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棍棒の王
 ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説『愛その他の悪霊について』に、狂犬病の侯爵令嬢を診察した医師アブレヌンシオを描写する文章がある。アブレヌンシオ描写のなかで特に印象に残る一文だ。日本語では下記のようになる。
その姿はまるでスペイン式トランプの棍棒(クラブ)のキングそっくりだった。 (29頁、旦敬介訳、新潮社、2007)

 この文章から、なんとなくアブレヌンシオが堂々とした体躯をしているように読み取れる。けれど、どのような姿かまでは分からない。原文のスペイン語ではこうである。
Era idéntico al rey de bastos. (p.27, Debolisillo, 2013)

 逐語訳では「(彼は)棍棒の王と同じだった」である。棍棒(クラブ)のキングではなく棍棒(バスト=ワンド)のキングであった。それと「スペイン式トランプ」という文言は訳者の旦敬介氏が説明のために付け加えたのだろう。しかも日本語版では原文には書いていないこの「スペイン式トランプ」という言葉にご丁寧にも注解が付されている。
金(オロ)、聖杯(コパ)、剣(エスパダ)、棍棒(バスト)の四種の絵柄ごとに、1から9までの数字の札と、10がソタ(男の子の絵)、11がカバリョ(馬の絵)、12がレイ(王の絵)で13がない、計四十八枚の札を使って遊ぶカード・ゲーム。(190頁)

 ラテン・アメリカ文学に出てくるトランプはたいていこのスペイン式トランプ、ナイペスやバラハと呼ばれるデッキだ。原文に書いていない注釈的文言に注解とは滑稽ではあるが、いきなり「棍棒の王」と書かれていてもイギリス式トランプに慣れている日本人の読者には分からないので必要な注解であるのは確かだ。
 しかしなぜ「棍棒の王」なのだろうか。他の王ではダメだったのか。考える材料のために、その「スペイン式トランプ」ことナイペスの4枚の王(レイ)を並べてみた。上からフランスGrimaud社のナイペス、スペインFournier社のナイペス、そして一番下は参考のための日本の任天堂のイギリス式トランプ、いわゆるナップである。
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 スペイン式トランプの3枚の王は右を向いているのに、一番右に並べた棍棒の王は左を向いていることに気付いた。Grimaud社の棍棒の王は他の王よりも顔が少しふっくらとしていて唯一左を向いている。Fournier社の棍棒の王は他の王と違って右半顔だけこちらに向けていて、足の位置から他の王と違い臍も唯一左を向いている。任天堂の諸王にそれほど違いはないが、ダイヤの王の顔の向きがむしろ際立っている。弊社所蔵のナイペスでは棍棒の王だけ「向き」の点で他の王と少し違っていた。
 向きが違うのは分かった。しかしナイペスの棍棒の王からアブレヌンシオの姿を類推するのは難しい。原文とほとんど同じ意味の日本語版の文章を引用するとアブレヌンシオは「子供のような肥満した体格」をしているという。上の画像だけではその肥満っぷりはうかがい知ることはできない。でも、実際のカードから離れて考えると、剣や貨幣や聖杯を持っている王よりも棍棒を持っている王の方が筋肉質で肥満しているイメージはつく。ただそれだけだ。
 その他、タロットにおける小アルカナの「棍棒の王」の含意や脚韻の可能性についても考えてみたけれど結局、なぜ棍棒の王なのかについて自分で自分を納得させられなかった。しかし比喩とはそういうものなのかもしれない。それにこれはマジックレアリズムである。

