕方なく書いた小説になっていたのである。そういったものは一般書店で流通している小説にも多いのだけれど、はっきりと言えば小説である必要性がなく、もしそういう小説が創作文芸嶋の過半を占めているのなら「コミティアに小説はいらない」という匿名掲示板的言説は創作文芸嶋自身が招いた結果であろう。なぜなら小説が小説であるという必然性を説くことができないのだから。そして漫画好きが、漫画を描きたいのに描けない人が書いた小説や漫画を描きたいのに描けない人が描いたイラストに嫌悪感を抱くのは、「自分なんかいくら努力してもできないっすよ」と言って自分のできる範囲でしか行動しない人間をクリエイティブっぽい人が軽蔑するのと同じ心の動きをしているからで、それは自然な感情なのだから。
 とりあえず映画上映開始までに入手した以下の本が手もとにある。
・『言惑小景』、ひではる、PEN-吟
・『藍色のモノローグ』
・『「■」』、河村塔王、ICU
・『女装男子がかわいすぎるので同人誌をつくってみた』、絶対移動中
・『世界の鯨Art Book』、世界の鯨

 
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by suikageiju | 2013-08-18 23:20 | COMITIA | Trackback | Comments(0)
会社案内
 西瓜鯨油社は、異なった価値観を持つ者といかに対峙し、どのように対話するかを考える、反人間主義の文学結社です。

 交通機関や通信機器の発達により、21世紀の現代社会では遠くの人とすぐに会え、見知らぬ人と容易に知り合えるようになりました。
 社会が多様になったのではなく、個人の周囲で社会が凝縮され個人の人間関係が多様になりました。しかし人は20世紀あるいは19世紀と同じように会う人、知り合う人はすべて自分と同じ価値観を持っていると思いがちです。その思いこみは同じ言語を話していたり、同じ国籍を有していたり、同じ学校を出ていたり、同じテレビ番組を見ていたり、同じ趣味を持っていたり、といった曖昧な事柄を根拠にしています。無意味な繋がり、「グランファルーン」を根拠にしています。でも誰かが同じ価値観を有しているという考えはたいてい誤りです。たいていの人は自分と違う価値観を有しています。同じ言語を話していても、同じ県の出身者でも価値観は違います。その違いはよく言われるような「人はみんな違っているよね」で言及されている程度の違いではなく、もっと根本的な違いです。何を考えているかという単なるソフトの違いではなく、どのように考えるかというハードからして人は皆違っています。違う価値観を持っている者同士なのに同じ価値観を持っていると錯誤しているがために、個人間の紛争が起こります。20世紀までは距離がその紛争を和らげていました。でも、21世紀になって距離は何も和らげなくなりました。
 紛争を解決する手段は紛争のレベルに応じて2種類あります。まず実際的な損害や被害が生じている場合は司法に委ねます。しかし紛争の大半は算出できない「損害」や心の「被害」だけしか生じていません。後者の場合は文学がそういった加害者のいない「損害」や「被害」を癒します。では文学がどうやってそれらを癒すのでしょう? それは「損害」や「被害」を生み出した被害妄想を攻撃することで癒します。辛辣な攻撃が必要です。優しさを見せて被害妄想を放置しても、時代は決して遡らず異なった価値観との接触はますます増えていくので単純に被害妄想患者の「損害」や「被害」は増えるだけです。被害妄想を放置することは何の解決にもなりません。なぜなら被害妄想は多様な価値観を下地にして浮かび上がった他責思考の病であり、多様な価値観がせめぎ合う社会における弊害であり病巣だからです。冗長された被害妄想が「損害」や「被害」を増幅させるならば文学はそれを攻撃します。それが紛争解決への一つの道筋だからです。
 もちろん「損害」や「被害」に共感する方が人間的であり一見するとそれらを癒しそうです。しかし被害妄想患者にとり共感は毒でしかありません。というのは被害妄想自体がそれを抱く人にとり毒であり、共感はその毒を倍加させるだけだからです。だから被害妄想を執拗に攻撃します。一見するとそれは反人間的で非道な所業のように見えます。実際に反人間的で非道です、ですがそんな反人間主義は被害妄想患者を救済できる一つの道筋なのです。
 文学は21世紀の紛争解決手段の一つとなります。西瓜鯨油社は「異なった価値観を持つ者といかに対峙し、どのように対話するか」と反人間主義を主題に掲げ、21世紀日本文学におけるリーディング・カンパニーを目指します。
①「物語」という手段で、異なる価値観を持つ者と対峙した際の作法を読み手に考えてもらいます。
②「小説」という手段で、「痴漢」や「ストーカー」や「加害責任」や「セクハラ」といった安直に使われ、そして本来の該当者を冒涜するような安易な言葉の見直しを促します。

