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情報カードで階層ToDoリストをつくる
 文芸サークルについてまわる諸問題はつきつめると、貨幣時間の2つに絞ることができる。とくに取材旅行をする必要に迫られると交通費や宿泊費が日常生活に深刻なダメージを与え、そして勤務者であれば有給休暇の取得などで精神的に追い詰められながら移動時間と取材時間を確保しなければならない。日本国内ならまだなんとかなる、でも「海外へ行き、現地の様子を見てみないことには」なんて事態になると大変だ。航空券代やホテル代が嵩むのもそうだし、目的地が遠ければ移動だけで2日や3日は要する。そしてその前段階である準備が煩雑だ。そもそも通称「パスポート」、日本国旅券を持っていない、持ってはいるが期限切れだ、なんてことになればそれを申請・取得するところからはじめなければならない。
 ファンタジー小説などでホビットたちやハイタカがさまざまな困難と出会いながらもなかなか自由に国から国へと旅をしているのに憧れたこともあろう。でも我々はそうはいかない。我々の目の前には目に見えない「国境」が立ちはだかっている。許可無くその向こうへ足を踏み入れれば密入国者となる。この小さな第3惑星の地表にへばりついて生きる人類が自分でその地表を区切り、ナワバリを主張して自分たちの自由を束縛している様は滑稽だ。高度なまでに発達した入国管理と身分証明の制度がこのような理不尽を強いているのだと言うのはたやすい。でも、実のところはまだそれらの制度が未熟なためにこのような苦汁の日々を甘受しているのだ。やがて数十年後には、より高度な身分証明と、より魔法じみた入国管理がハイタカのような旅を可能にするだろう。
 期限切れのパスポートをもとに新規にパスポートを申請するにはいくつかの書類が必要で、そのなかでも入手困難なものとして戸籍抄本がある。東京都に住んでいるのに本籍地が他県にある場合はその役所へ郵送で戸籍抄本を発行してくれるよう申請しなければならない。そしてその手続きにもいくつかの書類が必要だ。その期限切れパスポート新規申請に必要な書類を整理するために5×3サイズのコレクト情報カード(補助6ミリ罫線)OSANPO shoppingさんで購入した親子ToDoスタンプを使って、階層ToDoリストを作成した。パスポート新規申請のための親子ToDoの一項目である「戸籍抄本または戸籍謄本」の右にそれを申請するのに必要な親子ToDoを並べる。
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 ToDoリストは業務管理関係のハックでは、莫迦のひとつ覚え感がある。だけど、だからこそ使い勝手が良いのだ。そもそもこの親子ToDoスタンプを使った階層化は日常の仕事管理でも使っている方法で、単純な階層ToDoリストであれば簡単に作ることができる。また、起動の時間を要するスマートフォンなどでの管理とちがい、ポケットに入れておけばToDoをこなすたびに人体の速度でチェックを入れることができる。コピーとペ―ストして繰り返し使う内容や長文でなければ、やはり手書きでメモするのが効率的である。そして情報カードを使いそしてカード管理システムを機能させれば5年後や10年後に同じ事態に陥っても、制度が変わっていなければ再利用することができる。
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by suikageiju | 2014-01-18 08:15 | 情報カード | Trackback | Comments(0)
情報カードを名刺に
 5×3サイズのコレクト情報カード(補助6ミリ罫線)に名前と日付のスタンプだけを捺印して名刺としてみる。名刺代わりに使ってきた西瓜鯨油社宣言ももうすぐ在庫がなくなろうとしている。試みに作った名刺の大きさの比較のために普段使い用の名刺を並べる。
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 まず大きい。従来の名刺サイズよりもでかい。そして何も情報が書かれていない。名前と、その人に名刺を渡すことになった日付しか書いていない。そもそも普段使い用の名刺には名前しか書かれていないけれど、5インチ×3インチと名刺サイズよりも大きい紙なのに名前と日付しか書いていないと、大きさに比べて情報量の少なさが目立つ。
 でもそれだけでいいんじゃないだろうか。
 書類を整理していてこの名刺が出てきたとして、名前と日付さえわかれば、ネット上や手帳などの記録から自分が牟礼鯨という人物とどんな出会い方をしたのかを思い出せるだろう。地下のバーで鳴らしたグラス、見知らぬ天井とうるさい換気扇の音、ゴムについているローションのフレーバー、子供たちの集う賑やかな同人誌即売会。それらを喚起するのは名前と日付、それだけでいいのではないか。それで何も思い出さなければ牟礼鯨とはそれまでの関係だったということではないのか。そうなら思い出す必要もない。
 罫線の引かれた余白の部分は大きいのだから受け取った人に、そこへメモを書き込んでもらう。「牟礼鯨」の読み方、メールアドレス、職業、生き様、何をしているか、読んだ本の感想、第一印象、怨みつらみ、感じたこと、調べたこと、あるいは牟礼鯨に直接訊いたこと、そういった事項を記入できる。あなたなりの牟礼鯨情報でどんどん余白は埋まっていく。
「あなたの情報はこんな5インチにも満たないカードに書けてしまうくらいのそんなちっぽけな人なの?」
「あなたの、短くまとめる力を信じていたのですけれども」
 まず日付が違うので同じ名刺はそんなに枚数がないという希少価値がある。そして書き込まれる内容は上記のように受け取った人それぞれに違う。名刺を発行した数だけの牟礼鯨の情報が存在する。この名刺スタイルは牟礼鯨が一人ではないことを証明する。牟礼鯨は遍在する。牟礼鯨はそれぞれの情報群のなかに遍在している。
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by suikageiju | 2014-01-12 00:05 | 情報カード | Trackback | Comments(0)
スーパー・ファッキン・ドライ
 11月にも一回読んで、その時は「勢いがある」とつぶやいて本を閉じた。山田宗太朗さんによるこの本には「そんな目で見ないでくれ」と表題作「スーパー・ファッキン・ドライ」が収録されている。
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 2度目に読んで、地の文での語りがあまり上手くないのは、きっと精神的に不安定な主人公の一人称で綴られているので、敢えて崩しているのだと推測した。これは微妙な選択で、作品の雰囲気を作るために下手に書くという手法とそれでも読み応えがあるように書くという手法のどちらが正しいかは一概に決めつけられない。ただ、下手に書いても文章を書くことに巧みな人は言葉の選び方で滲み出る味があるもので、そういったものをいささかも感じられない本著はもしかしたら推測が外れて単に書き慣れない作者による若書きなのではという怖れもある。あるいは完全に読み手が欺かれたか。疑心暗鬼な一冊である。

