サークル閉鎖。
by 鯨
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彼氏に別れを切り出す前に読む本
 逗子で、三鷹で、市川で世に「ストーカー殺人」と呼ばれる事件が相次いで起こっている。それらの事件で被害者に責があると一方的に決めつけるのは簡単だけれど、とても短絡的な発想だ。あくまでも罪を犯したのは加害者であることを忘れてはならない。決して忘れてはならない。加害者はどこかでとどまれるはずだった。でもとどまれなかった。それが加害者の罪だ。では、何をとどまれなかったのか? それは人間をやめてしまうことを。 なぜとどまれなかったのか? それは被害者に人間扱いをされなかったから。

 なぜ数千のメールが来るのか、なぜ何度も扉を叩くのか、なぜ電話が鳴り止まぬのか。いずれも人間扱いされなかった側が人間としての当たり前の扱いを求めて行動しているだけだ。人間扱いをされないという「いじめ」を受けたらただ黙って泣き寝入りをしていればいいのだろうか? 一人で人間扱いをされない理不尽さを処理して、ただ黙って命を絶てばいいのか? 人間扱いされないような奴は電波塔から身を投げれば良いのか? そんなことはない。人間としての扱いを求めて戦うべきだろう。どんな理由があろうと、一度縁を繋いでおきながら、人が他人との縁を一方的に切るのはその相手を人間扱いしないということである。「好き」とか「嫌い」といった感情を理由に、人間扱いしなくなるのを正当化しようとしてはならない。そして誰かを人間扱いしていないのに、被害者づらをしてはならない。その被害者づらにより、人間扱いされていない誰かに憎まれて本当の被害者になってしまうこともあるのだから。

 Twitterなどの世間は一時の気休めにしかならない言葉であふれている。それは過去に「ストーカー」被害を受けた人の言葉も混ざっているだろう。そんな言葉達は主張する。「結果として被害者となったからには自分は最初から被害者でした。悪いのはずっとあちら側です」そう言い張って、かつて自分が相手を人間扱いしなかったことを伏せようとする。最初に連絡を絶ったのはどちら? 最初に無視したのはどちら? 最初に別れ話を切り出したのはどちら?「結果として被害者となったからには自分は最初から被害者でした。悪いのはずっとあちら側です」そうやって自分を正当化して、被害者づらをして、あるいは被害者感情に寄り添った気になって、おいしいご飯を食べてぐっすり寝て、朝起きて同じような事件が違う街で起きて、また誰かが殺されても同じことを言うんでしょう。一時の気休めにしかならないことを口に出せるのは、「好き」とか「嫌い」といった一時の感情に左右されてしまうような思考しか持ちあわせていないから。そんな感情で惑わされて相手を人間扱いしなくなれるくらい、我が儘で自己中心的だから。




 最初に「交際相手」を「元交際相手」に変えてしまった、つまり人間扱いをしなくなったのは、どちらの側だったのだろうか。「好き」や「嫌い」といった自分の感情を優先させた、我が儘で自己中心的なのはどちらの側だったのだろうか。人間扱いをしない側は、勝手に相手を人間扱いしないでおいて、おまけに人間扱いを求める相手を「犯罪者」呼ばわりして、どうして自分は殺されないと思えるのだろうか。どうして自分は誰からも怨まれることのない無垢な被害者であると信じられるのか。他人を人間扱いしないことは犯罪ではない。でもそれは悪だ。その悪により人間扱いをやめた側は私的に罰せられるのである。

 本当にこんな「ストーカー殺人」事件を根絶させたい、被害者を出したくないと思ったら、一時の気休めなんて言っている暇はないだろう。もちろん被害者を責めることも無意味だ。けれど自分を慰めるため、被害者感情に寄り添うだけの言葉では同種の事件は減らない。だって被害者感情って要は誰かに殺されるような感情、人間関係に失敗してしまった思考体系なんだよ。そんなのに寄り添ってどうするの? 被害者を出したくない、そして自分も被害者になりたくないと思ったら学ばなければならない。何を学ばなければならないのか? それは「人間扱い」とは何のことで、「人間扱いをしなくなる」ことがどんなことかを学ばなければならない。

 彼氏に別れを切り出す前に読む本、『受取拒絶』は下北沢の古書ビビビさん、あるいはAmazonで購入できる。その本には、知人や友人や恋人から郵送された手紙に「受取拒絶」をする行為とは何を意味するのかについて書いてある。そしてその意味を、当の知人や友人や恋人がどう受け取めるのかについても。 この本を読めば「ストーカー」をつくらずに済むかも知れない。そして自分が被害者にならずにすむかもしれない。一時的な感情に動かされる自覚のある人には是非読んでほしい。

受取拒絶

牟礼 鯨 / 密林社


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by suikageiju | 2013-11-30 07:44 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
文芸座標・久保田輝氏による牟礼鯨インタビュ(於伏見ミリオン座)記事
 文芸座標、久保田輝氏の最期を鯨は知らない。彼が過ごしたという終焉へと向かう日々を鯨は読めない。彼の遺志を鯨は汲み取れない。ただ、11月4日の第十七回文学フリマで彼に遭った。サークル入場前から軍手をはめて長机を運んでいた。そして彼はイベントの途中で三重県桑名市へ帰った。帰る前に不穏なことを彼が口走ったのを鯨は覚えている。
「俺のブログがアクセス稼いでもしょうがないし。西瓜鯨油社のブログにインタビュー記事を置いてよ」