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by suikageiju | 2013-08-17 22:57 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
文学フリマ非公式ガイドブック第4版第2回編集会議
 お盆時期の科学喫茶コペルニクスは短縮営業中である。8月16日夜、オーナーである深谷氏の都合により非公式ガイドブック第4版第2回編集会議は午後8時半を回ってから開始された。まずお忙しい中、店を開けてくれた深谷氏には感謝したい。革命家のアジトじみた要町の科学喫茶で7人の文学フリマ参加者がシーシャを囲み、紫煙をくゆらせ、冷珈琲の匂いを嗅ぎながら、棘のある意見をぶつけ合う。その中で最高責任編集者である高村暦女史が黒板の上で白墨を滑らせた。
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 佐藤氏が前任者ゆえの現実論を語り、伊藤なむあひ氏が冷静に心を説き、屋代秀樹氏が大鉈でぶった切り、山本清風さんが斜に構えながらもあらぬ角度から切り込み、安倉儀たたた氏が幅広い知識と経験から導かれた確かな提案を打つ。高村暦女史は四方八方から投げられた彼らの意見をさばきながら白墨を消耗させる。 そして牟礼鯨は上の空だ。
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 午後9時20分を過ぎて話題は推薦作の陳列に移る。論陣に酔いがまわりはじめる。ニコチンがグラスに溶け込み、アルコールが煙草に浸み込む。安倉儀たたた氏が軽口を叩いたつもりでパンドラの箱を開く。やがて彼の説得力のある言が場を支配する。腹が減った山本清風がピザを頼み、鯨がソーセージを頼む。話題は分割され、議論は流れ、焦燥感が肉を蝕む午後10時。とうとう酔っぱらったアラサー男子6人が各自適当なことを始めて収拾がつかなくなる。山本氏と安倉儀氏は名刺交換を始め、佐藤氏は酩酊し、屋代氏は劇のポスターを壁に貼り、伊藤氏は黙々とポップコーンをかじる。だが、ジャンヌ・ダルクこと高村暦女史がジル・ド・レたるアラサー男子6人を見事にさばき話に一応の決着をつけさせた。パテーの戦いかくの如し、の采配であった。会議の実際的なところは後日、高村暦女史が明らかにするだろう。
 帰りに安倉儀氏と山手線内回りで話したのだけれど、R.S.嬢をはじめとするメンヘラ女子がファンタジー世界に自分の心象風景を投影させることによって組み立てた「閉じられたオモシロい」を見守って(あるいは一緒に形だけでも盛り上がって)あげなくて何が文学フリマ、何が文学なのだという意見には賛同せざるをえなかった。それだけの説得力があった。やはり安倉儀たたたは相州賢人の号に相応しい。
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by suikageiju | 2013-08-17 01:28 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)
読み終えられないのは君の心が撃たれたからだ
 たとえ書籍という境界で括られていても、テクストには始まりも終わりもない。勝手に定められた書籍の始点と終点について牟礼鯨は無視する。そして
「あなたの書籍は最後まで読めました」