「そんな目で見ないでくれ」
 この掌篇の主題ととらえられる男の焦燥感や執着の表現が、やや唐突でそして乾いた性描写によって薄められて、ぼやけた感じになり、そしてそのまま唐突に終わっている。独特な疾走感のある文体で読み手は置いてけぼりをくらった。
「スーパー・ファッキン・ドライ」
 シンクにビールを垂れ流す盛り上がり場面のすっぽ抜け感に戸惑いを隠せない。小学生である子とその親である麻酔科医との、テストの点数を媒介にした言葉のかけあいが面白い。

 全体を通して感じられたのが「言葉への信頼が弱い」ということ。言葉への不信感が肉としての言葉を盛ってしまう。これを小説に変えるには無駄な言葉を削り、スト―リー或いは場面を増やす必要がある。そして他人の心に土足で入り、何よりも嘘を鍛えること。
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by suikageiju | 2014-01-09 00:39 | 感想 | Trackback | Comments(0)
情報カードでできる24のこと
 21世紀は有閑頭脳労働者がアナログへ還る世紀である。デシタルは肉体労働の道具と見なされる。そんな時代の奔流のなかで見直され使われるのは、文房具店の片隅で埃をかぶっている情報カード群となるだろう。以下、その情報カードでできること24を並べる。元ネタは24 Things You Can Do With an Index Cardだが、そのままではつまらないので見出し以外はほぼ創作である。ここで言う「情報カード」とはコレクトの5×3情報カード補助6ミリ罫のことだ。

1.ToDoリストを作成
 朝、その日のうちに達成すべき幾つかの事項を情報カードに書き並べる。その数は3~5個など少ない方が良い。ポストイットに書くよりも紙の耐久力があり、あとあと残るものなので、おろそかにできず強制力を増してくる。やがてToDoをこなすことが目的化してくる。