 11月7日に久保田輝氏からメールが来た。
受取拒絶』は大事にする。何となくあなたが俺を相手にしてくれた気がしたので。
勝手にそう思ってます。

 と書いてあった。そのメールに「牟礼先生インタビュー」と題されたzipファイルが添付されていた。名古屋の伏見ミリオン座付設のカフェで話したことを文字に起こしたものだ。その後、文芸座標のjugemブログは閉じられた。若かったのに。
 久保田輝という奇癖がこの世界に存在していたことの証として、そしてインタビュアとしての質問に垣間見える彼の思想を彼の遺志として後世に残すために、拙者のインタビュ記事を弊社ブログに転載する。
 11月7日メールに対する返事は送っていなかった。

 以下は久保田輝氏から送られてきた文書をそのまま載せたものである。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今更ですが、この度、「文芸座標」というサイトを始めました。「文芸座標」は面白い書き手や、面白い書き手になるのではないか、という人を取り上げて広報するのが主な目的です(でした)。もともとは「文学フリマ」界隈に着目したのですが、「文学フリマ」より大きな枠組みで、「文学」自体に寄与する情報を掲載したいと思っております。以下はその一環としての作者へのインタビュー企画です。

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第一回は全身小説家「牟礼鯨」です。

***

鯨の去り際はあざやかであったと思う。一言も、一文も残さずに職場から、会員寮から消えた。単に鯨を矮小化させるだけの怨み言も、何の意味も持たない謝罪文も書かずに消えた。職場の人間に、失踪した理由を思考したり類推したりすることすら許さずに、鯨は消えた。実家にも連絡すらしていない。でも最後の出勤日に雀蜂に刺されたことは何かしら予言めいた記憶を彼らに与えてしまったかもしれない。しかし鯨は何も痕跡を残さずに、彼らにとっての失踪者になった。社会人としては失格だったかもしれないが、鯨としては合格だった。そして、鯨は自分を取り戻した。(『OKULO』より)


最初は日直日誌だった。

——最初に「名前」に関して教えてください。私は「筆名」というものに興味を持っています。「筆名」とは「本名」とは違い自分自身を命名する「名」のことだと思います。さて「牟礼鯨」は、あるいは牟礼さんが旗揚げした文学結社「西瓜鯨油社」はどのような由来を持つ「名」なのですか?

牟礼鯨:もともとはBarkituro(バルキトゥール)という名前で文章を書いていたんだけど、それから「牟礼鯨」に変えました。mixi上での話ですね。「鯨」ってのは、もともと陸にいた生き物なんです。すべて陸上の生物は、海から上陸して来た訳だけど、「鯨」という生物は一度陸に上がってから、再度海に帰っていった。インド大陸のはずれ、現在のヒマラヤ山脈がある場所に、かつて「テチス海」という遠浅の海があって、そこが「鯨」が海に帰った場所だと言われている。「鯨」はほ乳類にも関わらず、まわりが魚類ばかりの海という環境に身を置いた。要するに、まったく異なる種の中で生きているんです。陸と海の中間にいる存在、此岸と彼岸を繋ぐ存在。そんな存在こそが重要だと思った。後、『モーツァルトと鯨』っていう映画があって、カップルの女がモーツァルト、男が「鯨」が好きで、それも理由の一つ。それから、「西瓜鯨油社」に関しては、リチャード・ブローディガンの『西瓜糖の日々』に出てくる「西瓜鱒油」っていう物質が出てくるんだけど、それを鯨に変えた。響きと文字の並びが良かったからね。

——mixiの話が出ましたが、「総表現社会」と呼ばれるように、現在は様々な環境で文章を綴る人々がいます。奇しくも私と牟礼さんは、共に1984年の生まれです。我々はジョージ・オーウェル的なレトロ・フューチャー以後の「透明な未来」を生きている(笑)。どの年齢でネットの洗礼を受けたか、というのは重要な問題だと思いますが、我々はちょうど思春期から大学時代にかけてネットに触れるようになった世代ですね。恐らく今、「文学」にとってもネットという環境が徐々に大きな意味を持ち始めているように思います。twitterを始めとするSNSなどもその一つです。「牟礼鯨」もサイバースペースにおいて「命名」され「誕生」したわけですが、牟礼さんは重度の「ブログマニア」ですね?

牟礼鯨:そうです。2006年のBarkituro名義、『世田谷エスペラント』というブログが最初のブログだね。その後『OKULO(眼球日誌)』というブログを始めたのですが、両ブログには『ゆうべ、ユートピアにて』という思弁的な対話篇が重複して掲載されていたりします。その後も多くのブログ遍歴を重ねてきましたし、現在もいくつか並行して運営しています。過去には「蕎麦ブログ」もやっていたりもした(笑)。

——中でもこの『OKULO』というブログは大変面白く、牟礼鯨のキャリアの中でも非常に重要なものだと思います。読者のみなさんにも、ぜひ一読をお勧めしたいのですが、実人生の様々な出来事、例えば女性の影が見えたり、仕事の話、ドラマティックかつドラスティックなドロップアウトと日本一周の逃避行、小説的な断片、思弁的な考察…と非常に多岐に渡っていますね。青春です。これを読むと、小説家・牟礼鯨が未だ顕在化させていない諸々の主題系が、水面下にはふんだんに潜んでいるんだな、とよくわかります。その意味では牟礼さんは完成された作家ではなく、大きなポテンシャルを秘めた作家だと言えるのかもしれない。そもそも「作家」とは、そのような執筆的体力というか、潜在する「豊富性」によって定まる「宿命の名」なのかもしれませんね。では、そもそも小説ないし書き物を、最初に綴り始めたのはいつからなんですか?