 という感想を形骸化する。まず書き手の書籍なぞは存在せず、次にその感想はテクストとは関係のない事柄だからだ。
 人類は忘れていたのだ。書籍は必ずしも最初から読み始めるものではなく、最後まで読み通さなければならないものでもないという自由を。それが自由であることを。商品としての、あるいは装甲としての書籍を念頭に置いてしまった人類は無意識下で書籍という形象に緊縛されている。自分で自分を緊縛し自由を失ったために、人類は読みの楽しさを回顧する知性さえ失ってしまった。
 上中下巻の書籍は下巻から読んで構わないし、全10巻の書籍は5巻目から読む自由がある。全5章の書籍は第5章から読みたいし、ある人はどんな書籍も33頁3行目の3文字目から読み始めたいと言う。また序章から読んだとしても途中で読み止めても構わないし、数行あるいは数頁読み飛ばしても誰からも詰問されえない。そして最後の一文字まで全て読み通せなくても勿論構わないのだ。テクストが単なる直線であるならば、どこを始点としどこを終点とするかの判断は元来、読み手に委ねられている。
 不幸にも読み通せた書籍はもしかしたら君に何ももたらさなかったのかもしれない、あるいは幸福にも読み通せなかった書籍は君に何らかの作用をもたらしたのかもしれない。読み通せなかった理由は「呪われたから」や「悪意を感じたから」や「読むのが苦痛だったから」や「体調を悪くさせられたから」だったかもしれない。そういった理由で読み通されなかった書籍は商品としては失敗しているが、テクストとしては成功している。なぜなら読み止めた所でテクストとしては完成し、そしてその完成されたテクストは読み手に何らかの痕跡を残すことができたからだ。
 もし、とある書籍を読み通せなかったのなら、読み止めたその頁その行その文字に《徴》を刻もう。それは書籍に含まれるテクストが君にもたらすことのできた作用についての記念樹である。そこから先は立ち入ってはならないと君のミトコンドリアが諌めてくれた水溶性の痕跡である。
 鯨は待ち望む、鯨に痕跡を刻み鯨の読みを食い止められるテクストを。そして書籍の始点から始まらず書籍の終点でも終らない読みにも耐えられるテクストを。一生涯書き手としては浮かばれないけれど、それでも何とか擬神めいたテクストを書き遺そうと足掻いた執着としてのテクストを。
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by suikageiju | 2013-08-15 08:38 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
文学フリマ非公式ガイドブックの新最高責任編集者に訊く
 7月23日(火)、非公式ガイドブック編集委員会「佐藤政権」に終止符が打たれた。憲章に則り、その場で新しい最高責任編集者に任命された高村暦女史に7月28日(日)インタビュを敢行した。それは、新しい体制へ移行しつつある非公式ガイドブック編集委員会の新トップがどんな人物であるか、そして非公式ガイドブックという場で彼女がどんな方針を打ち出して働いてくれるのかを諸兄諸姉に知ってもらうための茶番劇である。ラピュタを覆う雲よりもなお厚いベールに覆われた現役女子大生作家「高村暦」の素顔を暴いていきたい。
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――高村暦さん、最高責任編集者就任おめでとうございます。