愛その他の悪霊について

ガブリエル ガルシア=マルケス / 新潮社

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by suikageiju | 2014-03-26 22:40 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
モジノオト
 きっと3月8日は本の杜5だろうと思い込み、快天の下で川崎産業振興会館へ赴くと入口横の「本日の予定」に「本の杜」の文字列は見当たらなかった。ヤバい匂いがプンプンした。受付のオヤジに尋ねると本の杜5は翌3月9日開催との返事である。あまりにも残念で空はこんなにも青いので、堀之内で泡踊りなどをしたあとアートギャルリ谷中ふらここで開催されているというモジノオトへ出掛けた。
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 モジノオトの事前情報といえば非公式ガイドの推薦作会議で秋山真琴氏からもらったチラシくらいである。それによればモジノオトは第2回目で、絶対移動中および雲上回廊の共同開催みたいな形で運営されているらしい。そして主な題目は朗読劇とのこと。絶対移動中と雲上回廊といえば美麗な表紙や挿し絵によってその名を創作文芸界に轟かしているサークル群である。西日暮里駅から不忍通りの方へ下りていき、よみせ通りを左に折れて少し歩くと見知った顔がのっぺり立っている。最高責任編集者の高村暦女史である。「朗読劇は期待できるのですか」と尋ねると「場所を借りてやるのだから当然でしょう」と女史。そんな女史の立つところが谷中ふらここであった。
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 狭い階段をあがると「絶対移動中」と墨書された和紙が新興宗教のお題目のようにびっしりと垂れ下がって二階である。廊下を踏み越え、10人も入れば一杯になるだろう和室風の会場奥には祭壇のような低机が設えてあって中央に置かれたタブレットからは動画が流れ、その両脇には漫画風のイラストが飾られていた。また会場の壁には至るところに、たぶん文芸誌「絶対移動中」から抜き出した台詞が書かれているのだろう丸紙が貼られていた。階段の上、会場から廊下を隔てた対面には物販スペースが設けられ同人誌が頒布されている。
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 入場料として500円払い冊子やパンフレットを貰う。朗読劇は16時から始まった。三幅対の下、中央には秋山真琴氏、その右手には宵町めめさん、左手にはさつき女史が腰かけていた。3人ともスーツ姿である。満員の会場へ最後に入室したため、鯨は秋山氏とさつき女史のすぐ前に座らされ、45㎝あるやなしやの距離に鯨然とした鯨の顔を迎えさせ秋山氏を苦笑させてしまったことは済まなく思う。それにしても朗読中は目のやり場に困った。秋山氏の股間ばかりを見ているわけにもいかず、朗読者らの頭上に飾られた三幅対などを見たりさつき女史の彫刻めいたくっきりとした目鼻立ちを鑑賞したりしていた。朗読劇は秋山真琴氏の著作における世界観をもとにした書き下ろし台本を交互に読むという内容で、最初の四十分間は「これ大丈夫だろうか」と不安に思いながら聴いていたけれど最後の十分間で魅き込まれた。人の声を聞くだけでも朗読劇は心地よいものだ。ただ、練習不足と台本が朗読向きでないという感想だけは隠せなかった。でもこれはこういう形の朗読劇でありこういう会なのだから、鯨は充分なくらいモジノオトを堪能したのである。
 帰り道、外にいた伊藤鳥子女史に挨拶をし、西日暮里駅へ向かう道中で高村暦女史が、ウーンウーンと反芻する牛のように唸っていてまるですぐにでも呼吸するように批判めいた文言を口に出しそうだったので鯨は制止した。「Ustreamも非公開制だし、お客さんもどうやら内輪のようだ。つまりモジノオトは何から何までともだち会である。もし批判めいたことを口にするなら君はおともだちではなかった。ゆえにここにくるべきではなかった」、「入場料の500円だって本の代金という名目でとっているはずだ」しかし反論が帰ってきた。「なら最初から入場料ではなく本の代金と書くべきです」。確かにそうだと鯨は屈服した。そんな高村女史から聴いたのが青波零也氏が本格的に朗読教室に通っているという情報である。そして、どうやら今聴いたのは第2部でその青波氏が登壇した第1部は既に終わっていたらしい。
 その後、秋葉原の伍戒○すべてへ行き永田希氏の『モダン・ラブ』を購入した。
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by suikageiju | 2014-03-09 00:25 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
パリ書店めぐり
 フランスのパリに行ったことのない人はたいてい「パリなんてどうせ大したことはない」と思っているけれど、行ったことのある人は好きになったにせよ嫌いになったにせよ、従来の過小評価を覆される。ノーベル文学賞作家のアーネスト・ヘミングウェイは友人に
もし君が幸運にもパリで若者として暮らせたなら、その経験はずっと君の人生につきまとうだろう。なぜならパリは移動祝祭日だから。