牟礼鯨:中学二年生の頃に「日直日誌」を書きはじめたのが最初です(笑)。どういう頻度で書いてたかっていうと、毎日書いてた。「日直日誌」というのは日直が書くものだけど、基本的に俺がすべて書いてた。当初は起きたことや、起きたことに対する自分の意見を書いていたけど、途中からは、起きていないことも書くようになった。地球の裏側に暮らしている人の話とか…覚えてないけどね(笑)。ただそれは小説を書いていたんじゃなくて、あくまで「日直日誌」を書いてたの。

——ある程度つながりのある話を書いていたのですか? それから読者はどれだけいたの?

牟礼鯨:数日に渡って書いていたりもした。ただそれは「日直日誌」だけどね。基本的にはクラスのみんなが読んでいた。普通、授業期間って200日もないじゃないですか? だから200頁で終わるんですけど、その年の「日直日誌」は1000頁になってた。俺が書いていない日もあったけど、その内の800頁ぐらいは自分で書いたと思う。

——それが最初の小説というか、エッセイというか…

牟礼鯨:「日直日誌」だね。

——最初の「日直日誌」(笑)。

牟礼鯨:日直日誌って日付があるじゃないですか。で、基本的にはブログっていうのも今日あったことを書くか、時には続けて物語を書いたりすることもある。それと同じ感じで「日直日誌」を始めた。要するに「ペーパーブログ」ですよ。教育実習に来た先生が、何でこのクラスは一人の人が書いてるのって(笑)。だけど鯨君の書いた文章は「読ませるね」って。

——女の先生?

牟礼鯨:男。そこにロマンスを期待してもしょうがないだろ。「読ませる文章」を俺は書けるのかなって思った。

——「読ませる文章」を書けた背景として、その時点でそれなりの読書体験は積まれていたのですか?

牟礼鯨:中学二年の時に俺はすべての勉強をしないと決めた。代わりに何をしていたかというと、俺の学校は六限授業があったんです。新書程度なら、二コマごとに一冊の本が読めるし、休み時間と昼休みでもう一冊読める。そう考えると一日に四冊の本が読めるわけです。基本的に学校にあった『筒井康隆全集』や『森茉莉全集』や国書刊行会の『幻想文学大系』シリーズを片っ端から読んでいってた。後、村上春樹とかも全部読んだな。

——なるほど。しかし大胆ですよね。最初の執筆体験が「日直日誌」というのは、要するに人に見せる所から始めたわけでしょう?

牟礼鯨:まあ、厳密にいえば、その前の小学生の頃に日本を舞台にして大名同士の抗争を書いていたし、中学に入ってからは自分で作った大陸での抗争を書いていた。それが下地にはなっている。ちなみに、その世界の地図が実は『コルキータ』に出てくる世界と同じなの。

「地理」「歴史」「語学」

——牟礼作品を読んでいると、「物語」を中心の軸として、「歴史」と非常に細かい「固有名」が出てきますね。「地理」「歴史」「語学」。それらが牟礼さんの興味の中心だと思うのですが? 大学時代には「イスラーム史・東洋史」と「エスペラント」という非常に専門的な勉強をされましたね。

牟礼鯨:「地理」「歴史」「語学」は好きです。小説にはあんまり興味がないんですよ。「空間と時間」が好き。ただ「イスラーム史」はあまり真面目にはやっていなかった。「東洋文庫」に行って、オマーンやアラブ首長国連邦の辺りの「海賊海岸(パイレーツ・コースト)」について調べたりはしていた。「海賊海岸」とは、イギリスと植民地のインドを結ぶ交易商船を狙った海賊の根城があった地帯です。要するに、アラブ首長国連邦の首長達は海賊の末裔なんですね。

——牟礼作品の『コルキータ』や『オルカ』等といった作品は、架空の世界であるとはいえ、イスラーム的な印象を与えると思いますが?