: 別に祝われることではないんですけれど、ありがとうございます。

――第四版はどのような非公式ガイドブックにしたいですか。今考えられていることを教えてください。

: 一番に考えているのは掲載される本をより手にとってもらうための非公式ガイドブックにしていきたいということです。これまでの非公式ガイドブックは個々の紹介文のスタンスにばらつきがあったような気がします。もちろん紹介者の個性が出る、あるいは作家が書いているのだから文体の特徴が出たりするのは良いんですけれど、ただ紹介文として面白い、で終わらずその後で紹介された本を「読みたい」と思わせる紹介文と、そうではない紹介文が同居している状況だったと思います。

――具体的に誰の紹介文が読みたいと思わせるもので、誰のものがそうではない紹介文ですか?

: たとえば第1版の添嶋さんの紹介文なんかは読者の目線に立っているし共感作用を誘う部分があるので親しみやすく、そのあとで「ちょっと読んでみようかな」と思わせるような文章だなと思いました。一方で、たとえば第3版の山本清風さんの紹介文は、山本清風の文章としては面白いし、紹介文単体を読んだときに「おお」と思わせる部分がありました。ただ、それは紹介文をひとつの作品としてとらえたときに面白いのであって、紹介された本を激烈に読みたくなる、という紹介文ではありませんでした。
 そのどちらが良いのかは賛否両論あるはずで、どちらが紹介文として優れているかは一概には言えません。私個人としてはガイドである以上はガイドをするべきだと考えるので、そういう観点からすると添嶋さんのような紹介文を好ましいと思います。しかし、そればかりだとつまらないという懸念もある。さらにその一方で、無名作家が無名作家を紹介するとなったときに、同じように「同人」のスタンスで取り組んでいいのかという疑念もある。まあ、山本清風さんが「同人的である」というのは違うと思うのですが。

――最高責任編集者と同様に掲載拒否権を持つ責任編集者にその山本清風さんと鯨を任命しましたが、どういった基準で選ばれたのですか。

: 「古き良き伝統」を残す意味と、自分と対立する意見を言ってくれる人を求めました。

――なぜ前の最高責任編集者である佐藤さんを責任編集者に加えなかったんですか?

: 「佐藤さんの非公式ガイドブック」というイメージを払拭するために、敢えて任命しませんでした。ただ佐藤さんには事務面で色々と助けていただきます。

――任命された山本清風さんは先ほどのお話からするとダメな紹介文書きですが、なぜ彼を責任編集者に任命したのですか?

: 山本さんは独特な世界観を持ち、お会いすると社交的です。そして、文学フリマにかかわる事柄や人々全体をわりと「業界」として見ているという印象があります。というのは文学フリマを単に楽しむだけではなく作家性を発揮する場所としてとらえ、かつ本を流通させるという意味で「文学フリマがどうあるべきか」ではなく「文学フリマがどうありうるか」と可能性を考えているような気がします。さらにそれをはっきり言うことをおそれない人です、たぶん。基本的には性質が一つに固まってしまうのを避けたいので自分と異質であってくれる人を選びたかったんです。引継の打ち上げのときにズバズバ言ってくれた山本清風さんに「この人イイなあ!」と思い任命しました。

――では鯨を任命した理由は?

: 実は今回のお話をいただいたときから、以前の責任編集者さんお二人からどちらかお一人を任命しようと考えていました。鯨さんには一度原稿をお願いしたことがあり、今年は鯨暦譜に付き合っていただいた、という繋がりもあり、連絡がとりやすいかなと思い、打ち合わせのときには鯨さんにお願いしてみようと決めていました。あと単に人柱になってもらいたかった。
 もう一人の前責任編集者である屋代さんは、お忙しいという話も聞き及んでおりましたので、ぜひ別の形でご協力をお願いしたいかな、と思います。

――以前に『視姦』の原稿を鯨に頼まれたときも、鯨がご自身と「異質」だからと言っていましたね。今回も山本清風さんを「異質であってくれる人」ということで選択しました。異質さを取り入れるというスタンスが本を作る上で大事だと思いますか?

: それは本によりますね。非公式ガイドブックの場合は広い視野が期待されるし私もそれを望んでいる。これまで他の人と本をつくるということを3年近くやっていたんですけれど、大事なのは「異質でありながら矛盾はしない」ということだと考えています。もちろん全部矛盾しているという意味で統一されているというもの面白いんですけれど、それではガイドブックにはならないですよね。

――今まで非公式ガイドブック内で言われていたのは数多ある文芸同人誌で「編集方針に統一性が見えないこと」でした。本を選出する上でも文芸同人誌の編集方針の統一性を重視しますか、それとも単に編集方針は考慮せずに雑多な面白さを重視しますか?