続きは……


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by suikageiju | 2014-01-07 23:18 | 情報カード | Trackback | Comments(0)
中上健次が生まれた新宮市春日と聖地巡礼
 2013年12月31日19時のことだ。年が変わる5時間前に青春18切符を渋谷駅で購入した。あと5時間遅かったら買えなかったし、1月1日10時に旅立てなかっただろう。青春18切符を購入したときも、そして1月1日10時に出発したときですらその切符でどこに行くのか決めていなかった。登戸駅に立ったとき、電光掲示板の「立川」という文字と「川崎」という文字を見比べて、はじめて行き先を決めた。中央本線で名古屋まで行き、そこから紀勢本線で紀伊半島をまわって南から大阪に入ると決めたのだ。旅はそうやってなんとなしに始めるものだろう。モビーディックのイシュマエルの冒険もそうやってはじまったのだから。
 雪をかぶった山岳地帯を抜けて大都市名古屋を過ぎる。一日目は四日市で泊まった。二日目は午前6時に四日市を出て丸一日かけて紀伊半島の海沿いを走った。多気や新宮や紀伊田辺や御坊や和歌山といった紀伊半島の諸都市を経て大阪に辿り着いたときには夜の22時になっていた。
 新宮駅では2時間以上も紀伊田辺行きの電車を待った。その間に徐福公園や浮島の森を見て暇をつぶしていると、駅の近くで集合住宅群を見つけた。駅から徒歩3分もしないところに団地なんて珍しいなと思ったのだ。
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 その団地に近づいてみると草っぱらに「中上健次生誕の地とその付近」という看板が立っていた。どうやら駅近くで目に付く集合住宅群のひとつは『千年の愉楽』などの著書を持つ作家、中上健次の生誕地跡に建っていることになる。中上文学の読者である牟礼鯨を中本の血が引き寄せたのだろうか。その看板によれば中上健次作品に出てくる天地の辻や礼如さんとオリュウノオバの家とされるところも近くにあるらしい。つまりそこ新宮市春日は「路地」であるようなのだ。思いがけなく中上文学の「聖地巡礼」を果たしてしまった。
 看板をおしまいまで読んで周りを見渡した。真新しい新宮市人権教育センターが見える。そしてなんてことない町並みだ。若松孝二監督の『千年の愉楽』を新宿で観たけれど映画の中の「路地」をとりまく景色は海のある静かな漁村だった。もちろん新宮市春日地区は中上健次がいた当時から今に至るまでにだいぶ開発が施されているのだろうけれど、海は遠いし地形やら何やら違っていた。ひとり立ち尽くし狐にだまされたような気になった。実際の「路地」の景色よりも映画の中の「路地」の景色の方がイメージに合っていた。何で実際の「路地」を見てしまったのだろうと後悔の念に襲われた。それは映画の中の「路地」を観てしまったときの後悔に似ていた。
 ウルスラの顔をこうだと提示されてしまったら『百年の孤独』のイメージがいくつか損なわれてしまうように、文学作品の場合、所謂「聖地巡礼」はその作品が持つ地理への想像を損なう危険がある。中上健次の「路地」については映画の「路地」の方が良かったし、更に言うなら文字情報だけの「路地」のままにしておきたかった。
 文学作品も分かりやすく伝達するために挿絵がついていたり、メディアミックスで映画化されたり漫画やアニメになったりする。そういったことでその文学作品の知名度が高くなるのは良いことだ。でもそういったことでその文学作品を受容するのに支障を来たすこともありえると考える。そして実際に支障を来たしていて、読み手の側が鈍くなっていて気づいていないだけなのだ。でも映画化や漫画・アニメ化を抗議するのは筋違いだ。だから、本来的に漫画やアニメとして描かれるべきであった小説を除いて、文学作品を受容するときは読み手の側がよくよく注意して選択しなければならない。何の映画を観るべきではないのか、あるいはどこに行くべきではないのか。
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by suikageiju | 2014-01-03 23:19 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
ハープと影
古書ビビビで入手したカルペンティエールの『ハープと影』。ラテンアメリカ文学の魔術リアリズムは征服者コロンブスがカトリック両王へ送った偽りに満ちた報告書に端を発するのかもしれない。
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ジャンヌ・ダルクは1431年に異端審問にかけられ焚刑に処された死後、1456年に異端無効化裁判を経て1909年には列福、1920年には列聖された。19歳で死んだ彼女は4つもの宗教裁判を経てフランス、そしてカトリックを代表する聖人となった。また、大西洋を渡り新大陸へと到達したクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)も19世紀末に列聖されようとしていた。この本は3部構成からなり第1部の「ハープ」は教皇ピウス9世がコロンブスの列聖調査誓願書に署名するに至るまでの躊躇いを描き、第2部の「手」では聖人ならざるコロンブスが死を前に「インド」への航海前とその最中で犯した自身の罪を悔悛し、第3部「影」はコロンブス死後400年を経てシスティナ礼拝堂で執り行われた彼を列聖するための裁判の模様である。しかし、彼の列聖は「悪魔の代弁者」(ヨハネ・パウロ2世により廃止された役)の弁論により退けられる。ラテン・アメリカの作家であるアレッホ・カルペンティエールがコロンブスの列聖調査審問を描く、ただそれだけで本書は読むに値する。なぜなら、現在のラテン・アメリカ文化はコロンブスがいたからこそ存在しているからだ。コロンブスが列聖されようがしまいがラテン・アメリカは否応なく存在させられている。コロンブスの聖性は否定できるが、それでもなお彼の存在は否定できない。全てのラテン・アメリカ作家にとり、偽りに満ちたコロンブスは、そうだからこそ父親のような人物なのだ。この本はそんなどうしようもない父親を受け入れるための生温い目線である。
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by suikageiju | 2014-01-02 12:41 | ラテンアメリカ文学 | Trackback | Comments(0)