牟礼鯨:物語の根底にあるのが『千夜一夜物語(アルフ・ライラ・ワ・ライラ)』だからね。それから『春秋左氏伝』、ヘロドトスの『歴史』。基本的に東洋・アジアに偏っているね。『千夜一夜物語』はそもそも中央アジア・ペルシャあたりが起源で、イラクとかエジプトの要素を含んでいる物語で、『春秋左氏伝』は中国だし、ヘロドトスも基本的にはペルシャとか小アジア(トルコ)、エジプトあたりに視点が置いてあって、ギリシャについてはまり書いていないしね。専修は「東洋史」なので、我々がみた中国・日本・韓国ではなく、西洋人から見た東洋、つまり「オリエンタリズム」が「物語」の根底にあるかもしれない。
 それから「エスペラント」に関しては、学校の勉強をやめた時点から「英語」が嫌いで、中学生の頃は「トルコ語」を独習していました。「エスペラント」は、大学四年生の時に紀伊国屋書店の語学の棚の端っこで、関連書籍を見つけたのがきっかけ。教科と科目の違いって分かります? 「社会」は教科で、「歴史」とか「地理」は科目なわけです。分類の上下関係。それで「英語」というのは教科じゃなくて科目なわけです。センター試験などを見れば分かると思うけど、教科は「外国語」なんです。それが一部私立の「仏語」等を除いて、一般的な国公立では「外国語=英語」という教育制度上の常識がある。俺は、少なくとも半年は「エスペラント」を学習して、その後に他の言語に移るのが筋じゃないのかと思っています。

——「エスペラント」の歴史的背景への関心は当初からあったのですか?

牟礼鯨:最初はなかった。純粋な語学的な関心ですね。ただ学習していくうちに「エスペラント」を作ったルドヴィコ・ザメンホフのバックグラウンドに、三分割されたロシア帝国領ポーランドがあり、ロシア人・ポーランド人・ユダヤ人・リトアニア人・トルコ人・ドイツ人等の多言語状況があったことへの関心が芽生えてきました。

人生は無価値だ、自殺する価値もないくらいに。世界図書館から物語を抽出する物語作家も無価値だ。ただ物語には価値がある。それは物語作家に価値があるからではなく、物語が世界図書館から抽出されているから。そして夢にも価値がある。夢は物語の種子であり、人類創始からの記憶をなぞっているから。価値は星の通貨で量られる。
西瓜鯨油社宣言(manifesto de societo suikageiju)


「世界図書館」と「完全なる書物」

——「エスペラント」とは、「人工言語」であり「普遍言語」を目指すという理念のもとに作られたわけですが、牟礼さんの「世界図書館」という概念にも共通する「普遍性」へのこだわりはあるのですか?

牟礼鯨:「世界図書館」とか「物語」について語れば、どうしても「個性論」の話になるわけですが、創作にとって「個人」というのはどうでもいい概念です。自分の個性を出していこう、という考えが「個性」だ、という見方もあるわけですが、俺はそうは思わない。あくまでも「普遍」を目指していく「過程」で滲み出る違い、それが個性じゃないのかな、っていうのがあくまでも前提なんです。ところで「世界図書館」の由来の一つはホルヘ・ルイス・ボルヘスで、彼には『バベルの図書館』というのがあります。さてでは「世界図書館」に対比されるものって何か分かりますか?

——(笑)。はあ…。えーと、何でも収蔵されている抽象的な場所なわけだから…何か個人の、誰にも見せないような、日記帳みたいな…?

牟礼鯨:まあ似ているけど「聖書」です。「聖書」は、一冊で世界のすべてを含んでいる。俺には「世界図書館」と対比される「完全なる書物」という概念があります。これは伝説だけど「アレクサンドリア図書館」という古代最大の図書館があって、一般には、それをイスラム帝国の将軍がやってきて焼いたとされている。…実際は別の人が焼いたらしいんだけどね。彼は図書館に火を放つ前に、カリフに手紙を出し、伺いを立てた。「この書物を焼いてもいいのか、それとも取っておくべきなのか」。カリフの回答は「もし図書館にある本がコーランに反しているなら、アッラーを冒涜する書であるから、すべて焼き払いなさい。もしその本がコーランの内容と一致しているのであれば、コーラン一冊でこと足りるから、それも焼いてしまいなさい」。結局のところ、「すべて焼いてしまいなさい」。つまりは「聖書」を基準にして、膨大な書物の運命が決まったわけです。なぜ多くの書を集めるかというと、それは全ての知識を網羅するため。しかし「完全なる書物」一冊さえあれば、それら膨大な本=図書館は不要になる。基本的には「西瓜鯨油社」のコンセプトは「普遍」を目指すのだけれど、少し迷いがあります。「完全なる一」を目指すか、「網羅による多」を目指すのか。仮に「西瓜鯨油社」および「牟礼鯨」に個性があるとすれば、「普遍」を目指す「過程」での、そんな揺らぎこそが「個性」だと思います。

——なるほど。奇妙な傑作『南武枝線』にも関わる、「一と多」という主題が出てきたのですけれども、牟礼さんは「完全なる書物」を未だ書かれていないという認識なのですね?

牟礼鯨:ええ。目指してはいますけど、まだ書けてはいないですね。ただ、『コルキータ』とか『オルカ』などの一冊ものは「完全なる書物」をイメージして書いています。あえていえば「擬した」という感じです。一方の『物語群』や短編集は「網羅的な書物」を「擬した」といってもいい。しかしながら「完全なる書物」にも「図書館のような書物」にも共に到達はしていませんけどね。

——『ガリア女』は「多」に入るのですか?