: そこは保持しておきたい多様性ですよね。単に読んでおもしろいだけ、という本もあって良いと思うし、深く読み込んだり視点を変えて読んだりすると面白い本もあって良い。ですから個人的には、本の選定基準ではなく、紹介の仕方を問うべきだと思います。それから物理的な面、見た目が面白い……たとえば装丁や紙、印刷方法、本自体の形状が面白いというのもやはり捨てがたい魅力ですよね。形状が語るものもあると思います。

――なるほど。形状の面白さというのは今までの非公式ガイドブック編集委員会では掬い切れなかった観点ですね。鯨もそういう読書好きではなく本好きのための本はほとんど考慮してきませんでした。これから、どんな本が俎上にあがってくるか楽しみです。すると気になってくることがあります、これは編集委員会で何度か話題になったテーマなんですけれど、高村さんにとって面白い本って何ですか?

: 良くても悪くても、大きくても小さくても良いから何らかの化学反応を起こしてくれる本のことだと思います。

――化学反応って何ですか?

: たとえば人と人との出会いや交流もそうですけれど、自分と自分以外のものが出会ったときに生まれるものがあるわけですよね。たとえば好意かもしれないし敵意かもしれないし、何となく嫌な感じとかよくわからないなあとか、二度と会いたくないとかずっと一緒にいたいとか、お近づきにはなりたくないとか。本との間でもそういったことが起こると思っています。
 「自分にとって大切な本」ってよくインタビューとかアンケートで訊くじゃないですか、その逆で――ちなみにこれは冷村という、私の親友の表現なんですけれど――自分が強烈に呪われてしまう本、というのもあると思うんですよね。その「呪い」っていうのも、一つの化学反応だと思うんです。自分と他者がいないと発生しない、それが化学反応だと考えています。

――高村さんにとり大切な本、そして呪われる本って何ですか?

: まず大切な本は北村薫の『ターン』、呪われる本はいくつかありますけれど一冊だけあげるなら北村薫の『ターン』です。

――ふざけているんですか?

: 真剣です。鯨さんは私のどのような点をふざけていると思われたのですか。

――あなたは先ほどの回答で、大切な本と呪われた本を「逆」と言いましたよね。なのにその二種の本として同じ題名をあげられた。良い意味で、そして悪い意味であなたは上手にふざけられた、だから鯨はそう形容したのです。高村さんにとっての『ターン』を説明してください。

: 大切であり、同時に呪われるということもあるでしょう。私にとって『ターン』は、あらゆる意味で「原点」で、自分が作るものは気づくとどれも、そこに戻っている部分がある。その意味では大切であり、また、そこから逃れられないという意味では「呪われている」とも言えるんです。

――では、文学フリマという場で高村さんの言う呪われた本に出会ったことはありますか? あるいはこれから出会えると思いますか?

: 未来のことはまだ分かりません。

――明言は避けられましたね。よろしい、未来と云えばまだ非公式ガイドブック編集委員会の人員は定まっていませんよね。編集委員会の他のメンバーとしてどんな方に声をかけようと思いますか?

: まず責任編集者と珈琲カップで殴り合いをして、新しい方針を決める必要があります。それを基に新しく任命する編集員の方々にオファーをかけます。こちらが選ぶと云うよりは、方針が人を要求することになるでしょう。

――殴り合いとは暴力的ですね。ちなみに鯨を殴る時は北欧製の珈琲カップにしてくれますか? なんだか語感だけでそれは丸みを帯びていそうなので。

: 旅に使うステンレス製を持ち込みます。

――そうですか。作品と紹介文を選定する際もそんな痛みを伴う決断を下して欲しいものです。では最後に第十七回文学フリマに向けて、非公式ガイドブックの他に何を企てているんですか?

: 企ては、いつも向こうからやってきます。

――うまくぼかしましたね。それでは眠れない夜を。

: 眠らない文学フリマを。

――高村暦さん、ありがとうございました。

ターン (新潮文庫)

北村 薫 / 新潮社


匣と匠と匣の部屋-wir-

高村 暦 / 密林社


視姦

高村 暦 / 密林社


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by suikageiju | 2013-08-03 00:15 | 文学フリマ | Trackback | Comments(0)