と言った。パリについて考えるとき、この言葉、そして移動祝祭日という言葉は常につきまとう。ただの都市であるパリはただの人間を芸術家に変える。通りの吸殻だらけの片隅に、市場から見上げたアパルトメンの欄干に、美術館の階段下の暗がりに、チーズのむせかえるような匂いただよう地下鉄に、旅人はきっと祝祭的な機微が隠されているように思わされその機微を見いだそうとする。そうさせるのはパリが移動祝祭日だから。
 パリ滞在中、ポンピドゥ・センターヨーロッパ写真美術館とrue du Cinémaにあるフランソワ・トリュフォー映画図書館へ行った他はセーヌ川左岸、ラテン地区(quartier latin)にある書店(librairie)を巡った。街歩きの最中に見つけた書店もあれば、人に教わった書店もある。
 ヘミングウェイがパリ時代に通ったShakespeare and Company(37 Rue de la Bucherie)はパリの名物書店で、英語書籍を専門としている。戦間期にはジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』を出版した書店としても知られる。
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中は英語の本が所狭しと並べられている。
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2階は読書スペースやメッセージペーパー掲示板があり、単に書店としてよりも作家や読書家の交流スペースとして活用されている。
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 シテ島の南、サン・ミッシェル橋からラテン街へ渡っての左右に、黄色地に黒い男の顔の看板が目立つ書店Gibert Jeuneがある。この手の少し大きいパリの書店によくあることなのだが、専門によって店舗が分かれている。写真は文学書、美術書、写真集、バンドデシネ、パリ案内書や文房具のある、シテ島から見て左手の店舗だ。日本では考えられないフランスの書店の特徴として、古書と新刊書が一緒の棚に並んでいる。同じタイトルが古書と新刊書ともに並べて置いてあることもある。
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 Boulinier(20 Boulevard Saint-Michel)は店頭で古書が0.2ユーロで投げ売りされている。何でもいいからフランス語の本を買いたい人はここに立ち寄ると安く何かを買える。バンドデシネも充実。
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 Librairie Compagnie(58 Rue des Ecoles)は人文学系の専門書店である。店の奥には文学書や美術書がある他、地下には政治経済、社会科学、哲学系の本が置いてある。
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 Rue des Ecolesには書店が多く、専門書店が数軒ある。なかにはアフリカ専門の書店もある。
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 美術書専門古書店の店頭はフランス語を読めなくても楽しめる。
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 Les Autodidactes(53 Rue du Cardinal Lemoine)は「独学者たち」と気取った店名を名乗る、白髭の老爺が経営している雰囲気抜群の書店。シュールレアリスムやダダイスム、前衛などの美術書に強い専門古書店らしい。
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 Le Pont Traversé(62 rue de Vaugirard)はリュクサンブール公園北辺の通りを西に進んだ右手にある書店。19世紀~20世紀半ばまでの書籍が多い。いわゆる水彩画で思い描いたようなパリの古書店。
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 Gibertなどのチェーン店でなければ、書店同士のネットワークも強い。もし欲しい本があればどこかの書店員に声をかけるのが最適解だろう。その書店になくても他の書店にあれば教えてくれる。おそらく書店員はMarelibreなどの検索サイトを使っているので声をかける前に自分で調べてから書店を訪問するのも手だ。
 ルーブル、オルセー、シャンゼリゼ通り、オペラ座といった典型的な観光地では飽きたらぬ人は、ラテン街を書店めぐりという目的を持って散策してはどうだろうか。パリに新たな影が加わるだろう。
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by suikageiju | 2014-03-03 01:45 | 雑記 | Trackback | Comments(0)
ジョアン・フォンクベルタのカモフラージュ展
 パリ4区にあるヨーロッパ写真館でカタルーニャ人のシュールレアリスト、ジョアン・フォンクベルタ(ホアン・フォンクベルタ、Joan Fontcuberta)のカモフラージュ(Camouflages、偽装、擬態)展を見た。まず地下階へ行き、その階段横に並んでいる本やHERBARIUMの展示室を見ても、その意図に気付かなかった。FAUNEの展示室における、トリケラトプスのような背鰭のついた鰐や二本脚の生えた貝の偽剥製を見て、それらとケンタウルスのように下半身が四足動物であるチンパンジーについての写真を見て鳴き声を聴いて、ただ鼻行類めいた癖のある衒学趣味だけを連想していた。しかし階段を昇り、人魚の化石発見のドキュメンタリー風映像を見て、そこにジョアン・フォンクベルタ自身が神父の服を着て立ち現れて、展示された写真機や絵具や顕微鏡、そして階段に並べられた本や奇妙な植物写真の意図に気付いた。
 それらは中世や近代の権威的博物学、あるいは共産主義的なプロパガンダ、アメリカ帝国主義による映像操作へのカモフラージュ・オマージュであり、揶揄である。そして更に一歩進んで新たな自己の創造である。
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 ジョアン・フォンクベルタは芸術家を、現実を、真実を偽装するために別の世界と別の自分自身を写真と展示品によって創造していたのである。そしてピカソやミロやダリの偽写真を見て森村泰昌を連想し、「スプートニク」でジョアン・フォンクベルタが宇宙服を着てニッコリ笑っている写真を見て、自然と声を出して笑った。シリアだかパレスチナだかの街を背景にジョアン・フォンクベルタがアラブの服を着て座っている写真を見て、彼ならば何にでもなりたい職業に就けるのだし、なりたい人物になれるのだと考えた。これらを国家的虚構へのオマージュとだけ捉えるのはつまらない。これらは「自分」という可能性への挑戦である。
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 小説家があらゆる職業を疑似体験できるように、ジョアン・フォンクベルタはその作品によってあらゆる職業を僭称できる。その僭称は宇宙を夢見た子供の頃の落描きや写真やスケッチ、それから新聞などによって補強され現実味を帯びる。真実かどうかはどうでも良い。
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 思い出には実際の経験なんて必要なく、思い出を喚起する写真や記念品だけあれば思い出は構成され、記憶という名の印画紙に焼き付けられる。だから写真や記念品は偽造されたものでも構わず、思い出も色褪せない。「これが真実なのだ」そう言って、実際にそう思い込んで写真や記念品を差し出せばシュールレアリスム的にはそれはもう真実なのだ。
 ジョアン・フォンクベルタの作り込みの本気さにビビった。
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by suikageiju | 2014-03-01 00:17 | 雑記 | Trackback | Comments(0)