牟礼鯨:そうだね。ただ、どちらかというと『ガリア女』のような現代を舞台にした小説は、また違う分類に入る印象があるけどね。

理想に一番近い本は『プレイボーイ』誌(ロリコン万歳)

——さて、それでは具体的な作品の執筆に話を移行していきたいと思いますが、「架空の国の抗争」「日直日誌」「ブログ」という遍歴を経た、最初の本格的な小説執筆について教えてください。

牟礼鯨:「西瓜鯨油社」の「牟礼鯨」名義では、大学五年生の1月から3月にかけて書いた、50編ぐらいの『掌編集』という短編集が最初の作品です。現在の『物語群』は、実は『掌編集』と『複雑系』とその他の寄稿を合本したものですね。つねづね思っていたことなのですが、ブログの『OKULO』等で読書感想文や好きな本の一覧などを作りながら、世の中に読みたい本がない、読みたい雑誌がない、と感じてきました。理想型に一番近いのは『プレイボーイ』誌でしたが、グラビアが好みではなく、ロリコンというか、もっと12、3歳ぐらいの女の子を表紙にすればいいのにと不満でした。ただ『プレイボーイ』誌にも内容の濃い記事はあり、チョムスキーなどの名前が載ることもある。でもやっぱり表紙が良くないんだよ(笑)。そういう風に、読める本と読みたい本が違う中で、自分が読みたいものを自分で出す、それが基本的な考え。俺は俺の読みたいものを勝手に出すから、お前らも読みたかったら勝手に買え、っていうスタンス(笑)。

——その時に読ませたい対象はいないんですか?

牟礼鯨:いない。自分で読む。

——そういうスタンスが一方にありながらも、例えば牟礼さんは「文学フリマ」の一部では、ある種のネットワーカーであるように見えますが?

牟礼鯨:ネットワーカー(笑)。どんな文学的に硬派な旗印を掲げようとも、基本的に「文学フリマ」は出会いの場じゃないですか?俺も人と話すのが好きなので、んー、例えば久保田は人間の屑だと思うんだけど、話すのが好きだから今も話しているし。

——牟礼さんは「俺は文学者のスタンスとしてカフカに共感する」とかつて発言しましたが、ハードコアな文学者でありながら、市井の人として生涯を終えたフランツ・カフカに何を託されたのですか? 文学へのハードコアな関心と、会って普通に交友関係を結ぶことを自分の中でどう位置づけているんですか?

牟礼鯨:それらは全く別のことですね。「文学は孤独の営為」であって、作品を孤独に出し、交遊は別の水準で結ぶ。

——書くことの深みに潜った地点で、そのまま人と関係したいという欲求はない?

牟礼鯨:さっきの「世界図書館」の話じゃないけど、色んな人に会い経験の「断片」を「収集」することで、普遍的な人間世界の法則を知ろうとしているとはいえる。人に会うことで情報を集める。それが「一」か「多」のどちらに向かうのかはわからない。「人付き合いはひとりでいい」「人付き合いはたくさんがいい」。それはわからない。仮に「一」人の人間と深くつきあうことで世界のすべてがわかるなら、それもいいかもしれない。けれど今現在においては、俺は「多」の方向に向かっている気がする。例えば「伝記」はあくまで個人に焦点をあてて、人生を掘り下げる事で人間全体の本質に迫ろうとする文学的試みである。一方、群像劇は数多くの人々を「収集」していくことで人間の本質を掴もうとする。目的は一緒で、普遍的な人間像を求めているんだけど、その「方法」が違うんだよ。その「方法」の違いが、作家や思想家の「個性」の違いなんだ。

続き ―「物語」と「小説」の違い
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by suikageiju | 2013-11-29 00:39 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
絶対移動中vol.14 特集:異界 マヨイトあけて
 文学フリマには「お母ちゃん」と呼ぶべき人が2人いる。兎角毒苺團の伊織さんと絶対移動中の伊藤鳥子さんである。会場入口近くに割り当てられた絶対移動中ブースへ行き、そこでぴょこんと座っている伊藤鳥子さんに
「お母ちゃん」
 と声をかけると、第二展示場1階にバミューダ海域よりももっと静かな海原が広がった。帆のない舟が滑るように航る海だ。無言で差し出された掌に対価としての貨幣を落とし、本を受け取ってブースを離れた。最後まで言葉が交されることがなかった。あのとき鯨が見たのは何だったのだろう。これは伊藤鳥子さんが編集した『絶対移動中vol.14 特集:異界 マヨイトあけて』である。異界モチーフは古代からよく使われている。黄泉、鄭邑の隧道、ウェルギリウスのいる森、不思議の国のアリス、コンゴ川の奥地などなど。さて、今回はどんな異界がたち現れるのだろうか、と期待しながら読んだ。
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「四ページ目の真代子」、宵町めめ
 巻頭作らしい仕掛け。「続いている公園」を視覚つきで見たような、突然あらわれたメビウスの環を一口で食べちゃった感あり。

「まにまに」、加楽幽明
 あちら側はこちらであり、まだそこは夢の中なのだろうか。異界と斯界の境界として丁寧に幾層にも膜をはっていくような感覚を得られたのが良い。足元がふらふらになった。

「外に出ようとする男と女」、涌井学
 外と「外」の指すものは違うけれど、回り回って同じ自立を目指すってこと。そうすると異界であるところの内=「内」をもっと狂気じみて描くと、火災で燃えたあとの場面が反動で聖性を獲得する。

「台所の人」、高橋百三
 そこから先、時間を遡行して観られる景色、その人の脳髄がかつてとらえた記憶はもう他人にとっては異界なのだ。

「鏡子ちゃんに、美しい世界」、伊藤なむあひ
 ここにもう一人、世界図書館の司書を志す者が。鏡子ちゃんという概念の踏み込みが深く夢中で頁をめくった。もちろん最後の電波塔のシーンは「安直な」自殺なんかではなく、リリィ・シュシュのすべてだった。でも、この篇は引用という基盤の上に成り立っているのだから、やはり安直だよ。だってそれは分かる人だけが分かる異界なのだから。

「メイコの世界」、伊藤鳥子
 思弁小説めいていて、予め定められた結末に強いられて落とされた読後感。異界のアルゴリズムは楽しめたけれど、アルゴリズムを見せられなければ、描かれようとした世界を得られただろうか。きゅん

「SIX」、業平心
 将棋の話? だけじゃないと思う。でもよくわからない。読めない。

「マスカレイドスコープ」、秋山真琴
 王道ファンタジーから企業戦士もの、そしてSF小説。そしてそもそもこれは6人の誇大妄想狂が幻視した異界なのね。上手い。

「ヴァニシング・ポイント実験小説」、蜜蜂いづる
 実験小説の実験結果は実験小説そのものだから肝心の実験は執筆段階にあるという事実を鋭く突いてきた作品と言える。実験小説の読者は結果だけ見せられて、肝心の執筆段階は読み手にとっていつまでも異界であり、立ち会えない。

「哲学小説」、有村行人
 異界からのアルファを見つけた夜を思い出した。聖性について考えさせられる。

「暗黒舞踏会」、くりまる
 舞踏と舞踊の違いもわからず、黄泉の舞台へとおりたった感覚を得た。
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by suikageiju | 2013-11-26 08:19 | 感想 | Trackback | Comments(0)
南武枝線第二版入稿す
 『南武枝線』は第十五回文学フリマとC83で頒布し翌年の第十六回文学フリマin大阪で売り切れた本だ。古書ビビビさんに置いてもらわず、密林社さんのご厄介にもならなかった。このたび訳あって第二版を入稿した。いつか、どこかで、あなたも第二版を手に入れることができるようになるかもしれない。
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 第二版のデータ作成にあたり校閲を依頼した。校閲は夜に寝て昼に起き修正を施していってくれた。その結果、元の文章なんて跡形もなくなって、どちらが著者でどちらが校閲だか分からなくなってしまった。もはや奥付の「著者 牟礼鯨」は権利や名誉を放棄して、責任と罪の在処しか示さない。こうして念願かなって『南武枝線』は鯨の手を放れ、宙に放られて、公共の女となったのだ。
 またkindle向けの電子書籍版も第二版のデータに更新したのでまだ購入していない人はすぐに購入すべきだし、もう購入してしまった人もココのやり方を参考にして「ASIN:B00BISD528」で最新版を手にいれた方が良いだろう。
 下に『南武枝線』初版に手向けられた感想・批評をあげる。これらを書いた彼らは当然のことながら第二版の共同執筆者となった。

第十五回文学フリマでチェックした作品たち~安倉儀たたた~|NETOKARU
読み始めたときには痴漢や駅構内での自殺などマチズム的にも思える男性的な視線の強さにやや苦手意識をもつ人もいるかもしれないが、そのマチズムが崩壊していく過程にこそこの小説の神髄が詰まっている。男性が恋愛の狂気にとりつかれて郵便局から出るシーンにはナポコフの『ロリータ』に匹敵する、男性がみじめな存在になる、あの戦慄を覚えるはずだ(引用)


牟礼鯨『南武枝線』|薄荷塔ニッキ
 私にとって物語に捉まったというのはどういうことかというと、どの単語も世界の真理を含んでいると思い込んでしまうということである。嘘つきの澤田彩香の発した言葉の「嘘つきメモ」が真理なのだという以前に、その直前の「あの息苦しいカフェ」も「一冊の方眼紙ノート」も総て真理だと思い込んでしまうということである。(引用)


西瓜鯨油社 牟礼鯨『南武枝線』|酔いどれラジオの無言癖
 また牟礼鯨ワールドにずぶずぶとのめり込んでしまいました。「痴漢もアリかー?!」という幻想的な読書体験をありがとうございます。(引用)


痴漢と恋愛|CRUNCH MAGAZINE
南武線を中心に繰り広げられる、セックスや痴漢や自殺といった情景は、現実世界にありながら、どこか夢を見ているように幻想的。曖昧な時系列が紡ぐのは、痴漢なのか、それとも恋愛なのか。(引用)

第15回文学フリマで出会った本について語るときに自分の語ること|雲上四季
南国の咽返らんばかりの気怠さと生温かい官能を得手とする、と勝手に思い込んでいた牟礼鯨さんによる痴漢と恋愛を描いた作品。南武線を中心に、見知った地名が頻発し、セフレとセックスしたり、痴漢したり、飛び込み自殺を見たりして、最後は、ちょっと幻想的な感じでした。ちょっと時系列が分かりにくく、章と章のぶつ切り感が強かったかな。(引用)

牟礼鯨/南武枝線|山本清風のリハビログ
また文章量が増えたと云っても同じテーマを同規模展開するためには、時間軸のシャッフルや著者の文体に備わっているそぎ落とした描写、ときに熱を帯びてありありと読者の鼻先に匂う部分なくしてとてもあのページ数では描き切れないのだから、これはやはり警句なのだと私は思う。ちなみに鼻先に匂うと私が書いたのは主人公が幾度か熱心に動き廻る場面や、ラスト付近に南武支線と対峙する叙情。ひとつの物語のなかで温度変化があるのは当然かも知れないが、ひとつ著者の特長に一定温度を保つというのがあった。だが物語を終わらせぬためには、その温度変化は今回必要なものだった。(引用)

第十五回文学フリマ感想:南部枝線|零零壱参
牟礼鯨作品は見習う点が多々ある。
彼は決して自己陶酔で文学をやっているわけではないんだろうと読みながら思う。
彼の作品に出てくる女性はすぐヤらせてくれる人が多いが、
それが別に作者がそう望んでいるからだ!という乱暴な主張はしない。
作者と作品の中に隔たりがあり、
作品世界を作者がわらっているように感じるところがある。
多大な表現力と知識を持ち得ながら
それを衒学的につらつら書き連ねるのではなく、
必要な部分にバシッと入ってくる。
ほんとうのほんとうにうまいなぁ、と思った。
これからどういう作品を書いていくのか楽しみだ。(引用)









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by suikageiju | 2013-11-24 14:19 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
バウンダリー・ドメイン
この敬体まだるっこしいな、と思って読んでいたけれど楽しめた。平行宇宙や過去を改変して地球の危機を救うといったテーマはあまりSF小説を読まない鯨でも陳腐に思える。ただ、文体で救われた感じがあるかな。在水あゆみさんの『バウンダリー・ドメイン』
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日本語の敬体だと太宰治の『人間失格』に引きずられてあの調子になるのだけど、該当作は敬体になることで助動詞一個分だけ間延びして、かつ文体の婉曲さとあいまって話者である少女のまだるっこしい語り口を堪能できるようになっている。未来からのメッセージの語り口との差違も良い対照となっていた。もっと書き慣れると凄い物を出してきそう。
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by suikageiju | 2013-11-24 13:31 | 感想 | Trackback | Comments(0)
ami.me (アミ・メ)
今回、人に請われ短歌を読んで何か書いてみることになった。詩や短歌の感想ってよく分からない。書いたことない。なので、分析的な評っぽいものしか思い付かなかった。そして、本に載っていても詩はよして短歌だけについて書いた。題材は『ami.me』。
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改札を出てから雨にぬれるまで駅はどこから終わるのだろう(吉田恭大)

駅前あるある。改札を出て案内図に迷い、地下街に入ったり、アーケード商店街に入ったり。外は雨のはずなのに、電車から降りて傘もささないのにまだ濡れない。町は雨。そしてコンビニ前を曲がり、アーケードから外れ、民家の建ち並ぶ路地に出て、はじめて髪を湿らす。あ、駅が終わったな、と思う。ところで、ここはどこ?

路地猫を追う君を追わない僕を気にしなくてもいいから、猫を(吉田恭大)

詠み手の視線が猫→君→僕→君→猫と往復するのが面白い。そして焦点は猫のさらに先に飛んでいく。猫のことだから町をこえて、国をこえて、空をこえて行くのだろう。中途で終わらざるをえなかった呼び声は永遠に木霊する。そのことを君も僕も忘れてはいない。

コンビニを辿ってゆけばそれぞれにあかるい歌が聞こえる町だ(吉田恭大)

町田? コンビニに入れば聴こえてくる陽気な歌謡曲。では次のコンビニへ。また聴こえてくるのはオリコン入りした歌謡曲。では次のコンビニへ……、って日の沈む、迷い猫も寄り付かぬ町は寂しいな、おい。この町の見所はコンビニだけかいっ! という声が聴こえてくる、ような。
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by suikageiju | 2013-11-23 20:00 | 感想 | Trackback | Comments(0)
日々是空色
ある人からこの本を手渡された。
「あなたの本ですか?」
 と問うと
「違います。ただ、牟礼さんがこの本を読んでどう思うのか知りたくて」
 なんてことを返す。そういうのいらないんだよね。鯨がこの本を読んでどう思うかなんてどうでもいいじゃん。なになに、自分の感想が正しいのかどうか鯨が書いた感想を読んで確認でもするの? それとも鯨が感想を教えてあげないとこの本を読めないとでも言うの?鯨のブログは文芸同人の答案用紙じゃないんだよ。いい? 鯨はそこらへんを漂う閉塞感兼ブロガーなの。権威も学識もここにありはしないのだよ……。
 という経緯があったので借りたままずっと放置してしまったこの本。綾瀬眞知佳さんの『日々是空色』
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指先のむこう
 いかにも「これ、面白いだろ」ってドヤ顔している小説あるでしょ。融資した五億円でもないのに伏線を無駄に回収したり読み返したら絶対恥ずかしいのに大袈裟なアクションシーンがあったり。それってたぶん娯楽であることが読者を楽しませようという作者自らの意志が何らかの高尚な価値であるかのように勘違いしているんだろうけど、陳腐なだけだよ。「指先でむこう」を読んだ。そう、これだ、これだよ、これ、と読後に思った。こんな小説を読みたかったんだ。淡々と何も起こらず流れる日常のなかでうつろい行く生活とか何気ない会話とか、すれ違う思いとかそういったことを丁寧に描き出す小説。読みたかったものに出会えた感が強い。まず、香澄君の一人称=自分の苗字、に違和感が芽生えたんだけれど、逆にそれが良い違和感となって作品に入り込めて、居酒屋で彼らの隣で座って話を聞きたいと願えた。ただ、ちょっと読みの速度をはやめると筋を追えなくなるので、印象を与える力が薄い、あるいはそうすることに消極的なのかな。そう考えると、まぁ、つまらない。でも逆にそこがただ読むのに向いている。そして鯨はただ読みたいのだ。漢詩の引用も嫌味がなく、作品に広がりを与えている。そして引用のやり口が巧み。

アップルミントスクエア
どうでもいいひとなら、誤解されても気にしない。

 人はなぜ本を読むのだろうか。たぶん性交するためだ。ではなぜ本を書くのだろう。これも性交するためだ。本屋さんへ行けば、どの人の額にも「セックスしたいです」と書かれている。なぜ、本を宣伝する? セックスしたいから。なぜ、本を買う? セックスしたいから。そして、この短篇もそういう小説だと感じた。感じさせられちゃった。お涼さんの小指はきっと次元の異なる世界に、そして宇宙の果てにまだ在るのだろう。
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by suikageiju | 2013-11-23 18:37 | 感想 | Trackback | Comments(0)
LOL第17号
11月16日に山吹町の絵空箱で上演された日本のラジオ「パパなんて大嫌い」と「さとうさんち」を観た。いずれも屋代秀樹氏が高校時代に書き下ろしたコメディ劇であるという。これ、すごい笑った。そしてセーラー服姿でツインテールの仲田沙良さんが段ボールから出てきたとき絶頂を迎えるかと思った。
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その帰り道にLOL第17号ローテーションハイクォリティを読んだ。アイヌ・ケンネルさんの「フンコロガシ」、対決の日に天下一品に入るシーンで胸が高鳴る。玉置君のその後が気になる。というより玉置君のこの小説全体における捨て駒感が一種のボケだった。そしてヤシロヒデキさんの戯曲「ラクエンノミチ」は今年の6月に新宿眼科画廊で上演されていたという。是非そこでこの劇を観たかった。静と動、緩と急を楽しめただろう。冒頭の注意事項の読み上げなんて一気に観客を引き込んだよね。それと石橋英明さん。
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by suikageiju | 2013-11-17 17:04 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
受取拒絶、昔鯨類、ヌクゥなど


敏感だなあ。

少女は20代前半まで。

ちゃぶ台返し……。

そこから先は変態領域。

ぬくぅ

凄いのは君だよ。


いただきました。

ゆきめってぃのことはなんでもわかるよ。

「モテないでください」に愛を感じた。


文鯨結社猫。


……『受取拒絶』です。

聞きたい。

恣意さんはトキシン。

一日3食ジャガイモ生活。

「分かっているのに、分かっていてもロリコンストーカー野郎を憎めない。読みながら彩香の落ち度をアラ探ししている自分がいるのだ。私は読者なのに何も出来ないのに、ただのロリコンストーカー野郎を弁護しようとしているのだ。」

 「適当なもの」への変換はご自由に

普遍とは何か

フィクションとノンフィクションの端境期



北海道的共感。


小説と物語は別物。

精神昏迷系作家

この競作のテーマは何だったのかを知りたい。

このレベルが一番書きやすかった。









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by suikageiju | 2013-11-16 07:11 | 弊社発行物 | Trackback | Comments(0)
樹木たち
この本の作者であるカオスカオスブックスの富永夏海氏はおそろしく背が高い。幼い子供が見上げたらきっと泣いてしまうだろう。
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読んでいると時間がとまったような感覚がある本だ。もちろん読み始めてから読み終わるまでに2時間ほどかかっておりその経過はちゃんと感じていた。体力を消耗するので30分ほどの仮眠を必要としたが、読んでいる時間はちゃんと流れていたと細胞が記憶している。では何の時間が止まっていたのか、それは物語的時間が止まっていた。一続きの物語であっても細切れの三千の掌篇を読んでいるような内容で、透明な篇から透明な篇へ跨げばその度に時間はリセットされて0になるのだから、物語的秒針が進んではまた戻るのを繰り返して、それで「物語的時間の停止」を読み手である鯨に想起させたのだろう。
 この本は装幀の美しい本である。いや複雑な線で彩られ縁取られた本だ。その複雑さに「美しい」という意味を投げかけられたのであればそう呼べるのだろう。そんな美しい装幀と、この本のところどころに鏤められた「乾いたバターに似た鳥の体臭」のような印象的な修辞、そして上記の物語的時間の停止、この3つが重なったのであれば自ずと解は見えてくる。
 この物語は本という形において完成されており、その形のまま止まろうと欲求している。時間をかけて通読され物語として解釈されることを拒否し、部分的で断続的な読みのみを求めている。それでは物語は本を超えて出てきやしない。しかし本という制限下で閉じ込められた物語をいつも新鮮なかたちで読み手に提供できる。そのように物語を封じこんだ本のおとなしさを、鯨は肯定して受容しよう。
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by suikageiju | 2013-11-14 23:30 | 感想 | Trackback | Comments(0)